上 下
3 / 23

3

しおりを挟む
「殿下。財政審議のお時間です」

 扉を開けてするりと姿を現したのは、ヴァールハイトだった。すでに王子の顔に戻っているノインは「ああ」と頷き、エレオラに微笑みかける。

「聖女エレオラ、報告をありがとう。僕は次の会議があるから」
「お時間いただきありがとうございました」

 優美な仕草で頭を下げ、ノインを送り出す。ふう、と息をついて顔を上げたとき、まだ執務室にヴァールハイトがいたので、エレオラはぎょっと顔をこわばらせた。

「……あの、殿下についていかなくても?」

 ヴァールハイトは一歩エレオラに近づき、鋭く睨みつけてきた。まじまじとエレオラの頭のてっぺんから爪先まで視線を巡らせ、重々しく口を開く。

「結婚するというのは本当か? 結婚したら聖女をやめ、もうここには来ないんだな?」

 妙に凄みを帯びた声音だった。よほど自分に会いたくないのだろう、だからきちんと確認しておきたいに違いない。そう考えて、エレオラは安心させるように微笑んで諾う。

「そうですね、聖女はあくまで神に尽くす身。誰かの妻となれば夫に尽くさねばなりませんから、結婚するなら聖女をやめるのが通例です。まあ、邪竜でも斃す騎士相手なら、聖女のまま嫁ぐことも可能でしょうが」
「ほう?」
「それくらいあり得ない話ですから、大丈夫ですよ。もうお会いすることもないでしょう」
「邪竜とはなんだ」

 かすかに首を傾げて問われ、エレオラは目を瞬かせた。それはこの国の人間なら、子供の頃から伝え聞かされることだった。

「霊峰ティオールに棲む太古の竜のことですよ。口からは炎を吐き、その血は大地を汚染する。鱗はどんな名剣をも弾き返し、大きな顎に並んだ牙はどんな鎧も貫通してしまう。唸り声は草木を枯らし、目があったものを石に変える。そんな呪われし生き物です。おかげでティオール山には誰も近づきません」

 子供の頃に悪戯をすると、「悪い子はティオールの竜に喰わせてしまうぞ!」など大人から怒られるのがお決まりだった。エレオラも神殿の見習いの子供たちをそう叱ったことがあるし、逆に叱られたこともある。胸のくすぐったくなる思い出だ。

 ヴァールハイトには、そういう大人がいなかったのだろうか。

 ちら、とヴァールハイトを見やったが、彼は気にした様子もなく「なるほどな」と呟いて腕を組んでいた。緋色の瞳をすがめ、

「聖女はそういう男と結婚するのか」
「……聖女と竜殺しの騎士なんて、いかにも御伽噺めいた組み合わせですね」

 つまり、すべては夢物語なのだ。そんなことはあり得ない。世界はそういうふうにできている。
 エレオラはつかの間目を閉じた。まぶたの裏に日差しが透けて、オレンジ色に染まっていた。

 目を開ける。ヴァールハイトは何事か考え込んでいて、エレオラの様子には気づかなかったようだった。

 すっと背筋を伸ばし、エレオラは聖女らしい微笑みを浮かべた。

「それでは、私はこれで。次の定例報告の担当者には、優しくしてあげてくださいね」
「……なんのために?」

 心底不思議そうにヴァールハイトが言うので、エレオラはおかしくなってしまった。もしかするとこの男は、聖女が嫌いなのかもしれない。

「私は平気でしたが、気の弱い方だと怯えて逃げてしまうかもしれないからです。ヴァールハイトさまはとても迫力がある方なのですよ?」
「あなたは平気だったのだろう? なら構わない」

 そう言って、ヴァールハイトが淡く笑った。
 口元に滲むような仄かな笑みに、エレオラは思わず目を奪われる。彼が笑うところを見るのは初めてだった。いつもの不機嫌そうな顔つきとはまるで違う、いとけないと言ってもよい顔だった。

「……なんだ」

 しかしその笑みはすぐにかき消えてしまう。エレオラが見つめていると、ヴァールハイトは苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。

「いえ、最後に良いものを見られたと思いまして」
「なんの話だ」
「言ったら怒られそうなので、秘密です」

 意趣返しにぱちんと片目を瞑る。ヴァールハイトの顔から音もなく表情が抜け落ちた。これはまずい、と背中に冷や汗が流れて、本気で怒りを買う前にすたこらと執務室から逃げ出す。いつ背後から斬られるか怯えていたが、幸いにも、彼は追ってはこなかった。

 聖女として彼に会うのも、これが最後。今まで散々睨まれてきたのだ、少しくらいの悪戯は許してほしい。

(……どこかの貴族の奥方になったら、今まで当たり前に会えていた人には、もう会えないんだ)

 エレオラはぎゅっと両手を握りしめ、何かを振り払うように早足で歩き続けた。
しおりを挟む

処理中です...