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小さな親切が、大きなはじまりを呼ぶ。
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リリリリ、耳障りな電子音が鳴り響く。
カーテンが閉まったままで薄暗い、単身者向けワンルーム。壁際にあるシングルベッドで熟睡している男性の耳元で、目覚まし時計が懸命に鳴り続けている。
「……ん……ん、……」
もぞっと男性が動いて布団の中から腕が伸びる。音の元凶を探して、手がやみくもにあちこちを叩く。
ようやく時計を探り当てた手がスイッチを切り、部屋に静けさが戻る。
男の一人暮らし。適度に散らかっている室内に、目覚ましの音に代わって、部屋の外から生活音が伝わってくる。
その気配にようやく気付いた男性が、ぱっと頭を上げて目を開く。
「! ……ヤバい、今日、木曜日じゃんっ!」
きょろきょろ目を動かしていた男性が叫んで飛び起きた。文字通り飛び上がって身支度を整えだした男性は唐津凛空、もうすぐ三十路、彼女なし。
繊細そうな雰囲気を裏切る、豪快な脱ぎっぷりでパジャマを脱ぎ捨てた。
床に洗濯して取り込んだまま放置していたシャツとジーンズを手早く身に着け、枕元のメガネをかける。
ユニットバスルームに入って、備え付けの小さな鏡の前で、口をゆすぎながらささっと手早く髪を梳かす。
(あ~、今朝も食事抜きか。毎朝ギリッギリだから、それが普通になって……げっ、シワまた増えてんじゃん……老けたなぁ、オレ……)
鏡の中の自分にため息をつきたい心地になりながら、口をすすぐ。
メガネを外してザッと顔を洗ったら、もう間もなく家を出なくては間に合わない時間だった。
玄関に置き捨てていたカバンを拾い上げてスニーカーに足を突っ込む。
ドアを開いて外に出ると、ちょうどお隣さんも廊下に出てくるタイミングだったようで、お互いに目が合った。
「あ、おはようございます」
にっこり穏やかに微笑むお隣さんは、ばっちり決めた爽やかイケメンのビジネスマン。
背が高くて細身だけど、服の上からでも引き締まった体つきがわかる。
彼はちゃんと朝食も摂ったようで活力が全身からみなぎっている。
オーダーメイドっぽい高級スーツが彼によく似合っていて汚れはもちろん乱れもない。
革靴もピカピカに輝いている。
(……あ~ぁ、いつ見てもかっこいいよな、この人……羨ましい)
全身から自信に満ちていることがわかるキラキラした目に見つめられて、凛空は苦笑いしながら挨拶を返す。
もう一度、軽く頭を下げてから悠然とお隣さんが廊下を歩いて行く。
その背中から少し距離を置いて凛空も歩き出す。
(何だって彼、こんな安アパートに住んでるのかね。絶対に高給取りだぞ、あの身なりは)
高嶺の花すぎて見る気にもならない凛空でも知っているブランド物でスーツからバッグなど、一式揃えている。
何よりも彼の充実っぷりを実感させるのは、これまた身なりがとんでもなく良い彼女さんと並んで歩いている姿を目撃したから。穏やかに見つめあい、微笑むふたりの間には絆を実感させられたものだった。
(かたや、わたくし唐津凛空の枯れっぷりときたら。彼が知ったら泣きだしちゃうかもね、あんまりにも哀れすぎちゃってさ)
自嘲するのも億劫になり、凛空はそれ以上考えるのをやめた。
アパートの裏手の自転車置き場から愛車を引っ張り出して、道路へ漕ぎ出す。
同じ道を歩く人の姿は絶頂の時間帯よりは少ない。
最寄り駅はアパートから徒歩十五分ほど。その駅に停車する電車の本数も多いため、古くて狭いことを我慢すればこのアパートはかなり住みやすい。
