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ブラン伯爵邸に到着するなり、ヴァールハイトは寝室にエレオラを放り込んでバタンと扉を閉めた。ハンナを筆頭としておろおろするメイドたちに、「明日朝まで誰も近寄らせるな」と言い置いて。
鍵をかける音が、重々しく寝室に響く。ベッドに腰かけたエレオラは、涙の跡を拭うこともせず、ぼうっと壁を見つめていた。
(この後どうなるんだろう……)
こんなの全然聖女エレオラじゃない。第一王子の執務室で泣いて、喚いて、子供みたいなわがままを言って。
(ヴァールハイトさまもきっと失望している。聖女エレオラの正体がこんなつまらない小娘だったなんて許せないでしょうし)
邸の主であるヴァールハイトが命じた以上、この部屋には誰も近づかない。エレオラがどれだけ泣き叫んでも、助けの手は望めないだろう。
(明日の朝まで……長いな)
分厚い雲に覆われた空はいよいよ暗黒色で、雨が寝室の窓一面を濡らしていた。雲の上には太陽があるはずだが、光の気配は少しも感じられなかった。
ヴァールハイトが無言でエレオラに近づいてくる。二、三歩の距離をあけて立ち止まり、見開いた瞳をエレオラに据えた。
視線が肌に突き刺さるようで、エレオラは喪服を膝で握りしめる。どんなことをされるのか想像もできない。死ぬほど苦しい目に遭わされたり、物みたいに扱われるのかもしれない。握った拳の内側が汗で滑った。
ヴァールハイトが一歩足を踏み出す。びくりとエレオラの肩が揺れる。
吐息混じりの笑い声が、頭上で空気を震わせた。
それから、ヴァールハイトが礼礼しくエレオラの足元に跪いた。
「……ノインにひどいことはされなかったか?」
「え……?」
予想だにしない問いかけに面食らう。ヴァールハイトは慎み深い手つきでエレオラの拳を開かせた。
「エレオラが泣いていたから」
「え、ええ」
「てっきり、あの男に何かされたかと」
「えっ、いえ、殿下は私の話を聞いてくださっただけなので。本当に無実です。濡れ衣です。……というか、もっと他に聞くべきことがあるんじゃないですか」
「何を?」
怪訝げにヴァールハイトが首をひねる。エレオラは大きく息を吸い込んでから、一息に言った。
「こんな振る舞い、聖女エレオラらしくないんじゃないか、とか」
「そうだな。それで?」
間髪入れずに返ってきた答えに、エレオラは目を丸くする。眼前の男はうっとり微笑んで、
「色んなエレオラが見られていいな。夫の特権だ」
「……ヴァールハイトさまは、聖女エレオラがお好みなのでは?」
「聖女エレオラはエレオラを語る上で欠かせない重要な要素だが、それは俺の手を及ぼしていい事象ではない。俺はただエレオラの行く道についていくだけだ」
(語るってなんだろう?)
謎のコメントにこっそり首を傾げながらも、ここぞとばかりに畳みかけた。
「……では、ヴァールハイトさまは私の何がそんなにお気に召しているのですか?」
「覚えていないのか?」
今度はヴァールハイトが目を見張る番だった。
「あなたが聖女になる前に、俺はエレオノーレ公爵邸であなたに会ったんだ。まだ公爵令嬢だったあなたに」
「……そうでしたか? 聖女になる前なら十年以上前ですか」
「十一年と五ヶ月前だ。エレオラは八歳で、俺は十三歳だった」
「はあ……」
そんな幼い頃に、エレオラは一体何をしでかしたというのだろう。まるで記憶がない。
ヴァールハイトは宙に視線を彷徨わせた。そこに過去を映し出そうとするように。
「俺はノインに付き従って公爵家の茶会に参加して……庭の隅の、イチイの木の下であなたと巡り逢った。——片翼の小鳥を両手に持ったエレオラに」
「ドーナツのことですか?」
「……ああ」
ヴァールハイトが微妙な顔で首肯する。ぼそりと「……もう少しロマンチックな名前の方が良かったな……」と独りごちたが、エレオラの耳には届かなかった。
エレオラは指先で唇をなぞり、ドーナツを拾ったときのこと呼び起こしていた。
確か、茶会に飽きて庭を散策していた。そこでドーナツを見つけたのだ。
片翼のうえ、巣から落ちて瀕死だった茶色の小鳥。放っておけなかった。死にそうな小さな生き物を庇護しようとするのに大した理由なんてない。
