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正しい花嫁の振る舞いなんてちっともわからないので、ひとまずベッドに腰かける。観念して上着を脱ぎ、畳んで枕元に置いた。そうして少し待っていると、廊下を駆けてくる足音がして、勢いよく扉が開かれた。
「——エレオラ!」
まだ騎士服姿のヴァールハイトだった。息を弾ませ、血濡れたような目を見開いて、ベッドにちょこんと座るエレオラを凝視する。ひい、とエレオラはわずかに悲鳴をあげた。
「あ、あの、ヴァールハイトさま、お、おかえりなさ……」
「——可愛い」
「は?」
ヴァールハイトの薄い唇から漏れた声に、エレオラは聞き違いかと眉根を寄せた。だが、ヴァールハイトはもう一度、噛みしめるように、
「可愛すぎる……」
「……あの?」
彼は後ろ手に扉を閉めて、おまけにガチャンと鍵までかけると、大股でエレオラの元へ歩いてきた。その手つきは荒っぽく、寝室には錠を落とした重い音の余韻がまだ反響している。
エレオラの足元に跪き、ヴァールハイトはこちらを見上げてきた。黒手袋を穿いた手の指先を噛み、手袋を外して床に放り投げると、おそるおそる、といったふうに手を伸ばしてエレオラの頬に触れる。ヴァールハイトの長い指が、ぷに、とエレオラの頬をへこませる。
「……柔らかい」
「それは……どうも?」
褒められているのか貶されているのかわからない感想に、エレオラの返事も疑問系になってしまう。太っているということ?
ヴァールハイトはしばらくエレオラの頬をつついたり撫でたりしていたが、やがて満足したのかエレオラの隣に腰かけた。
そうして今度は彼女の手のひらを両手で掴んで、ムニムニと何かを確かめ始める。
「柔らか……くもないな。働いている人間の手だ」
「ありがとうございます」
これには即答できた。それはエレオラにとっては褒め言葉だ。令嬢からはほど遠い、引っかき傷や羽ペンだこのできた手のひら。聖女として立ち働く日々が、家族と離れて積み重ねた時間が、確かに手元に残っているのだと思えた。
自分の手を包む、ヴァールハイトの手に視線を送る。
(ヴァールハイトさまの手も同じだわ。手のひらは硬いし、剣だこもできている。ずっと、騎士として生きてきた人の手だ)
ずいぶんと熱っぽい、大きな手。節くれだった指がするりと手首の裏側を撫でて、腕に鳥肌が立った。気持ち悪いというわけではない。けれどなんだかきまり悪い心地になって、早く終わってほしい、と祈るように思った。知ってはいけないことを知ってしまいそうで、ここで引き返したかった。
「あの、ヴァールハイトさま。色々とお尋ねしたいことがあるのですが」
「うん?」
ひどく優しげな面持ちを向けられて、エレオラは息を詰める。先ほどから、ヴァールハイトの様子が、おかしい。
けれど質問しなければ答えは得られない。頬の内側を噛み、おもむろに口を開けた。唇にはもてなしの一環として何かのオイルが塗られていて、いつになく潤いを帯び、ひっかかりもなく滑らかに動いた。
「……なぜ、私と結婚しようと思ったのですか?」
ヴァールハイトの眉がぴくりと反応する。そして、エレオラの手を強く握りしめたまま顔を寄せてきた。瞳の底を覗き込むようにされて、思わず身を引いてしまう。だがそれを許さぬように、ぐいと手を引き寄せられた。
二人の顔が近づいた。互いの瞳に互いの顔が映っているのがわかるほど。
エレオラはふっと呼吸を止める。唇が触れ合ってしまいそうで緊張が走った。
ヴァールハイトはそれを気にしているのかいないのか、とてつもなく重要な問いかけをするように低めた声音で、
「——剣を握ったことはあるか?」
「あ、ありません。私は聖女ですよ」