(……日本国民はすべからく労働し、納税する義務を負う……ったく、誰だよ。こんな迷惑極まりない決まりを作った奴。おかげさんで、オレたちは働けるだけ働かされて、手に入れたそばからじゃんじゃん搾取される人生だよ。ほとんど残りゃしねぇ。農民一揆したくなる気持ちがちとわかるよ。あぁ~ぁ、こんな世の中でも自分の好きなように生きられる奴らがいるってことが、もっと居た堪れない現実だぜ)
どうしたら呪縛を断ち切れるのか秘訣を知りたいね、と考えながら最寄り駅とは違う方向へ走る。
途中ですれ違う大人たちもどう贔屓目に見ても活き活きしているようには見えない。
きっと毎日、金さえあればと悔しがりながら仕方なく社会の歯車に、いや家畜になってる同士だと凛空が勝手に親近感を覚える。
(これぞ、社畜さ。会社の家畜じゃなく、社会の家畜。君たちも大きくなったらオレたちの仲間になって首輪で繋がれるんだぞ~)
保育園の脇を通り過ぎながら、園庭で遊んでいる子どもたちに心の中でそう声をかけていく。
凛空のそんな声を聞いたわけでもないだろうに、ひとりの子どもが不安そうに凛空を見た。その子の純粋な目に凛空は切なく微笑みかけて通り抜ける。
政治家の選挙ポスターにでかでかと書かれている『明るい社会を』の文字に吐き気を感じ、いたずら書きしてやりたくなる。
シャッターが下りたままの商店街を通り抜けて古びた石橋を渡り、小さな神社の前を素通りして、寂れた町中をずんずん走っていく。
二十分ほど走った先に年代物のビルが立ち並ぶエリアに入り、外壁が苔むしたクリーム色のビルの一階に自転車を止めた。
目的地はこのビルの二階。
薄暗い階段を昇って防災扉みたいなドアを開いて中に入ると、雑然と物が詰まった棚が並んでいる。
わずかに残ったスペースを奥まで歩くと小さな部屋がある。
事務机を6つ置いたら歩くのもままならない。窓もない、この小さな事務所が凛空の勤め先だ。
「おはようございます~」
「おはよーさん、唐津」
「おはよう、リクちゃん」
すでに出勤していた眼鏡をかけた男性と、少しふくよかな体つきの女性が挨拶してくれる。
他に二人のパート事務員と、出荷作業員が数名いるだけの小さな職場で、ネットショップを運営している。
はじめは眼鏡の男性、小坂井さんがひとりではじめたネットショップが時代に乗って大きくなり、人手が足りずに知り合いだと言うふくよかな女性、仁科さんを巻き込んで少しずつ人を増やして今に至っている。
二人とも良い人なのだが、凛空がコミュ障なために必要以上の個人情報は聞き出せていない。
(いいんだよ、仕事をしてお金さえもらえればそれで)
自分に割り当てられたデスクのパソコンを立ち上げながら、椅子に腰かけて軽く息を吐きだす。
隣にいる女性の仁科がくすっと小さく笑う。
「リクちゃんったら、またギリお寝坊さんだったの? 寝ぐせ、ここ残ってるわよ」
さらっと後頭部の髪を撫でられて凛空はすみません、と笑ってごまかす。
仁科はお客様対応を一手に引き受けている対人スキルが高い人で、凛空にとってそれが羨ましくもあり苦手でもあった。
「夜遅くまで何やってたの? んふっ、彼女とお楽しみだったのかしら?」
「……違いますよ、そんなんじゃないですって。ただ、ちょっと寝苦しかっただけです」
「またまた~リクちゃんもいいお年頃だもんね。あっという間に結婚して、ここ辞めま~すって言いそうだわ」
仁科のセリフは凛空が二年前に働きはじめた時から繰り返されている。
(この年になるとみんな同じこと言うんだよな)
もはや乾いた笑いしか出てこない。
「オレを好きになる物好きはいませんよ」
「あら、あきらめるのはまだ早いわよ。リクちゃん、顔立ちきれいだし、ちょっと長めのこの髪もアーティストっぽくてカッコいいんだから自信持っていいのよ」
