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人生最期の場所
しおりを挟む【別れよう】
手のひらサイズにも満たない小さなメモで唯斗との関係は終わりを迎えた。別に冷めてなんていないのに。
ーー…触らないで
触れようとしてくれたあの手を弾いた時。これでいいんだ、と何度も言い聞かせた。そうでなければ、ケロッ、と笑って”冗談”だよ!と。あの1連の流れを無しにして、また今度この映画観に行きたい!なんて言って、1日を終えていた事だろう。
これでいいんだ。
***
時刻は18時21分を回った所だった。
明日の今頃。
麻衣はトラックに跳ねられ死亡していることだろうか。
「明日からまた大阪出張なんだけど何かお土産いる?」
「お気遣いなくー!あ、たこ焼きとか食べてきたら?」
今日は久しぶりに母が帰ってきていた。
母と会うのはおそらくこれが最後。
これから麻衣に襲い掛かる”運命の日”は母が大阪出張に行っている最中に起きる出来事なのだから。
「これ、ハートの形にしていい?」
「あら、いいじゃない。お母さんもしよう、っと」
たまに給食に出たハートの形のハンバーグを思い出した麻衣は捏ね終えたひき肉に窪みを入れる。1度目は母が1人で作ったこのハンバーグ。今日は”一緒に”ひき肉を捏ねていた。
「高校は楽しい?」
「うん、楽しいよ」
そんな普遍的なやり取りの中。
ハートのなったひき肉は母に連れていかれ、フライパンの上だ。麻衣は手を洗い、食器を並べる。1度目でした会話や巻き起こる出来事は何となくだが頭に残っている。しかしここで、1度目にはない母との会話が始まったのだ。
「出張ばかりでごめんね」
母がそう言って、眉を下げたのだ。
「え?」
予想していなかった突然の謝罪に面食らう。
1度目と違う行動ばかり取ると、突然の事ながら初めての事が起きる。きっとこの誤差は
おそらく料理が嫌いな麻衣が今回、晩御飯を一緒に作りたい、などと言い始めたからだろう。
唯斗に関しては、1度目で一切話した事が無かったのに、付き合う、とまでの進展を見せた為、始めづくしだった。
「あ、別に私寂しがってないよ!学校も楽しいし!」
母の心中を察して笑顔を作る。別に強がり、という訳でもない。
「ほんとに?」
母が眉を下げ、丁寧な口調で麻衣に尋ねる。
「ほんとほんと!」
母はどうやら麻衣に寂しい思いをさせてしまっているんじゃないか、と心配し始めたのだと思う。
「お母さんね、来月から出張とかあんまりない部署に異動させてもらおうとかと思ってるの」
「え?異動?」
それは1度目も含め麻衣が初めて知る事実だった。
「うん。その方が麻衣との時間いっぱい作れるでしょう?ちょっとお給料減っちゃうけど、その方がいいかな、って」
「そう、なんだ」
そんな…、気を遣ってくれなくていいのに。
軽い遠慮と、若干の嬉しさに目が潤む。
ハンバーグをお皿に盛り付けて、テーブルの上に並べる。向かい合って座り、手を合わせた。
ハートの形のハンバーグを箸で綺麗にまっぷたつにしていると今服の下で小さく揺れるネックレスと重なった。
あの【別れよう】が無かったかのように、まだ麻衣はこれを名残惜しく付けていたのだ。
「あっ、そうだ」
母が箸を置きながら呟く。
麻衣は最後の1口を頬張った。
異動する、と言った来月以降に娘がこの世に居ない事など知る由もない母が目の前で「また今度ちょっと遠出してみる?」なんて言ってスマートフォンで少し遠いオシャレなカフェを検索し始めた。
母と、一緒に居られる時間が増える事は麻衣にとっても喜ばしい事だった。だけど麻衣は死ぬ。それも明日。麻衣が居なくあった後は出張とか沢山行って、気を紛らわせていて欲しい、と思う気持ちもあったからそれが喜ばしい事なのかどうか。
そんな娘のなんとも複雑な事情は母に伝わらない。なんだか話題を変えたくなった麻衣は声を弾ませた。
「お母さん、そういえば私ね!高校で彼氏出来たの!」
それは、人生で一度は言ってみたいセリフだった。
「え!?麻衣が!?」
話題を変えるには十分過ぎる一言だったに違いない。でも、本日別れてしまったのでもう…元彼。重々承知しているがそこはサッ、と伏せて話を進める事にした。
麻衣は自分のスマートフォンを開き、写真フォルダをタップする。お花見に行った辺りからの写真をスライドさせながら母に見せた。八重桜やクマノミの写真に紛れ、唯斗とのツーショットが母の目に飛び込む。