その小さな体を両手のひらに収め、今にも指の間をすり抜けていきそうな温かさをどうにか保とうと必死になった。
「俺は言ったんだ。『じきにその鳥は死ぬ。生き延びても翼が欠けていれば生きている意味がない。殺してやった方がそいつのためだ』と」
——そうだ、何かショックなことを言われた。
ドーナツを包む両手に影がかかって、幼いエレオラは泣きそうになってしまった。公爵令嬢として周囲に愛されて育った彼女に、意地悪を言ってくる者はいなかった。
けれども、まだ手のひらには確かな重みがあったから。
それを無意味とは思わなかったから。
「だが、エレオラは俺に言ったんだ」
自分よりもずっと背の高い年上の男の子に、エレオラは言い返したのだ。
「『欠けていたって、そのまま生きてくれればいい』」
ぽつりとこぼれた声に、ヴァールハイトが息を呑む。そのまま握りしめたエレオラの手を額に戴き、祈りを捧げるように告白した。
「それを聞いて——こんな人間に、所有されたら、幸せだろうと確信したんだ」
声は熱にかすれていた。その指はかすかに震え、伏せた顔の下、どんな表情をしているのかは見えなかった。
エレオラは返す言葉もない。手を強くとらえられたまま、その拘束をどこか心地良く感じているのが不思議だった。
これは自分をとらえると同時に、目の前の男を縛めるものだったのだ、と腑に落ちる。この制御不能な剣の。いつ鞘走るか分からない呪われた刃の。
ヴァールハイトが顔を上げ、エレオラの膝にこてんと頭をのせる。上目遣いに、
「エレオラには、俺が好きに生きているように見えるだろうが」
「えっ、違うんですか……?」
「違わないが」
ヴァールハイトが憫笑を浮かべた。
「それでも、人と異なっていることくらいはさすがにわかるさ。俺と同じモノはどこにもいない。——だが」
腕を差し伸べて、内緒話をするようにエレオラの頭を引き寄せる。雨音にかき消されてしまいそうなほど幽かな響きで、だが底には焼きつきそうな熱を湛えて、
「エレオラが教えてしまったんだ。そのままで生きていいと。だから責任を取ってくれ。一生手放すな」
大きな手のひらがエレオラの頬を包んだ。相変わらず血に濡れたような瞳に、エレオラの顔が映っている。
なんだかおかしくなって、エレオラは笑った。
エレオラを庇護して、愛してくれる家族はもうどこにもいない。全員亡くなった。
でも彼女の手には、それに似て、けれど決定的に違う何かが一つ、残されたらしい。もはや遙かな星の光すら届かない過去の日の報いが、ずっとエレオラの影について回るのだ。
エレオラは人差し指をすっと立てて、ヴァールハイトの唇を押さえた。
聖女エレオラは恋をしない。だからこの胸を震わせる衝動がなんなのか、言葉にしようがない。
たった今、自分は不幸になろうとしているのかもしれない。母と同じように。
それでももう、エレオラは知ってしまった。恋知らずの聖女エレオラは奇跡を起こせない。母の言葉の意味は永遠に分からない。死者は二度と正解を教えてはくれないから。
だからエレオラは、自分のことは自分で決めていい。
「……いつかの先を教えてもらえますか。今度は、私から、あなたに口づけを返したいんです」
「はっ⁉︎」
ヴァールハイトがぎょっと飛び上がる。大げさな反応に、エレオラの頬に赤みが差した。
「ええと、すみません。そういう雰囲気ではなかったですか?」
「いやそういう雰囲気だ。すぐにしてくれ」
「早……」
ヴァールハイトは瞳孔の開ききった目でエレオラの顔を熟視している。視線が痛くて早口に頼んだ。
「目を閉じてもらえませんか?」
「嫌だ。エレオラがどんな顔でキスするのか見たい」
「この……」
早くもやめたくなってきた。だが撤回はできないだろう。エレオラがためらったって、ヴァールハイトはしつこく口づけをねだるに違いない。そうだ、明日の朝まで二人には時間があるのだ。
覚悟を決めて、触れるか触れないかの口づけを落とす。ぱっと身を離したところで、勢いよく体をベッドに沈められた。喪服の裾が翻る。ヘッドドレスがシーツの上に転がった。
「ちょっと⁉︎」
「全然足りない。挨拶でももっとちゃんとやるぞ」
「慣れてなくて……んぅっ」
ヴァールハイトが覆いかぶさってきて、激しく口づける。初夜では同じようなことをされている。路地裏ではもっとひどくされた。でも、今までよりももっと深いところでつながれたような気がして、エレオラの吐息が甘く溶けた。