さらっと伸びるがままにしていた前髪を、仁科が指先で軽く払って微笑む。
「おだててもムダですよ。見た目がどうかより、この歳になれば別のハードルが立ちふさがるんです。仁科さんだって知ってるでしょ、オレの稼ぎ」
ふたりとも同じ立場だ。業務内容が少し凛空の方が専門的なため、わずかに時給が高いものの、大きな差はない。
仁科は少し困ったように笑って、引き出しから飴を取り出し、凛空に手渡す。
「とにかく、何も食べないのは頭にも体にも悪いわ。せめてコレでも食べて」
「ありがとうございます」
それきり会話が続かず、仁科は方向転換して小坂井と旦那や子どもの愚痴などで盛り上がりはじめる。
ちなみに小坂井は結婚して三年の子どもなし、仁科は結婚生活八年で二人の子持ちらしい。
少しだけ、ふたりが羨ましいと思いながら、もらった飴を口に投げ入れる。
残り二人が出勤してくるまで、凛空は黙ってパソコンを操作して始業の準備を続けた。
やがて全員が揃うと短い朝礼をして連絡事項を確認し合うと、それぞれの業務にわかれる。
注文を受けた商品を梱包して配送会社に運送を委託するまでの作業を出荷作業員が行い、仁科が注文の確認や商品発注、問い合わせ対応をする。
小坂井は新商品の仕入れや既存取引先との交渉、商品ページの更新を行うこともある。
凛空は基本は商品撮影やページ作成・更新が主な業務になる。
たまに電話が立て続けに鳴り、仁科や小坂井が対応できない時に電話をとるものの、口が上手くないので用件だけ確認すると折り返し電話を待ってもらう。
(この仕事、嫌いじゃないんだけどね……)
商品ごとに特徴があって、それをわかりやすく伝えることは面白いと思う。
まるで一つ一つが教え子で、全国規模でその子の長所を発信しているようなもの。
使ってくれた人がこの商品がいいよと誉めてくれると、凛空が作ったわけでもないのにちゃんと長所を伝えられた、認めてもらえた気がしてうれしくなる。
(だけど給料安いんだよね~)
凛空はもうすぐ三十路。同年代の男性の平均年収を聞いて、絶望感がないわけじゃない。
そもそも正社員じゃない、フルタイムで働くパートだ。ボーナスなんてほとんど出ない。
正直言って、アパートの家賃と食費で給料はほぼ消費されてしまう。
凛空は対人関係が苦手で学生時代から失敗し続けてきた。失敗経験は人を臆病にする。
高校卒業後に就職するのが怖くなり、専門学校進学を選んだものの、そこでも挫折して就職した先でも解雇されて自信を失い、できるだけ人と関わらずにパートとして職を転々としている。
だからって起業する才覚もなく、両親も普通の会社員でコネもない。
(……どうしたもんかね……)
まるで他人事みたいに考えながらページを作っていく。
ぱっと一目で商品の長所が伝わる画像、間違いなく商品情報を伝えること。
毎日くり返したおかげで、ずいぶんと手馴れて少しぐらい考え事をしていても指がさくさく動いてくれるのがありがたいような悲しいような。
そうこうしているうちに昼近くなって、急に職場の空気が悪くなった。
職場のリーダー的存在の小坂井には上司がいる。ネットショップは一部署で、大本の会社が存在しているのだ。
小坂井の上司は横暴で、小坂井はしょっちゅう上司に当たり散らされて不機嫌になる。
苛々しているのが丸わかりの小坂井は、はっきり言って幼稚園児だ。
「なんでやらんの」
「やらないとは言ってません。この指示を遂行するための時間を予測すると、他の業務がこれくらい滞りますがよろしいでしょうかと伺っているだけです」
「そんなん、残ってでもやってけ」
「残業しても給与には反映されませんよね」
「ぐだぐだ言い返す時間を仕事に割り当てれば済むだろうが!」