写真の中の麻衣は、確か唯斗の横顔に見とれ、つい涙したばかりのものだったので、目が若干赤いが、あの後すぐ唯斗が面白い事を言ってくれたからバッチリ笑顔で映っていた。唯斗も、優しく微笑んでくれている。この写真は麻衣のお気に入りで一時LIMEのアイコンにした程だ。例によって、今は違うが。
「え!ちょっと!かっこいいじゃないの!」
男の好みは遺伝だろうか。
お母さんは写真の中の唯斗に夢中だ。
唯斗を好きになった自分は誇らしく、自信満々で「でしょ!」と胸を張る。
「かっこいいだけじゃないんだよー、めっちゃ優しいの!あとちょっとおもしろいの!この前なんかー……」
それから唯斗自慢をしばらく母にした。
無論麻衣は唯斗の事がまだ大好きなのだからこの話題はなかなか尽きなかった。
大切な人に大切な人の話をしている時。
こんなに胸が暖かくなるなんて、1度目の麻衣は知らなかった事だろう。
***
夜風が優しく頬を撫でる。
夕食を食べ終え、2階のベランダから見える夜景を気が済むまで目に放り込んでいた。麻衣は静かに黄昏ている最中であった。
ずっと、この家で育ってきた。
父が残した一軒家。
麻衣はこの家が大好きで、この家からこうして見える夜景も大好きだった。受験勉強に疲れた時なんかはよくこうしてここで涼んだものだ。
やがて隣の家からピアノの音が優しく耳を撫でた。聞き覚えのある曲に耳を傾けていると、小学生の頃、麻衣が合唱コンクールで歌った曲だった。何度も同じ所で間違えて、最初からやり直していた。まだ未完成だったけど、とても心地良い音色を奏でていた。
今日は星がよく見える。
といっても2、3個。だけどつい見入る。
未だお揃いのネックレスも写真フォルダに溢れ返る唯斗との思い出も。手放す事が出来ない。なんて生半可な気持ちで別れを切り出したのだろうか。
麻衣はゆっくりと瞳を閉じ、涙を咳止めようとした。無駄な抵抗だ。閉じた瞼の隙間から涙は止まっちゃくれない。
「ひどいこと言っちゃった…っ」
涙に紛れそんな言葉も流れ出る。
練乳アイスが好きだ、と。
言った本人でさえ覚えていないような些細な事を覚えていてくれるような心優しい人に…
「ごめん…っ、ごめんね…っ、」
最悪な事をしてしまった。
罪悪感で胸がいっぱいだった。
もし今ここに、
流れ星が流れたとしたら……
唯斗と過ごした時間全て…。
もう1度、と願ってしまいそうになった麻衣は流石に欲張り過ぎだ、と思った。自分の強欲さに目が眩みそうになる。だけど、そんな願望押し殺しただけ誰か褒めて欲しい。
「麻衣ー、お風呂沸いたから先入っちゃいなさーい」間延びした母のそんな声で我に返った麻衣はペチン、とびちゃびちゃの頬を叩いた。
15年……正確に言うと15年7ヶ月寄り添った街の夜景に背を向け、ベランダをあとにした。
***
翌日。
母は大阪出張に行った。
「また帰ってきたら唯斗くんのお話聞かせてちょうだいね」
「うん!行ってらっしゃいー」
「行ってきます」
母のその要望に答える事が出来ない自分を後ろめたく感じながら、母の背中が見えなくなるまで玄関先で見送った。
やたら晴れた空が瞳孔を縮める。
あの太陽は今日の夕方頃には、どす黒い雨雲に覆われてしまう事を、麻衣は知っていた。
もうすぐ夕方。
麻衣は電車とバスを乗り継ぎ、ある場所に向かっていた。行くあてもなくそうしてフラフラしている訳じゃない。ちゃんと目的地を目指していた。
しばらく電車に揺られ、《恋ノ浜》へ到着を知らせるアナウンスが響く。適当な位置に1人腰掛けた麻衣はさっきから体を捻り、車窓を食い入るように見つめていた。通り過ぎる景色はいつの間にか海だけがどこまでも覆い尽くしていた。少し前の麻衣は休日を走るこの車両で唯斗と2人、この景色を眺めていた。
麻衣は電車を降り、鼻腔をくすぐる海独特の匂いの混じる新鮮な空気で肺をめいっぱい膨らませた。こうして目的地にきちんと辿り着く事が出来た事に達成感を覚えた。
幼少期から専ら方向音痴の麻衣は唯斗とここへ来た時。行き方をこまめにメモしていた。しておいて良かった。あの時はほぼ唯斗に任せっきりで、ただ着いて行っていただけなのだから。
さっきまで握っていた切符を駅員さんに渡し終え、空いた手はどこか寂しさを纏っていた。そんな寂しさを埋めるかのように、直ぐに目に付いたベンチにそっと触れる。
ここは麻衣がファーストキスを捧げた場所であった。こうしていると自然とあの日の2人の残像が脳裏にくっきりと浮かび始める。一瞬だったのに永遠にも感じる一時だった。甘くて優しい記憶があっという間に麻衣の心を満たす。