なるべく唇を動かさないようにして答える。聖女が剣を使うなど聞いたことがない。神殿が非武装だから守れる民もいるのだ。聖女自身がいくら傷ついたとしても、自衛のための武器を持つわけにはいかなかった。聖女は、最後には命を擲って、守りたいものを守るしかない。
しかしヴァールハイトはなぜか満足そうに頷くと、間近でうっとりと微笑んだ。
「そうだろう。だから俺はエレオラと結婚した」
「ど、どういう意味ですか?」
「聖女は剣を持たない。だが、ただのエレオラになればその限りではない。斬れ味の良い剣が必要なときには俺を呼べ」
エレオラは視線だけを下向ける。ヴァールハイトはまだ腰に長剣を帯びていた。
「……ええと、その剣を貸してくださるということですか?」
「なぜだ? 斬れ味の良い剣が必要なんだろう?」
「ですからそれが名剣なのでは?」
「これは上級騎士に与えられるもので、作りはいいが業物というほどではない」
「そうなんですか?」
「ああ。エレオラは俺の花嫁だろう。だから俺をそばに置け。他のものは持つな。剣は一振りだけあればいい」
会話が噛み合わなくてエレオラは首を傾げる。ヴァールハイトの言葉はまるで——彼自身が剣であるかのような言い様だ。
自分の考えに、背筋を冷たい汗が流れる。馬鹿なことを、と否定したいのに、眼前で見開かれる緋色の瞳が妙な信憑性を帯びて迫ってくる。
(でも、ヴァールハイトさまは人間だもの。……なんか挙動がおかしいけれど、邪竜の首を落としたけれど、でも私と同じ人間でしょう? どこかで分かり合えるところがあるはずでしょう?)
ヴァールハイトがわずかに頭を傾けて、とろりと囁いた。それは求愛にも似た甘やかさでエレオラの耳を打った。
「誰かを斬りたいときは俺に言え。エレオラに使われるのが俺の喜びだ。邪魔をするものは皆殺しにしてやるからな」
美しいかんばせには蕩けるような微笑が浮かんでいて、けれど言葉が悲しいほどにそれを裏切っている。エレオラの手がわずかに揺れた。ヴァールハイトがなだめるようにつないだ手のひらを親指で撫でる。伝わる熱が、肌の奥に焼きつきそうだった。
口先だけだ、とはとても思えなかった。彼はすでにいくつもの武功を立て、邪竜を殺し、エレオラを手中に収めている。やると言ったらやるだろう。
エレオラはわなないて息を吸う。今まで見たことのない種類の人間相手に、顔から血の気が引いていくのがわかった。
どんな応えが正解なのか見当もつかない。全力で逃げたかった。けれど、逃げるわけにはいかなかった。エレオラは聖女で、そしてヴァールハイトの花嫁なのだ。誰かを斬らせるわけにはいかないし、ましてや皆殺しなどもってのほか。聖女エレオラなら、そんなことは決して許さないだろう。
心臓が激しく脈打っている。どうか悟られませんように、と願いながら、精一杯はっきりと告げた。
「いえ、今のところその予定はありません」
「残念だ……」
しゅん、と眉を下げるのが妙におかしい。本気で残念そうだった。エレオラは不覚にも口元を緩めてしまい、なんだか可愛らしい、と思いかけてハッとする。全然可愛くない。こんな物騒な可愛いがあってたまるか。
必死に気を引きしめていると、ヴァールハイトが何事か考えるように視線を宙空にさまよわせた。だがすぐにエレオラに目を戻し、おそろしく真剣な顔つきで、
「それなら、触れていいか?」
「何が『それなら』なのかさっぱり分かりませんが。さっきまでベタベタ頬や手を触っていたのはどなたです」
「そうではなく」
は、と吐息だけで笑う。片手でエレオラの肩を掴み、もう一方の手をエレオラの下腹部に滑らせた。薄いレースの寝衣は簡単に男の手の侵入を許す。直接触れる肌の感触が伝わってくる。初めて与えられたくすぐったさはひどく甘く、体全体が痺れたようになって、エレオラは思わずヴァールハイトの胸元に倒れ込んだ。その耳元で、熱情にかすれた声が囁かれる。
「……もっと深いところまで」