いつもは楽しそうな仁科と小坂井はどこへやら、不機嫌な時の小坂井との会話はすくみあがるほど険悪になる。
困るのは小坂井が上司に言われる時の態度が、そのまま仁科や凛空にも向けられることだ。
つまり小坂井の上司の横暴さが、小坂井に乗り移っている。
以前、目の前で小坂井が上司に怒鳴られているのを見たからわかる。
小坂井が仁科に命じた業務内容は、本来なら店長の立場にいる小坂井が行うべき仕事で、仁科本来の業務に影響があるのなら確認を取りに行くのは間違っていないはずなのに、頭ごなしに怒鳴りつけてくる。
仁科も凛空と同じフルタイムのパートで、小坂井だけが正社員なのに、仁科へ業務内容以外の仕事もちょくちょく任せて、自分は煙草を吸いに行っている。
(上司も上司なら、部下も部下。オレもそんな風に見られてんのかなぁ)
凛空はそっとため息をついた。
命じられれば仕事はする。だけどパートに働かせて、煙草を吸いに行く正社員はどうなんだと思う。
(しかも自分じゃシステムの使い方がわからないから仁科さんに任せたくて、駄々こねてんだよな。オレはあそこまで落ちぶれてないと思いたい)
重い気持ちのまま勤務時間を過ごし、キリがついたところでちょうど終業時間になる。
相変わらず不機嫌な小坂井が仕切る終礼が終わると、仁科は小坂井に命じられれた仕事を適当に片付けたようで、手短に報告して、さっさと帰っていく。
やり残した別の仕事は明日、また早めに出勤して時間外に片付けるのだろう。
昼頃から一切話さなくなった仁科の後ろ姿が怒りのオーラを出していた。
凛空も業務報告を小坂井に簡潔に告げて、カバンを持ち上げて外に出る。
今日は幸いにも仕事が順調に進んでくれた。ネットショップの仕事は終わりがないが、基本的にパートは時間給だから残業は上司の許可が必要で、凛空が業務報告をした際に何も言わない時は帰れと言う意味だった。
黙ったままの小坂井や他のパートや作業員にも挨拶をしてビルを出る。
自転車に乗ると、枯れかけの植物が水を吸った時のような気分になった。
(……まったく、疲れたなぁ……何か、いいことないかなぁ)
ろくでもない上司の態度を目の当たりにしたことは今日がはじめてじゃない。
凛空が小坂井の標的になることも多々ある。
そんな日は特に自分の不甲斐なさを痛感していたたまれない気持ちになってしまう。
(お隣さんみたいに、バリバリ働ける才覚があったらなぁ。機嫌が乱高下する上司の下からさっさと飛び出して新天地を目指せるのに)
ビシッとスーツ姿をキメて、さりげなく高級時計はめて仕事が出来る男になってみたかった。
(現実は残酷よ……甘い物食べたいなぁ……)
すい~っと走る途中でコンビニを見かけ、新発売スイーツの広告に目を奪われる。
今日と言う一日の後味の悪さを、甘いスイーツで払拭したいと誘惑にかられるものの、朝食を兼ねた昼食でお金を使ってしまった。
夕食も何にするか悩んでいるのにスイーツにまで手を伸ばす余裕はない。
(くっ……ごめんよ、新作スイーツ! オレに甲斐性がないばかりに、君を食べてあげられないッ!)
凛空の中ではデビューできないだろうスイーツへ心の中で別れを告げる。
結局、冷蔵庫の中でくたびれていた野菜とクイック総菜の素で夕食を作って、わびしく食べることにしようと算段がついた時だった。
「わっ!」
短く小さいけど鋭い声が聞こえた直後、ダンッと何かが倒れる音がした。
はっと音の方を向くと、コンビニ脇の道から飛び出してきた自転車を避けようとした高校生の男の子がバランスを崩して倒れたところだった。
自転車を運転していたのは少し年配の男性だったけど、高校生をちらっと見て不快そうな顔をするだけで走り去ってしまう。
(おいおい、こらこら、おっさん! あんたが倒したんだろうが!)
