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「そうだよ‼︎ でも無理‼︎ 結婚なんて私にできるか! 私がなんて呼ばれてると思ってるのよ、『恋知らずの聖女』よ⁉︎ もうすぐ二十歳なのよ、淑女教育だって受けてないのよ、今さら花嫁なんてできないってば‼︎」
「エリーがバタバタしてるのって面白いよねえ。これがあの聖女エレオラだっていうんだから、女優もびっくりの変わりようだよ。舞台に出たらどうだい?」
「観客になるな! 絶対に巻き込んでやる‼︎」

 そう、道ゆく人々の憧憬の視線を集めてやまない聖女エレオラは、唯一、従兄弟のノインの前でだけは、ただの少女エリーに戻ってしまうのだった。しかも、割と声がでかめの。

 ——エレオラは、私みたいになってはダメよ。こんな不幸な女には。

 かつて神殿へ手放されたとき、母はエレオラにそう告げた。

 母であるノア=シュデルツは元聖女だった。王妹として生を受けた彼女は体が弱く、王室の人間としては生きていけなかった。後継ぎを生むべき政略結婚の駒としては用をなさないという意味だ。政争の火種になることを避けるため、ノアは神殿に入り、聖女として穏やかな日々を過ごしていた。

 それを打ち破ったのがエレオノーレ家当主、リゲル・エレオノーレとの出会い。二人は激しい恋に落ち、リゲルはあちこち手を回して、なんとかノアと結婚した。そして愛し合い、奇跡的にエレオラという娘まで授かった。絵に描いたように幸せな結末だった。

 だが蜜月は長く続かない。

 エレオラが九歳のとき、突如としてリゲルが失踪した。ほうぼう手を尽くしても見つからず、やはりひ弱な元聖女では夫を満足させられない、若い愛人と駆け落ちしたに違いない、などと下世話な噂が広がる始末。公爵家として醜聞を広めるわけにはいかぬ、と父の弟であるアレンが代理当主の座に就いたのは数ヶ月後。そのとき、後継問題で揉めないようにエレオラはエレオノーレ家と絶縁する形で神殿に入ったのだ。

 その日はひそやかに雨が降っていた。天霧る空の下、糸雨に濡れた神殿は、灰色の獣がうずくまっているようだったのを覚えている。幼いエレオラは薄々何が起きているのか勘づいていて、不安がって母のドレスにしがみついた。そんな彼女の髪を撫でて、母は言い聞かせた。

 ——立派な聖女になりなさい。そうしたらきっと、大切なものを守れるわ。

 母はしゃがんでエレオラと目線を合わせた。周囲の従者の誰も、彼女に傘をさしかけなかった。か細い雨を受けた母の前髪からは雫がいくつも流れ落ち、青ざめた頬を滑っていく。

 母は諦めたように笑っていた。こんなに悲しい顔をエレオラは見たことがなかった。泣きたくなって、慌ててぎゅっと目を瞑る。泣くのは立派な聖女のすることじゃない。

 でもどうしても一つだけ確かめたくて、エレオラは涙のたまった目で母の顔を見つめながら聞いた。

 ——立派な聖女になったら、またお母さまとお父さまに会える?

 エレオラの髪をかき撫でる母の動きが止まった。彼女は一度だけ目を閉ざし、それから綺麗に微笑って頷いた。

 ——ええ、エレオラが立派な聖女になったら、きっと迎えに来るわ。

 最後に、母の手が、エレオラの形を覚えようとするように、エレオラの頭を撫で、頬をつたい、肩をたどっていった。

 それが別れだった。

 そうやって胸に刻まれた母の言葉を、それからエレオラは懸命に紐解いた。

 聖女とは、魔力を持った女性のみが許される奉仕職だ。神殿で神に祈り、悪魔の呪いを祓い、王国に魔獣が現れれば騎士団とともに浄化を行う。また貧民街で炊き出しを行ったり、行き場のない子供を引き取ったりもしていた。

 立派な聖女になるのは簡単ではない。けれどやることは明白だった。十年間、エレオラは聖女としての仕事に血道をあげ、取り憑かれたように聖女エレオラという偶像を作り上げた。幸いにも、人のために尽くすのは性に合った。聖女の仮面は、もはや幼い頃から見知っているノイン以外の前では剥がせないくらいにエレオラに癒着している。

 しかし、「私みたいにはなってはダメ」とはどうしたらいいのか。

 必死にノア・エレオノーレの人生を追った。当時の新聞記事を調べ、社交界の聞くに耐えない噂を聞き出し、うんうん言いながら年表を作った。彼女の不幸の始まりは、明らかにリゲルとの出会いだった。そうして結論づけた。

 ——恋によって不幸になったノア・エレオノーレにならないためには、恋をしなければいい。
 ——聖女エレオラは、絶対に、恋をしてはならない。

 暗い道の中で、行く先を照らす油燈カンテラを手に入れたようだった。恋をせず、立派な聖女になれば、いつか迎えが来て、家族でまた暮らせる。エレオラの胸にはそんな夢がいつも咲いていた。

 ノアはそのあと流行病で亡くなってしまい、もう二度と会えないのだけれど。

 それでも母の言葉はエレオラの心に根を張って、生き方なんて到底変えられそうにない。

(なのに、こんな形でエレオノーレ家に戻ることになるなんて)

 エレオラは長い金髪をかきむしった。

「叔父様はどこに私を嫁がせるつもりだと思う⁉︎ 家柄の釣り合いを考えてフィル公爵家? それとも最近勢いがあるアルビナ伯爵家? 行き遅れの元聖女を一体どこが欲しがるっていうの?」
「政略結婚だろう? 気にすることないよ。アレン・エレオノーレが万事上手く取り計らうさ。ちなみに僕は、どちらでもないと思う」
「そりゃどうにだってなるでしょうが……うん? ノインは私がどこに嫁ぐと考えてるの?」

 のっそりと頭を上向け、乱れた髪の隙間から睨めつけても、ノインは謎めいた笑みを浮かべるばかりで答えなかった。ひとしきり楽しそうにニヤニヤし、それからキュッと口元を結ぶ。

 真面目な顔で、床に這いつくばるエレオラを見下ろした。

「どこぞの貴族と結婚するなら、聖女もやめなくてはならないんだろう。——それは残念だよ、本当に」
「うう……私だって嫌よ! こっちは生涯聖女のつもりだったんですからね! なんとか聖女のまま結婚できない?」
「そういう例はないなあ。無茶を通すなら、他の無茶をぶつけてすべてをうやむやにするしかないよね」
「今から急に隠し子とかが現れて、何もかもをめちゃくちゃにしてくれないかな……」
「望み薄だねえ」
「こんなふうにノインと話せるのも最後ってこと? 割と心の拠り所なのに?」
「第一王子の執務室はお悩み相談室じゃないんだけど。でもまあ、なんとかなるよ。頑張れー」
「全然心のこもっていない応援をありがとう。……私は、立派な聖女にはなれなかったな」
「……エリー」

 ノインが何か言いかけたところで、扉が外からノックされた。エレオラは目にも止まらぬ速さで身支度を整え、聖女然とした顔でその場に立ち上がる。
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