それはなんだか、剣で貫かれるようで。エレオラの喉の奥でひゅっと空気が鳴った。
限界だった。
「——エレオラ!」
まだ騎士服姿のヴァールハイトだった。息を弾ませ、血濡れたような目を見開いて、ベッドにちょこんと座るエレオラを凝視する。ひい、とエレオラはわずかに悲鳴をあげた。
「あ、あの、ヴァールハイトさま、お、おかえりなさ……」
「——可愛い」
「は?」
ヴァールハイトの薄い唇から漏れた声に、エレオラは聞き違いかと眉根を寄せた。だが、ヴァールハイトはもう一度、噛みしめるように、
「可愛すぎる……」
「……あの?」
彼は後ろ手に扉を閉めて、おまけにガチャンと鍵までかけると、大股でエレオラの元へ歩いてきた。その手つきは荒っぽく、寝室には錠を落とした重い音の余韻がまだ反響している。
エレオラの足元に跪き、ヴァールハイトはこちらを見上げてきた。黒手袋を穿いた手の指先を噛み、手袋を外して床に放り投げると、おそるおそる、といったふうに手を伸ばしてエレオラの頬に触れる。ヴァールハイトの長い指が、ぷに、とエレオラの頬をへこませる。
「……柔らかい」
「それは……どうも?」
褒められているのか貶されているのかわからない感想に、エレオラの返事も疑問系になってしまう。太っているということ?
ヴァールハイトはしばらくエレオラの頬をつついたり撫でたりしていたが、やがて満足したのかエレオラの隣に腰かけた。
そうして今度は彼女の手のひらを両手で掴んで、ムニムニと何かを確かめ始める。
「柔らか……くもないな。働いている人間の手だ」
「ありがとうございます」
これには即答できた。それはエレオラにとっては褒め言葉だ。令嬢からはほど遠い、引っかき傷や羽ペンだこのできた手のひら。聖女として立ち働く日々が、家族と離れて積み重ねた時間が、確かに手元に残っているのだと思えた。
自分の手を包む、ヴァールハイトの手に視線を送る。
(ヴァールハイトさまの手も同じだわ。手のひらは硬いし、剣だこもできている。ずっと、騎士として生きてきた人の手だ)
ずいぶんと熱っぽい、大きな手。節くれだった指がするりと手首の裏側を撫でて、腕に鳥肌が立った。気持ち悪いというわけではない。けれどなんだかきまり悪い心地になって、早く終わってほしい、と祈るように思った。知ってはいけないことを知ってしまいそうで、ここで引き返したかった。
「あの、ヴァールハイトさま。色々とお尋ねしたいことがあるのですが」
「うん?」
ひどく優しげな面持ちを向けられて、エレオラは息を詰める。先ほどから、ヴァールハイトの様子が、おかしい。
けれど質問しなければ答えは得られない。頬の内側を噛み、おもむろに口を開けた。唇にはもてなしの一環として何かのオイルが塗られていて、いつになく潤いを帯び、ひっかかりもなく滑らかに動いた。
「……なぜ、私と結婚しようと思ったのですか?」
ヴァールハイトの眉がぴくりと反応する。そして、エレオラの手を強く握りしめたまま顔を寄せてきた。瞳の底を覗き込むようにされて、思わず身を引いてしまう。だがそれを許さぬように、ぐいと手を引き寄せられた。
二人の顔が近づいた。互いの瞳に互いの顔が映っているのがわかるほど。
エレオラはふっと呼吸を止める。唇が触れ合ってしまいそうで緊張が走った。
ヴァールハイトはそれを気にしているのかいないのか、とてつもなく重要な問いかけをするように低めた声音で、
「——剣を握ったことはあるか?」
「あ、ありません。私は聖女ですよ」
なるべく唇を動かさないようにして答える。聖女が剣を使うなど聞いたことがない。神殿が非武装だから守れる民もいるのだ。聖女自身がいくら傷ついたとしても、自衛のための武器を持つわけにはいかなかった。聖女は、最後には命を擲って、守りたいものを守るしかない。