呼び止めようかと迷いつつ、とりあえず心配なのは高校生の方で、そちらへ自転車を向ける。
「あんた、大丈夫か?」
自転車にぶつかりかけた高校生が近づいてくる自転車を見たら恐れるかもしれない、と思った凛空は少し離れた場所で自転車を止めてから、高校生に近寄って声をかける。
さらさらの黒髪、まだ新しそうな制服を着ている高校生が、凛空を見上げると小さく微笑んだ。
(うっ……かわいい……最近の子にしては珍しい、純朴そうな子……)
三十路間近の負け組には目の毒なほど、汚れのない素直な目と笑顔に胸がきゅんっとすると同時に、溢れる若さが眩しすぎて精神的なダメージを食らう。
(ぐふっ……オジサンにはちょっと辛いわ、その純粋さがっ!!)
しかも今日は汚れた大人の部分を見せつけられた一日だったのだ。
清らかさを浴びて精神が浄化する過程の痛みを感じながら、高校生の目線に合わせて腰を落とす。
「怪我はないか? 痛いところはない?」
「はい、ありがとうございます! ちょっと腰を打ったみたいですが、ほら、しっかり歩けますし、支障はありません!」
はきはき答える声はまだ少年らしさが残っている。顔立ちもまずまずで、明日もずっと幸せでいられると信じきっているまっすぐな目に、凛空は少し嫉妬する。
(いいな、若いって、ほんとにいいな…)
哀愁を感じつつ、顔には出さないで笑顔で頷いてみせる。
「あ、でも手はすりむいてる! ちょっと待ってな」
高校生の左手が転んだ拍子に地面に擦れたようで、すりむいて血が滲んでいる。
カバンの中を慌てて漁って、ようやく絆創膏を見つけた。
「……ん、と……あ、あった! はい、これ貼ってあげるよ」
一年以上前に、商品梱包を手伝っていた時にダンボールの縁で手を切ってしまったことがある。
その時、仁科が多めにくれて残ったものをカバンに入れたままにしていた。
絆創膏を手に貼ってあげると、高校生がはにかんだ笑顔になってお礼を言う。
(い、いかん……これ以上、この清浄な空気を浴びていては、オレの汚れて疲れ切った心が悲鳴を上げる……耐えきれなくなる前に、さっと別れを告げて去るのみ!)
凛空もにっこり笑顔を取り繕い、高校生にもう一度だけ安否を確認してから、さっと片手を上げて別れる挨拶をした。
「それじゃ、気を付けて帰るんだよ」
「あっ、待って! お礼を、何かお礼をさせてください」
「それくらいお礼なんて要らないって。じゃあな」
まだ引き留めようとする高校生の気配を背中で断ち切って、自転車に駆け寄ると速攻で漕ぎ出す。
なぜだろう、人助けをするつもりだったのにかえって自分自身の方が精神攻撃を食らってしまった。
これもすべて上司に当たり散らされた小坂井が放つ負のオーラに精神が毒されていたからに違いない。
凛空は心の中で小坂井とその上司に文句を言い放ちつつ、立ち漕ぎをしていつもの倍速でアパートに戻る。
「ただいま~、だれもいないけど言ってみる、さみしいアラサーでーす」
投げやりに言い放ちながら、凛空はスニーカーを脱いでカバンをその場に放り出す。
今朝新たなシワを見つけた鏡の前で手を洗い、自然とため息がこぼれ落ちる。
(……今日も終わっちったな……オレ、こうして終わるのかな……)
雑に残り物野菜を洗い、切って、炒めながらぼうっと考える。
職場の人と仲良くなったことがない。学生時代の友人ともほとんど会わなくなってしまうこの年になると、休日もろくな予定がない。
仕事に行って、帰って食事をして風呂に入って寝て起きて、また仕事に行く。
毎日、朝晩ほとんど変化のない日常。
(平和ってことだけど、これでいいんだろうか……?)
