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寝室の窓の外ではとうに日が暮れて、インクを流したような夜空が広がっていた。天頂には、繊月が白銀の鉤のように引っかかっている。
窓辺に立って、はるかに瞬く星影を眺めながら、エレオラは途方に暮れていた。
(今から……初夜ということになってしまった……)
ハンナが告げるところによると、出仕しているヴァールハイトから伝令が届いたらしい。
いわく、花嫁を『丁重に』もてなすように、と。
それを聞いたハンナを筆頭とするメイドたちは、腕まくりをしてエレオラを『もてなした』。大理石の浴槽にいい匂いのするお湯を満たし、可愛らしい花を浮かべ、エレオラを浴室に放り込んで四人がかりで丸ごと洗った。神殿では大浴場を使っていたとはいえ、誰かに体を洗われた経験などない。あまりの恥ずかしさに泣きそうだった。けれど聖女は泣いたりしない、と必死に唇を噛みしめてやり過ごした。
そのあとはまたメイドが三人がかりで、エレオラの長い金髪を花の香りのするオイルで梳った。その他にも、日々の務めで荒れたエレオラの手に、甘やかなクリームを塗って爪先までぴかぴかにする。目が回りそうなエレオラは、ここでもやはり、泣きたくなるのを我慢した。
しかし、寝室でハンナから渡された着替えを見て、とうとう口から弱音がこぼれた。
「これ……これはほとんど下着ではないですか⁉︎」
「初めての夜を迎える花嫁のための寝衣ですよ」
「下着ですって!」
「特別な下着です」
ハンナも認めた。エレオラはがっくりと肩を落とす。
手渡されたのは、白いレースとフリルがあしらわれた、丈の短いワンピースだった。といってもレースはほとんど透明に見えるほどあえかで、胸元だけはフリルで覆われているものの、他は肌が透けてしまう。揃いの下衣はやはり純白で、サテンのリボンを結んで腰の横で固定するという代物だった。なんだこの仕様は。頼りなさすぎる。
「とてもよくお似合いですから大丈夫ですよ」
「どこに大丈夫な要素が……?」
「ヴァールハイト様がいらっしゃるまでは、上に何か羽織っておけば良いですから! ほら、泣かないでください!」
「な、な、泣いておりません!」
嘘だ。本当はちょっと目尻に涙が滲んでいた。
寝室に突っ立つエレオラの肩に上着をかけて、ハンナは退出してしまった。上着にしっかり袖を通し、体に巻きつけるようにして、エレオラは窓辺に寄ったのだった。
(私も子供じゃないわ……何が起こるのかくらいわかってる)
神殿は敬虔な乙女の集う場所とはいえ、年頃の娘が顔を合わせれば、そういう話も出てくる。それを経験したものはいなかったが、街の噂や書物などから娘たちは耳ばかり経験豊富になり、きゃいきゃいとまだ見ぬ喪失の話に花を咲かせた。
エレオラと同室だったマリエッタは、それは天にも昇る心地なのだとうそぶいた。
エレオラの一つ下のデイジーは、とにかく痛いのよ、とまるで見てきたかのように囁いた。
レベッカは、とってもあたたかくって蕩けそうなほど甘いのです、とほっぺたをおさえた。……これは焼き菓子の感想だったかもしれない。
とにかく、とエレオラはため息をつく。カーテンを閉ざして、落ち着きなく寝室をうろうろし始めた。
(根拠はないけれど……絶対に死ぬほど痛い気がする)
相手はあのヴァールハイトなのだ。今までの彼との思い出の中に甘い記憶など一切ない。天に召されそうなほど気持ちいい、だなんて信じられなかった。地獄のような苦しみを与えられるさまの方がすんなり想像できた。具体的に何をされるのかは、神殿の誰も知らなかったが。
(私は……今から起こることを受け入れられるかしら……)
そもそも、ヴァールハイトとの結婚だって頭がついていっていなかった。一つだけ確かなのは未だ自分が聖女であることで、それさえ果たされていれば他は割とどうでもよかった。少なくとも、そう思い込もうとしていた。
——だが、ここに来て結婚が日常に追いついてしまった。
これから先、エレオラはヴァールハイトの妻としても生きるのだ。彼を伴侶として人生を歩まなければならない。何を考えているのかわからない、行動原理の読めない、あの竜殺しの騎士と。
エレオラは自分の身を抱きしめる。薄い寝衣に上着を羽織っただけで、体は冷え切っていた。
ただの政略結婚なら、エレオノーレ公爵家のためと覚悟を決めて夫となる男に身を任せられた。だがヴァールハイトはとにかく真意不明で、何をしたいのか理解できない。
(結果だけ見ると、あたかも私を愛しているように思えるけれど……)
それにしては殺伐としすぎていて、愛しみがなくて、でも政治的な要素も見当たらなくて困惑する。
やはりきちんと話さなければ、と小さく拳を握った。