只今の時刻17時35分。
既に麻衣の死の時刻まで1時間を切っていた。
自分の運命が変えられないものだと悟った時かは、麻衣は決めていた。
自分が死ぬ時は……、
どこか遠くで、と。
猫のような行動原理に身を任せよう、と。
そうして麻衣が”人生最期の場所”として訪れたのは、あの海だった。
少し前に唯斗と2人で訪れた場所。
初めて唯斗からここへ行こう、と誘ってくれた場所なのだ。ここは来るのは1度目も含め、人生で2回目だけど、思い出がとても詰まっている場所だった。
どこで死んだとて、きっと遺体は遺族の元へ連れて行かれてしまうのだろうが、そして……葬式なんか開かれてしまえばきっといずれあなたの目にも……。
想像したらやっぱり悲しくなってくるけど、
もう1度この海を見ていたかった。人生が終わるその時まで。そしてこれは……、最後の悪あがきも兼ねた、私なりの想いやりのつもりだ。
今まで散々抗い続けていたけど、今ならこの運命をも受け入れられる気がしていた。よく良く考えれば2度目が与えられただけで、麻衣はきっと最高に幸運なのだから。
体を脱力させて砂浜の上で仰向けになった。
制服が汚れてしまう事などちっぽけな事に感じた。思う存分くつろいだ。
夕方の海は少し向こうに3人家族が見えるだけで、あとはもっと向こうに雲に隠され気味の夕日をバックにサーフィンをしているおじちゃんが1人見えただけだった。誰もこんなふうに寝っ転がる麻衣を気にはしていない。
オレンジを多く含む空が麻衣の視界を満たす。
時期に麻衣の自宅付近には雨が降る事は知っていた。この辺りも降るのだろうか。そんな事を考えている。既に上空左の方から灰色の雲が風の流れに身を任せやって来ていた。降る気満々、といった感じだ。
胸がザワザワして、落ち着かない。
その時”が来たら麻衣はここで息絶えるのだろうか。ここでコテン、と横たわり、死を迎えるのだろうか。最期までこの波の音を聞いて。鼻腔いっぱいに海を感じて。頭の中でこの人生の断片を思い出して、幸せに包まれながら、1人で。
そう遠くない未来の自分の行く末を想像しながら胸にそっと手を当てて考える。ドクンドクン、と脈打つ心臓の鼓動はもう一切伝わって来なかった。
不安を吹き飛ばすかのように、麻衣はグッ、と口角に力を入れて。上げて。ヘラッ、と何食わぬ顔を誰に向けるでも無く、作った。
本当は、本当はね…
気付いて欲しかった。
ーー唯斗は、私が死んだら泣く?
まぁ、そうなんだけど。
あんなふうに、まるでもうすぐ死ぬかのようなフラグを立てたりするんじゃなくて。
ーー期末は頑張ってね?
自分に期末はやってこない、と言いたげな、どこか他人事の意味深なエールを送ったりするんじゃなくて。
そんなふうに情報を小出しにして”察してちゃん”をするんじゃなくて、ちゃんと話したかった。
私は…ちょっと遠い場所から来たんだ、って。
でも話す勇気がどうにも湧いてきてくれなかった。だから今に至っていた。
こうして。麻衣なりに大切な人を想って、猫みたいに行方をくらまして。その結果、麻衣は今こうして海を眺めている。くらます先を考えた時。麻衣はここがいいと真っ先に思い浮かんだのだ。
「楽しかったなぁ…」
涙ながらの鼻声は波の音に一瞬でかき消されていく。ここは…心地がいい。さっきから止まらない涙も、スマホを取り出して唯斗に「本当はまだ好きなの、昨日はごめんね」を言おうと揺れ動く弱い心も、順次波が覆い隠してくれる。
1度目と、2度目の自分がゆっくり重なる。
好きなバンドの片想いを歌った曲に勝手に自分を重ね、感情移入させていた1度目。
同じく、そのバンドの両想いを歌った曲に勝手に唯斗と麻衣を重ね、感情移入させた2度目。
今思えば、片想いも。両想いも。
今となってはどちらも大切な思い出だ。
2度目の朝起きた時なんか、唯斗から新着メッセージがあると、寝起きが悪い癖にその日はパッチリ、と目が冴える。お陰で多分1度目よりも数日遅刻が減った。自分が起こした変化に応じて唯斗がくれた幸せはその度にひたすら脳裏に刻まれていった。
でも───────
もう…終わってしまったのだ。何もかも。
7月17日。只今の時刻18時10分。
ポタポタと雨が降り始めた所だった。
1人。砂浜で泣きじゃくる麻衣の背中に
聞き慣れた声が掛かる。
「ここに居た」
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