かと言って興味のある職種や職場が他になく、特技もない。
こんな身分じゃ、もし仮に気になる女性と知り合えたとしてもアピールできないだろう。
少ない収入、単身者アパートに賃貸暮らし、車なし、彼女もなし。
(笑えるくらいにないない尽くしだな、オレ)
炒め終えた野菜にインスタント調味料を投入したところで、お隣さんから物音が聞こえてくる。
はっきり聞こえないけど人の話し声らしき音がふたつ聞こえる。きっと例の彼女と一緒に帰宅したんだろう。
カチッと火を止めて皿に盛り付け、冷凍しておいた白米を解凍してその上に載せる。
「ワンプレートディナーの完成でーす!」
ちゃっちゃららーん、と効果音を口ずさみながら皿を頭上高く掲げる。
当然ながら部屋の中は静かなまま。
(……いいんだよ、これくらい言わなきゃ気が沈むばかりだっての)
隣から聞こえてくるわずかな物音がやけに気に障る。
ひとりでむしゃむしゃ食べながら、いたたまれなくなってスマホで無料動画を見ることにする。
古いアパートなのに住民が使えるwifi環境がある。通信料は使っても使わなくても定額で家賃に含まれている。
だからテレビは買わず、スマホだけが外界からの情報源になっている。
(どうせ料金を払うなら、使わな損だもんな~)
動画を見ると言っても、一日中パソコン作業をしていた目は疲れていて鈍く痛い。
ただ音を流しているだけのような状態で夕食を終え、片づけをしてから風呂場へ向かう。
お湯に浸かっても狭いユニットバスでは足を伸ばせない。
くつろげるような状態じゃないけど、せめてあたたかさだけは味わおうと目を閉じる。
(はぁ……これだけがせめてもの癒しだよねぇ……)
節約のために、風呂を溜めて入るのは一日置きにしている。入れない日はさっとシャワーで済ませるだけで、やっぱり入浴した時ほどさっぱりできない。
風呂を堪能して外に出る。洗濯物を洗濯機に押し込んで始動させたら、終わるまで時間がある。
念のために連絡がなかったか、スマホを確認する。
(……ゲッ、何だよ小坂井の奴……呑気に家族写真を送信している場合か?)
職場を出た時は不機嫌の塊だった小坂井は、帰宅して最愛の妻とのひと時に機嫌を良くしたらしい。
無邪気に手料理と妻とのツーショットを無料メッセージ交換アプリで送ってくる。
ちなみに職場の全員がひとつのグループに入っている。出張することもある小坂井に、業務中に何か起きた時に連絡するために使用しているはずが、小坂井は勘違いしてプライベートもかなり頻繁に連絡してくる。
(仁科さんが来なくなったら、あんたどうするつもり。オレは無理だからな、彼女みたいな神対応)
まったく対人スキルや電話応対と言うのは、立派な才能、特技だ。
からきしその手の能力が欠乏している凛空が、どんなに訓練を重ねても仁科の代役にはなれない。
どれだけ仁科が職場において貴重な人材なのかを小坂井は分かっていない。
もし分かっていて、あんな態度をとっているのなら小坂井は勘違いしている。仁科が優しくしてくれる、どれだけ八つ当たりしても許してくれると思っているのではないか。
(あんなの、実の息子でも腹立つ態度なんだから、家族でもない小坂井をいつまでも仁科さんが受け入れてくれるわけないじゃん)
いつか遠くない未来、仁科が辞めそうだと思うと憂鬱な気分が増す。
パソコン作業が苦にならないからこそ、今の職場がちょうどいい感じなのに顧客対応まで任されたら今の業務に支障が出るし、精神的にももたないだろう。
(……本気で転職先探さないと……)
とりあえず無料登録だけした転職サイトで求人情報を流し見ていると、ピピ~ッと洗濯機が完了を知らせる音が聞こえる。
続きはまた今度、とスマホを手放して洗濯物を干しに行き、ついでに歯磨きも終わらせると眠気がどっと押し寄せる。
(……寝るか)
盗まれる物なんてほとんどないけど、念のために戸締りを確認してから明かりを消し、ベッドに潜り込む。
枕元にメガネを外して置き、大きくあくびをする。
(あぁ、この瞬間! 今、この時の至福のために仕事していると言えるっ! ありがとう、布団よ。今夜もお前に包まれて、いざ行こう、安らかなる眠りの世界へ!)
