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 それから、二人の間にはぎくしゃくした空気が流れた。同じベッドで眠っていても、ヴァールハイトがエレオラに手を伸ばすことは一度もない。

 エレオラはどうすればいいのかわからなくて頑なに背を向けていた。だからヴァールハイトがどんな顔をしているのかも知らなかった。

 ——霊峰ティオールから、エレオラの父、リゲル・エレオノーレらしき遺体が見つかった
と知らされたのは、そんな折だった。

 エレオラは王宮の廊下を大股に進む。通り過ぎる人々が、エレオラを見て痛ましそうに顔を伏せる。

 今日のエレオラは、いつもの純白の聖服ではなく、黒々とした喪服に身を包んでいた。その体は指先までが黒レースの手袋で覆われ、頭は闇色のヘッドドレスを乗せている。いつもは光を弾く金髪も、今ばかりは褪せたように思われた。

 迷いのない足取りで第一王子の執務室へ向かうと、ノックもなしに入室する。室内のノインはそれを咎めるでもなく、執務机に座ったままエレオラを出迎えた。

 ノインの背後、大きな窓の外には、鈍色の空が広がっている。細雨がそぼ降り、ガラスを濡らしていた。

 エレオラはまっすぐに背を伸ばし、芯の通った声で報告した。

「先ほど安置所で遺体を確認しました。ティオールで発見された男性の遺体は、行方不明だった我が父、リゲル・エレオノーレに間違いありません。遺体自体はほとんど白骨化していましたが、エレオノーレ公爵家の家紋が刻まれたループタイの留め具が残されていました。代々公爵家に伝わるもので、私も見覚えがあります」

「……そうか。ならば、エレオノーレ公爵家の当主が正式に決まったというわけだな」

「はい。我が叔父、アレン・エレオノーレが代理当主から当主になりました。元々、叔父が当主も同然でしたが。公式の場にも彼が出席していましたし」

「しかし……まさかリゲル殿がティオール山に埋められていたとはね」

 椅子に背中を預け、ノインが深々と息を吐く。エレオラの拳がぎゅっと握りしめられた。

 リゲル・エレオノーレの遺体は、ティオール山の中腹の木立に埋められていた。

 かつて不可侵だったティオール山も、今ではヴァールハイトの竜殺しとエレオラの浄化によって、人が立ち入れるようになった。

 このたび、付近の住民が土地を掘り返したところ、リゲルの遺体にぶち当たったというわけだ。

 エレオラはハハッと乾いた笑い声をあげた。

「詳しい調査は後日ということで、死因などはまだ特定されておりません。噂通り痴情のもつれなんかで、愛人に絞め殺されたのかもしれませんね」
「エリー」

 ノインの低い声が遮った。エレオラは黙して執務室の床に目を落とす。ノインが眉尻を下げて、エレオラを見つめていた。

「……きみ、顔色が悪い。ここは僕の部屋だ。陰謀と密談が交わされる、第一王子の執務室。エリーが何を言っても、なかったことになる。分かるね?」

「ええ、そして私は聖女エレオラです。殿下に報告すべきことを述べたら退出いたします」

「エリー、こっちを見ろ」

 強く言われて、エレオラは奥歯を噛みしめてから顔を上げた。そうしないと、嗚咽が漏れてしまいそうだった。

 滲む視界の中、自分とよく似た従兄妹がこちらへ歩み寄ってくるのが分かる。彼は心の底から気遣わしそうに言った。

「今にも倒れそうだ。誰かに迎えにきてもらった方がいい」
「——迎えなんて、私にはもう来ない」

 それは反射だった。エレオラへ伸ばしかけたノインの手がハッと止まる。

 執務室の真ん中に立ち尽くし、エレオラはわなわなと肩を震わせた。血の気の失せた唇から、真っ黒な声が吐き出される。

「私は……ずっと」

 呼吸が乱れる。ささめくような雨音が部屋に忍び入って、耳に絡みつく。

「奇跡を待っていました。母が言ったように、恋をせず、立派な聖女になれば、もう一度、家族に会えるって」

 喪服の胸元を掻きむしる。柔らかな生地に皺が刻まれようが構わなかった。

 続く言葉は短かった。

「そんなわけない」

 ノインは声を失って、エレオラのそばに立っていた。

 二人で話していると、よく宮女たちからミモザの花が咲き揃っているようだ、と讃えられた。それくらい、二人の容姿は似通っていた。

 エレオラは微笑とともにその賛辞を受け止めていたが、聞くたびに苦いものが胸に広がった。

 ノインと自分は全く異なる。両親がいて、確固たる地位があって、自分の部屋があるような彼と、愛してくれる家族を持ったことがなくて、居場所を作るために血の滲むような努力は必要だった自分とは。