しかしヴァールハイトはなぜか満足そうに頷くと、間近でうっとりと微笑んだ。
「そうだろう。だから俺はエレオラと結婚した」
「ど、どういう意味ですか?」
「聖女は剣を持たない。だが、ただのエレオラになればその限りではない。斬れ味の良い剣が必要なときには俺を呼べ」
エレオラは視線だけを下向ける。ヴァールハイトはまだ腰に長剣を帯びていた。
「……ええと、その剣を貸してくださるということですか?」
「なぜだ? 斬れ味の良い剣が必要なんだろう?」
「ですからそれが名剣なのでは?」
「これは上級騎士に与えられるもので、作りはいいが業物というほどではない」
「そうなんですか?」
「ああ。エレオラは俺の花嫁だろう。だから俺をそばに置け。他のものは持つな。剣は一振りだけあればいい」
会話が噛み合わなくてエレオラは首を傾げる。ヴァールハイトの言葉はまるで——彼自身が剣であるかのような言い様だ。
自分の考えに、背筋を冷たい汗が流れる。馬鹿なことを、と否定したいのに、眼前で見開かれる緋色の瞳が妙な信憑性を帯びて迫ってくる。
(でも、ヴァールハイトさまは人間だもの。……なんか挙動がおかしいけれど、邪竜の首を落としたけれど、でも私と同じ人間でしょう? どこかで分かり合えるところがあるはずでしょう?)
ヴァールハイトがわずかに頭を傾けて、とろりと囁いた。それは求愛にも似た甘やかさでエレオラの耳を打った。
「誰かを斬りたいときは俺に言え。エレオラに使われるのが俺の喜びだ。邪魔をするものは皆殺しにしてやるからな」
美しいかんばせには蕩けるような微笑が浮かんでいて、けれど言葉が悲しいほどにそれを裏切っている。エレオラの手がわずかに揺れた。ヴァールハイトがなだめるようにつないだ手のひらを親指で撫でる。伝わる熱が、肌の奥に焼きつきそうだった。
口先だけだ、とはとても思えなかった。彼はすでにいくつもの武功を立て、邪竜を殺し、エレオラを手中に収めている。やると言ったらやるだろう。
エレオラはわなないて息を吸う。今まで見たことのない種類の人間相手に、顔から血の気が引いていくのがわかった。
どんな応えが正解なのか見当もつかない。全力で逃げたかった。けれど、逃げるわけにはいかなかった。エレオラは聖女で、そしてヴァールハイトの花嫁なのだ。誰かを斬らせるわけにはいかないし、ましてや皆殺しなどもってのほか。聖女エレオラなら、そんなことは決して許さないだろう。
心臓が激しく脈打っている。どうか悟られませんように、と願いながら、精一杯はっきりと告げた。
「いえ、今のところその予定はありません」
「残念だ……」
しゅん、と眉を下げるのが妙におかしい。本気で残念そうだった。エレオラは不覚にも口元を緩めてしまい、なんだか可愛らしい、と思いかけてハッとする。全然可愛くない。こんな物騒な可愛いがあってたまるか。
必死に気を引きしめていると、ヴァールハイトが何事か考えるように視線を宙空にさまよわせた。だがすぐにエレオラに目を戻し、おそろしく真剣な顔つきで、
「それなら、触れていいか?」
「何が『それなら』なのかさっぱり分かりませんが。さっきまでベタベタ頬や手を触っていたのはどなたです」
「そうではなく」
は、と吐息だけで笑う。片手でエレオラの肩を掴み、もう一方の手をエレオラの下腹部に滑らせた。薄いレースの寝衣は簡単に男の手の侵入を許す。直接触れる肌の感触が伝わってくる。初めて与えられたくすぐったさはひどく甘く、体全体が痺れたようになって、エレオラは思わずヴァールハイトの胸元に倒れ込んだ。その耳元で、熱情にかすれた声が囁かれる。
「……もっと深いところまで」
それはなんだか、剣で貫かれるようで。エレオラの喉の奥でひゅっと空気が鳴った。
限界だった。
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