鍵をかける音が、重々しく寝室に響く。ベッドに腰かけたエレオラは、涙の跡を拭うこともせず、ぼうっと壁を見つめていた。
(この後どうなるんだろう……)
こんなの全然聖女エレオラじゃない。第一王子の執務室で泣いて、喚いて、子供みたいなわがままを言って。
(ヴァールハイトさまもきっと失望している。聖女エレオラの正体がこんなつまらない小娘だったなんて許せないでしょうし)
邸の主であるヴァールハイトが命じた以上、この部屋には誰も近づかない。エレオラがどれだけ泣き叫んでも、助けの手は望めないだろう。
(明日の朝まで……長いな)
分厚い雲に覆われた空はいよいよ暗黒色で、雨が寝室の窓一面を濡らしていた。雲の上には太陽があるはずだが、光の気配は少しも感じられなかった。
ヴァールハイトが無言でエレオラに近づいてくる。二、三歩の距離をあけて立ち止まり、見開いた瞳をエレオラに据えた。
視線が肌に突き刺さるようで、エレオラは喪服を膝で握りしめる。どんなことをされるのか想像もできない。死ぬほど苦しい目に遭わされたり、物みたいに扱われるのかもしれない。握った拳の内側が汗で滑った。
ヴァールハイトが一歩足を踏み出す。びくりとエレオラの肩が揺れる。
吐息混じりの笑い声が、頭上で空気を震わせた。
それから、ヴァールハイトが礼礼しくエレオラの足元に跪いた。
「……ノインにひどいことはされなかったか?」
「え……?」
予想だにしない問いかけに面食らう。ヴァールハイトは慎み深い手つきでエレオラの拳を開かせた。
「エレオラが泣いていたから」
「え、ええ」
「てっきり、あの男に何かされたかと」
「えっ、いえ、殿下は私の話を聞いてくださっただけなので。本当に無実です。濡れ衣です。……というか、もっと他に聞くべきことがあるんじゃないですか」
「何を?」
怪訝げにヴァールハイトが首をひねる。エレオラは大きく息を吸い込んでから、一息に言った。
「こんな振る舞い、聖女エレオラらしくないんじゃないか、とか」
「そうだな。それで?」
間髪入れずに返ってきた答えに、エレオラは目を丸くする。眼前の男はうっとり微笑んで、
「色んなエレオラが見られていいな。夫の特権だ」
「……ヴァールハイトさまは、聖女エレオラがお好みなのでは?」
「聖女エレオラはエレオラを語る上で欠かせない重要な要素だが、それは俺の手を及ぼしていい事象ではない。俺はただエレオラの行く道についていくだけだ」
(語るってなんだろう?)
謎のコメントにこっそり首を傾げながらも、ここぞとばかりに畳みかけた。
「……では、ヴァールハイトさまは私の何がそんなにお気に召しているのですか?」
「覚えていないのか?」
今度はヴァールハイトが目を見張る番だった。
「あなたが聖女になる前に、俺はエレオノーレ公爵邸であなたに会ったんだ。まだ公爵令嬢だったあなたに」
「……そうでしたか? 聖女になる前なら十年以上前ですか」
「十一年と五ヶ月前だ。エレオラは八歳で、俺は十三歳だった」
「はあ……」
そんな幼い頃に、エレオラは一体何をしでかしたというのだろう。まるで記憶がない。
ヴァールハイトは宙に視線を彷徨わせた。そこに過去を映し出そうとするように。
「俺はノインに付き従って公爵家の茶会に参加して……庭の隅の、イチイの木の下であなたと巡り逢った。——片翼の小鳥を両手に持ったエレオラに」
「ドーナツのことですか?」
「……ああ」
ヴァールハイトが微妙な顔で首肯する。ぼそりと「……もう少しロマンチックな名前の方が良かったな……」と独りごちたが、エレオラの耳には届かなかった。
エレオラは指先で唇をなぞり、ドーナツを拾ったときのこと呼び起こしていた。
確か、茶会に飽きて庭を散策していた。そこでドーナツを見つけたのだ。
片翼のうえ、巣から落ちて瀕死だった茶色の小鳥。放っておけなかった。死にそうな小さな生き物を庇護しようとするのに大した理由なんてない。
その小さな体を両手のひらに収め、今にも指の間をすり抜けていきそうな温かさをどうにか保とうと必死になった。
「俺は言ったんだ。『じきにその鳥は死ぬ。生き延びても翼が欠けていれば生きている意味がない。殺してやった方がそいつのためだ』と」