そのとき、玄関ホールの方がにわかに騒がしくなった。エレオラはハッと肩をこわばらせる。ヴァールハイトが、帰還したのだ。
窓辺に立って、はるかに瞬く星影を眺めながら、エレオラは途方に暮れていた。
(今から……初夜ということになってしまった……)
ハンナが告げるところによると、出仕しているヴァールハイトから伝令が届いたらしい。
いわく、花嫁を『丁重に』もてなすように、と。
それを聞いたハンナを筆頭とするメイドたちは、腕まくりをしてエレオラを『もてなした』。大理石の浴槽にいい匂いのするお湯を満たし、可愛らしい花を浮かべ、エレオラを浴室に放り込んで四人がかりで丸ごと洗った。神殿では大浴場を使っていたとはいえ、誰かに体を洗われた経験などない。あまりの恥ずかしさに泣きそうだった。けれど聖女は泣いたりしない、と必死に唇を噛みしめてやり過ごした。
そのあとはまたメイドが三人がかりで、エレオラの長い金髪を花の香りのするオイルで梳った。その他にも、日々の務めで荒れたエレオラの手に、甘やかなクリームを塗って爪先までぴかぴかにする。目が回りそうなエレオラは、ここでもやはり、泣きたくなるのを我慢した。
しかし、寝室でハンナから渡された着替えを見て、とうとう口から弱音がこぼれた。
「これ……これはほとんど下着ではないですか⁉︎」
「初めての夜を迎える花嫁のための寝衣ですよ」
「下着ですって!」
「特別な下着です」
ハンナも認めた。エレオラはがっくりと肩を落とす。
手渡されたのは、白いレースとフリルがあしらわれた、丈の短いワンピースだった。といってもレースはほとんど透明に見えるほどあえかで、胸元だけはフリルで覆われているものの、他は肌が透けてしまう。揃いの下衣はやはり純白で、サテンのリボンを結んで腰の横で固定するという代物だった。なんだこの仕様は。頼りなさすぎる。
「とてもよくお似合いですから大丈夫ですよ」
「どこに大丈夫な要素が……?」
「ヴァールハイト様がいらっしゃるまでは、上に何か羽織っておけば良いですから! ほら、泣かないでください!」
「な、な、泣いておりません!」
嘘だ。本当はちょっと目尻に涙が滲んでいた。
寝室に突っ立つエレオラの肩に上着をかけて、ハンナは退出してしまった。上着にしっかり袖を通し、体に巻きつけるようにして、エレオラは窓辺に寄ったのだった。
(私も子供じゃないわ……何が起こるのかくらいわかってる)
神殿は敬虔な乙女の集う場所とはいえ、年頃の娘が顔を合わせれば、そういう話も出てくる。それを経験したものはいなかったが、街の噂や書物などから娘たちは耳ばかり経験豊富になり、きゃいきゃいとまだ見ぬ喪失の話に花を咲かせた。
エレオラと同室だったマリエッタは、それは天にも昇る心地なのだとうそぶいた。
エレオラの一つ下のデイジーは、とにかく痛いのよ、とまるで見てきたかのように囁いた。
レベッカは、とってもあたたかくって蕩けそうなほど甘いのです、とほっぺたをおさえた。……これは焼き菓子の感想だったかもしれない。
とにかく、とエレオラはため息をつく。カーテンを閉ざして、落ち着きなく寝室をうろうろし始めた。
(根拠はないけれど……絶対に死ぬほど痛い気がする)
相手はあのヴァールハイトなのだ。今までの彼との思い出の中に甘い記憶など一切ない。天に召されそうなほど気持ちいい、だなんて信じられなかった。地獄のような苦しみを与えられるさまの方がすんなり想像できた。具体的に何をされるのかは、神殿の誰も知らなかったが。
(私は……今から起こることを受け入れられるかしら……)
そもそも、ヴァールハイトとの結婚だって頭がついていっていなかった。一つだけ確かなのは未だ自分が聖女であることで、それさえ果たされていれば他は割とどうでもよかった。少なくとも、そう思い込もうとしていた。
——だが、ここに来て結婚が日常に追いついてしまった。
これから先、エレオラはヴァールハイトの妻としても生きるのだ。彼を伴侶として人生を歩まなければならない。何を考えているのかわからない、行動原理の読めない、あの竜殺しの騎士と。
エレオラは自分の身を抱きしめる。薄い寝衣に上着を羽織っただけで、体は冷え切っていた。
ただの政略結婚なら、エレオノーレ公爵家のためと覚悟を決めて夫となる男に身を任せられた。だがヴァールハイトはとにかく真意不明で、何をしたいのか理解できない。
(結果だけ見ると、あたかも私を愛しているように思えるけれど……)
それにしては殺伐としすぎていて、愛しみがなくて、でも政治的な要素も見当たらなくて困惑する。
やはりきちんと話さなければ、と小さく拳を握った。
そのとき、玄関ホールの方がにわかに騒がしくなった。エレオラはハッと肩をこわばらせる。ヴァールハイトが、帰還したのだ。
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