「母はとうに死んだ。公爵家の当主だって実質叔父が継いでいる。私を待っている人なんかどこにもいない」

 けれど、僻むようなことを考える自分も嫌だった。ノインは第一王子だ。

 単なる一聖女であるエレオラとは比べ物にならないくらいの重責を背負っている。

 エレオラだって断じて孤独ではない。神殿には慕ってくれる皆がいて、懐いてくれるレベッカのような子もいる。優しい人に恵まれているのだ。

 エレオラ・エレオノーレは決して不幸ではない。

「そんなことはわかってる。もう子供じゃない。いつまでも——夢を見ていられるものか」

 だから、父の遺体が発見されたと聞いたときも落ち着いていられた。もの言いたげなヴァールハイトを振り払って、喪服を着て、一人で安置所に赴いて遺体と対面できた。

 安置室で揺らめく蝋燭の炎の下、遺体の右胸に飾られたブローチの色さえ覚えている。

「これは——悲しむことじゃない。全っ然、悲しくなんてない! わかっていたこと。二度とお父様は戻らないって……」

 それなのに、とエレオラは唇を噛む。両目から涙が溢れて止まらない。しょっぱい水が頬を伝って、口を濡らして、顎の先からぼたぼたと落ちていく。それは床に敷かれた絨毯に吸い込まれ、点々と色を濃くしている。

「……悲しくない、寂しくない。ずっと心のどこかで知っていたことが、現実になっただけなんだ……」

 足がしんどくなって、エレオラはその場に膝を抱える。子供みたいに丸くなって、ひっく、としゃくり上げる。すぐ隣にノインが片膝をついた。迷子をなだめるように背中を撫でる。

 窓の外では雨が降り続いている。空はどんどん暗くなり、吹きつけた風が窓をガタガタ鳴らす。大粒の雨がガラスに叩きつけていた。

 しばらく、二人は雨に打たれる花のように寄り添っていた。

「……あんまり言いたくないんだけど」

 ややあって囁かれた声に、エレオラは鼻をすすって応えた。

「エリーは重要なことを忘れている」
「……何?」
「今のエリーには絶対に迎えにくる男がいる」
「……」
「なんか言ってよ、怖いよ」

 エレオラは路地裏でのことを思い出した。ふっと笑って首を横に振る。

「……来ないよ」
「なんで? 世界を滅ぼしても来ると思うけど」
「世界が滅んでも、じゃないんだ……」
「どう考えても滅ぼす側だろ」

 それはそうなのでエレオラは黙然と頷いた。

 そのとき、廊下の方から悲鳴が聞こえてきた。宮女のものらしい高い声と、騎士のものらしい野太い声。二つが混ざり合って、絶妙なハーモニーを奏でている。

 妙な既視感を覚えて、エレオラはノインと顔を見合わせる。従兄妹の顔は真っ青だった。

「ほら! 来ただろ!」
「いや、まだ分からない。王宮に化け物が入り込んだのかもしれないし」
「それはそれで問題だろ! 待て、この状況は僕が一番やばい!」

 ノインがエレオラから飛び退って離れたとき、激しい音を立てて執務室の扉が開け放たれた。真鍮の蝶番が視界の端で吹っ飛ぶ。分厚い扉がたわんでこちらへ倒れ込んでくる。

 入り口に立ち塞がる人影に、エレオラは目を眇める。ノインがヒィーッとか細い叫声をあげた。

 黒と赤の騎士服をまとったヴァールハイトが、ゆっくりと室内を見渡す。腰には剣を差している。

 完全に表情の欠落した顔は、正義の英雄というよりは、神話の魔王や悪魔に近い。人界に下りては指先一つで命を転がす怪物に。

 赤い瞳が床にへたり込むエレオラを捉え、それから及び腰のノインに向かった。

 その口がうっすら開かれる。

「……殿下?」
「違う! 僕は無実だ‼︎」
「そうなのか、エレオラ」

 視線を向けられても、エレオラはしばしの間硬直していた。涙で汚れた顔でヴァールハイトを仰ぎ見、ぽかんと口を開ける。ヴァールハイトの眼差しが冴え冴えと凍った。右手が柄にかかる。

「残念です、殿下」
「待て待て待て! 本当に僕は何もやってない! エリー頼むからなんか言ってくれ!」

 ノインがわあわあと喚く。ヴァールハイトが足音もなく歩いて、すらりと剣を抜いた。白刃が鈍くきらめく。それでエレオラは我に帰った。

「えっ⁉︎ ヴァールハイトさま⁉︎」
「今それ⁉︎」

 慌てて刃から逃げ出したノインが、エレオラの腕を掴んで立たせる。よろつくエレオラをヴァールハイトの方に押しつけた。

「ヴァールハイト、エリーを持って帰ってくれ。どんな手を使っても良いから隠してること全部引きずり出せ」
「あれ? 今、私売られた?」
「そうだよ、第一王子の命と引き換えにね!」

 悪役らしく高笑いするノインと、どんな手を使っても、という言葉に反応して蒼白になるエレオラ。混迷を極めた執務室で、おもむろにヴァールハイトが剣を納めた。

 一気に場に静寂が広がる。固唾を呑んで動向を窺う二人の前で、ヴァールハイトがエレオラを抱き上げた。

「わっ⁉︎」

 急に足が宙に浮いて、エレオラはとっさにヴァールハイトにしがみつく。その耳元にヴァールハイトが囁いた。

「エレオラ、帰るぞ」

 幼いエレオラが本当にそう言ってほしかった人は、もはや一人としてこの世には亡く。
 でも胸の底に温かなものが湧いて、エレオラはささやかに顎を引いた。
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