——そうだ、何かショックなことを言われた。
ドーナツを包む両手に影がかかって、幼いエレオラは泣きそうになってしまった。公爵令嬢として周囲に愛されて育った彼女に、意地悪を言ってくる者はいなかった。
けれども、まだ手のひらには確かな重みがあったから。
それを無意味とは思わなかったから。
「だが、エレオラは俺に言ったんだ」
自分よりもずっと背の高い年上の男の子に、エレオラは言い返したのだ。
「『欠けていたって、そのまま生きてくれればいい』」
ぽつりとこぼれた声に、ヴァールハイトが息を呑む。そのまま握りしめたエレオラの手を額に戴き、祈りを捧げるように告白した。
「それを聞いて——こんな人間に、所有されたら、幸せだろうと確信したんだ」
声は熱にかすれていた。その指はかすかに震え、伏せた顔の下、どんな表情をしているのかは見えなかった。
エレオラは返す言葉もない。手を強くとらえられたまま、その拘束をどこか心地良く感じているのが不思議だった。
これは自分をとらえると同時に、目の前の男を縛めるものだったのだ、と腑に落ちる。この制御不能な剣の。いつ鞘走るか分からない呪われた刃の。
ヴァールハイトが顔を上げ、エレオラの膝にこてんと頭をのせる。上目遣いに、
「エレオラには、俺が好きに生きているように見えるだろうが」
「えっ、違うんですか……?」
「違わないが」
ヴァールハイトが憫笑を浮かべた。
「それでも、人と異なっていることくらいはさすがにわかるさ。俺と同じモノはどこにもいない。——だが」
腕を差し伸べて、内緒話をするようにエレオラの頭を引き寄せる。雨音にかき消されてしまいそうなほど幽かな響きで、だが底には焼きつきそうな熱を湛えて、
「エレオラが教えてしまったんだ。そのままで生きていいと。だから責任を取ってくれ。一生手放すな」
大きな手のひらがエレオラの頬を包んだ。相変わらず血に濡れたような瞳に、エレオラの顔が映っている。
なんだかおかしくなって、エレオラは笑った。
エレオラを庇護して、愛してくれる家族はもうどこにもいない。全員亡くなった。
でも彼女の手には、それに似て、けれど決定的に違う何かが一つ、残されたらしい。もはや遙かな星の光すら届かない過去の日の報いが、ずっとエレオラの影について回るのだ。
エレオラは人差し指をすっと立てて、ヴァールハイトの唇を押さえた。
聖女エレオラは恋をしない。だからこの胸を震わせる衝動がなんなのか、言葉にしようがない。
たった今、自分は不幸になろうとしているのかもしれない。母と同じように。
それでももう、エレオラは知ってしまった。恋知らずの聖女エレオラは奇跡を起こせない。母の言葉の意味は永遠に分からない。死者は二度と正解を教えてはくれないから。
だからエレオラは、自分のことは自分で決めていい。
「……いつかの先を教えてもらえますか。今度は、私から、あなたに口づけを返したいんです」
「はっ⁉︎」
ヴァールハイトがぎょっと飛び上がる。大げさな反応に、エレオラの頬に赤みが差した。
「ええと、すみません。そういう雰囲気ではなかったですか?」
「いやそういう雰囲気だ。すぐにしてくれ」
「早……」
ヴァールハイトは瞳孔の開ききった目でエレオラの顔を熟視している。視線が痛くて早口に頼んだ。
「目を閉じてもらえませんか?」
「嫌だ。エレオラがどんな顔でキスするのか見たい」
「この……」
早くもやめたくなってきた。だが撤回はできないだろう。エレオラがためらったって、ヴァールハイトはしつこく口づけをねだるに違いない。そうだ、明日の朝まで二人には時間があるのだ。
覚悟を決めて、触れるか触れないかの口づけを落とす。ぱっと身を離したところで、勢いよく体をベッドに沈められた。喪服の裾が翻る。ヘッドドレスがシーツの上に転がった。
「ちょっと⁉︎」
「全然足りない。挨拶でももっとちゃんとやるぞ」
「慣れてなくて……んぅっ」
ヴァールハイトが覆いかぶさってきて、激しく口づける。初夜では同じようなことをされている。路地裏ではもっとひどくされた。でも、今までよりももっと深いところでつながれたような気がして、エレオラの吐息が甘く溶けた。
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