ふぅ~っ、と満足気な息を長く吐き出して、あっさりと凛空は眠ってしまった。
遠くを走る車の音や、隣から漏れ聞こえるかすかな物音も、時計の秒針が時を刻む音も凛空には届かない。
安らかで深い眠りを堪能する間に、自分の身に何が起きるのかも知らずに、ただただ眠り続けている。
やがて静けさと暗闇が色濃い部屋の隅で、わずかな振動が起きる。
少しずつ少しずつ振動の中に気配が生まれて大きくなっていく。
けれど凛空は気づかない。
平和で面白みのない凛空の日常は、この夜、終わりを告げた。
カーテンが閉まったままで薄暗い、単身者向けワンルーム。壁際にあるシングルベッドで熟睡している男性の耳元で、目覚まし時計が懸命に鳴り続けている。
「……ん……ん、……」
もぞっと男性が動いて布団の中から腕が伸びる。音の元凶を探して、手がやみくもにあちこちを叩く。
ようやく時計を探り当てた手がスイッチを切り、部屋に静けさが戻る。
男の一人暮らし。適度に散らかっている室内に、目覚ましの音に代わって、部屋の外から生活音が伝わってくる。
その気配にようやく気付いた男性が、ぱっと頭を上げて目を開く。
「! ……ヤバい、今日、木曜日じゃんっ!」
きょろきょろ目を動かしていた男性が叫んで飛び起きた。文字通り飛び上がって身支度を整えだした男性は唐津凛空、もうすぐ三十路、彼女なし。
繊細そうな雰囲気を裏切る、豪快な脱ぎっぷりでパジャマを脱ぎ捨てた。
床に洗濯して取り込んだまま放置していたシャツとジーンズを手早く身に着け、枕元のメガネをかける。
ユニットバスルームに入って、備え付けの小さな鏡の前で、口をゆすぎながらささっと手早く髪を梳かす。
(あ~、今朝も食事抜きか。毎朝ギリッギリだから、それが普通になって……げっ、シワまた増えてんじゃん……老けたなぁ、オレ……)
鏡の中の自分にため息をつきたい心地になりながら、口をすすぐ。
メガネを外してザッと顔を洗ったら、もう間もなく家を出なくては間に合わない時間だった。
玄関に置き捨てていたカバンを拾い上げてスニーカーに足を突っ込む。
ドアを開いて外に出ると、ちょうどお隣さんも廊下に出てくるタイミングだったようで、お互いに目が合った。
「あ、おはようございます」
にっこり穏やかに微笑むお隣さんは、ばっちり決めた爽やかイケメンのビジネスマン。
背が高くて細身だけど、服の上からでも引き締まった体つきがわかる。
彼はちゃんと朝食も摂ったようで活力が全身からみなぎっている。
オーダーメイドっぽい高級スーツが彼によく似合っていて汚れはもちろん乱れもない。
革靴もピカピカに輝いている。
(……あ~ぁ、いつ見てもかっこいいよな、この人……羨ましい)
全身から自信に満ちていることがわかるキラキラした目に見つめられて、凛空は苦笑いしながら挨拶を返す。
もう一度、軽く頭を下げてから悠然とお隣さんが廊下を歩いて行く。
その背中から少し距離を置いて凛空も歩き出す。
(何だって彼、こんな安アパートに住んでるのかね。絶対に高給取りだぞ、あの身なりは)
高嶺の花すぎて見る気にもならない凛空でも知っているブランド物でスーツからバッグなど、一式揃えている。
何よりも彼の充実っぷりを実感させるのは、これまた身なりがとんでもなく良い彼女さんと並んで歩いている姿を目撃したから。穏やかに見つめあい、微笑むふたりの間には絆を実感させられたものだった。
(かたや、わたくし唐津凛空の枯れっぷりときたら。彼が知ったら泣きだしちゃうかもね、あんまりにも哀れすぎちゃってさ)
