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 エレオラの尽力の甲斐あったのか、神殿の浄化はあらかた完了した。

 そのため次はティオール山に残されている邪竜の遺骸を清めねばならなかった。遺骸は他の魔獣を呼び寄せ、麓の村から助けを求める声が届いていたのだ。

 ティオール山は険しい霊峰で、道中には危険も多い。そこで王宮は騎士団を聖女たちの護衛につけることにした。

「……あなたは殿下の護衛騎士では?」
「自らの護衛騎士を派遣するほど、殿下は神殿を重要視しているということだ」
(絶対に嘘だ!)

 出立前に神殿に現れたヴァールハイトに、エレオラは頭を抱えた。しかし彼はノインの命令書を携えていたので無下にもできない。

 ヴァールハイトが脅して書かせたのか、ノインが面白がって書いたのか、もしくはその両方なのか。真相は闇の中だが、とにかくヴァールハイトも霊峰ティオールでの浄化に同行することになった。

(しかもどうして同じ馬車なの⁉︎)

 本来は神殿の皆と大きな幌馬車に乗ってティオールへ向かうはずだったのに、気づいたらヴァールハイトと二人きりで馬車に乗せられていたのだ。猛獣の檻に放り込まれる罪人ってこんな気分なのかな、とエレオラは思いを馳せた。

 馬車の中には重苦しい沈黙が漂っていた。二人がけの座席が向かい合う形で設えられており、二人は斜向かいに座っている。

 先に馬車に押し込まれたエレオラが、自分の隣と対面に荷物を置いて座れないようにしたためだ。あとから乗り込んだヴァールハイトは、仕方ないな、とでもいうように薄く笑っただけだった。

 エレオラは小窓に顔を向け、外の様子を眺める。空は青く澄み渡り、午前中の柔らかな陽の光が山道を照らしていた。ティオールまではまだ距離があり、穏やかな雰囲気だ。なだらかな道に木漏れ日がまだらな影を落とし、どこかから小鳥のさえずる声が聞こえてくる。

 けれど、エレオラの額には冷や汗が浮かんでいた。原因は斜め向かいに座る男以外にあり得ない。

 ヴァールハイトは組んだ足に肘をつき、小首を傾げてエレオラを仰ぎ見ていた。狭い車内でその視線はいつもより迫って感じられる。つ、と汗が頬を伝った。

「あの……何か?」

 耐えきれなくなって、エレオラはとうとう声をあげた。ここまで、ヴァールハイトがこちらを見てくるだけで具体的な行動を取らないのもまた不気味だった。

 正直に言えば、密室に二人きりというだけでエレオラの頭には嫌な想像が膨らんでいたのだ。それなのに、彼は指一本動かさず、静かにエレオラを見つめるだけだった。まるで神の偶像を崇める敬虔な信者のように。

 ヴァールハイトはしばらく返事をせず、二人の間には車輪が地を噛む音だけが響いていた。

 やがて、夢から覚めたような口調で応えがあった。

「……今日のエレオラは、いつもと違う服を着ているから、目に焼きつけたかった」
「あ、ああ、第一聖装ですからね。大規模な浄化でもなければ着ませんから」

 エレオラは自分の体を見下ろす。今日は、高度な浄化を行う聖女にだけ許された聖衣をまとっていた。たっぷりの生地を使った白服は首元から足首までを覆い、裾から腰にかけては金糸の刺繍が広がっている。頭からは神秘的に揺らめくレースのヴェールをかぶっていた。

「とてもきれいだ。……その髪の一筋に触れるのさえ躊躇うほどに」

 その声の底にはどこか自嘲が混ざっていて、エレオラはわずかに瞳を細めた。

「……ありがとうございます」

 と同時に、それなら一生この服を着ていた方がいいのか⁉︎と心の中で呟くのは止められず、指先で顎を撫でる。

(それにしても、ヴァールハイトさまは『聖女エレオラ』がお好みなの?)

 なんとなく、聖女らしい言動を取ったときに彼の好感度が上がっている気がする。趣味が合うな、と迷いなく思った。エレオラも「聖女エレオラ」が大好きだ。優しくて、善良で、献身的で。立派で、良い子で、皆に慕われる、絵に描いたような慈悲深き聖女。奇跡でも起こせそうなくらいに。

 ——私はずっと、聖女エレオラが奇跡を起こすのを待っている。

 そこまで考えて、エレオラは思考を打ち切った。胸の底にわだかまっている、いつもはやり過ごせる暗い靄が頭をもたげたような気がした。

 それよりも、とヴァールハイトの様子をヴェール越しに窺う。

(どうして『聖女エレオラ』がこの人にこんなにぶっ刺さっているんだろう……)

 エレオラは、菜園の夜からこっち、ヴァールハイトとの記憶をさらっていた。なんとか彼の執着の理由を見つけ出そうとして。

 だが、とりたてて特別な思い出は何もない。初対面のことすら覚えていない。たしか五年前にエレオラが王宮への報告係に任命されて、そのときにはすでに彼がノインの護衛騎士となっていた。おそらくそこが出会いだったのだと思う。

 だが、ヴァールハイトはずっと刺々しい態度で、エレオラは割と彼が苦手だった。

 ガタン、と馬車が大きく揺れた。エレオラはとっさに座席に手をつき体勢を整える。彼女の体を支えようとしたヴァールハイトの手が空を切った。

 無言のまま、エレオラはヴァールハイトを見上げる。彼は少し気まずげに座席に座り直した。

 それで、エレオラの口から小さな笑い声がこぼれた。

「……髪の一筋に触れるのも躊躇うのでは?」
「仕方がないだろう。反射的に体が動くんだ。エレオラを守るのも俺の務めだからな。絶対に危ない目に遭わせたくない」

 答えは口早で、黒髪から覗く耳の先が少し赤くなっていた。エレオラはますますおかしくなって、両手で口元を押さえてくすくす笑う。

「そうですか。……そうなのですね」

 たぶん、ヴァールハイトはこの世で最もエレオラに優しくあろうとする男だった。その優しさはずれているし、ときおり他者を害するし、エレオラすら傷つけることもあるけれど。

(でも、私のためだけにある優しさに、なんの意味があるのだろう……)

 馬車は進み続ける。車輪は石を跳ね上げる。山奥に分け入り始めたのか、窓の外が薄暗くなってきた。
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