自嘲するのも億劫になり、凛空はそれ以上考えるのをやめた。
アパートの裏手の自転車置き場から愛車を引っ張り出して、道路へ漕ぎ出す。
同じ道を歩く人の姿は絶頂の時間帯よりは少ない。
最寄り駅はアパートから徒歩十五分ほど。その駅に停車する電車の本数も多いため、古くて狭いことを我慢すればこのアパートはかなり住みやすい。
(……日本国民はすべからく労働し、納税する義務を負う……ったく、誰だよ。こんな迷惑極まりない決まりを作った奴。おかげさんで、オレたちは働けるだけ働かされて、手に入れたそばからじゃんじゃん搾取される人生だよ。ほとんど残りゃしねぇ。農民一揆したくなる気持ちがちとわかるよ。あぁ~ぁ、こんな世の中でも自分の好きなように生きられる奴らがいるってことが、もっと居た堪れない現実だぜ)
どうしたら呪縛を断ち切れるのか秘訣を知りたいね、と考えながら最寄り駅とは違う方向へ走る。
途中ですれ違う大人たちもどう贔屓目に見ても活き活きしているようには見えない。
きっと毎日、金さえあればと悔しがりながら仕方なく社会の歯車に、いや家畜になってる同士だと凛空が勝手に親近感を覚える。
(これぞ、社畜さ。会社の家畜じゃなく、社会の家畜。君たちも大きくなったらオレたちの仲間になって首輪で繋がれるんだぞ~)
保育園の脇を通り過ぎながら、園庭で遊んでいる子どもたちに心の中でそう声をかけていく。
凛空のそんな声を聞いたわけでもないだろうに、ひとりの子どもが不安そうに凛空を見た。その子の純粋な目に凛空は切なく微笑みかけて通り抜ける。
政治家の選挙ポスターにでかでかと書かれている『明るい社会を』の文字に吐き気を感じ、いたずら書きしてやりたくなる。
シャッターが下りたままの商店街を通り抜けて古びた石橋を渡り、小さな神社の前を素通りして、寂れた町中をずんずん走っていく。
二十分ほど走った先に年代物のビルが立ち並ぶエリアに入り、外壁が苔むしたクリーム色のビルの一階に自転車を止めた。
目的地はこのビルの二階。
薄暗い階段を昇って防災扉みたいなドアを開いて中に入ると、雑然と物が詰まった棚が並んでいる。
わずかに残ったスペースを奥まで歩くと小さな部屋がある。
事務机を6つ置いたら歩くのもままならない。窓もない、この小さな事務所が凛空の勤め先だ。
「おはようございます~」
「おはよーさん、唐津」
「おはよう、リクちゃん」
すでに出勤していた眼鏡をかけた男性と、少しふくよかな体つきの女性が挨拶してくれる。
他に二人のパート事務員と、出荷作業員が数名いるだけの小さな職場で、ネットショップを運営している。
はじめは眼鏡の男性、小坂井さんがひとりではじめたネットショップが時代に乗って大きくなり、人手が足りずに知り合いだと言うふくよかな女性、仁科さんを巻き込んで少しずつ人を増やして今に至っている。
二人とも良い人なのだが、凛空がコミュ障なために必要以上の個人情報は聞き出せていない。
(いいんだよ、仕事をしてお金さえもらえればそれで)
自分に割り当てられたデスクのパソコンを立ち上げながら、椅子に腰かけて軽く息を吐きだす。
隣にいる女性の仁科がくすっと小さく笑う。
「リクちゃんったら、またギリお寝坊さんだったの? 寝ぐせ、ここ残ってるわよ」
さらっと後頭部の髪を撫でられて凛空はすみません、と笑ってごまかす。
仁科はお客様対応を一手に引き受けている対人スキルが高い人で、凛空にとってそれが羨ましくもあり苦手でもあった。
「夜遅くまで何やってたの? んふっ、彼女とお楽しみだったのかしら?」
「……違いますよ、そんなんじゃないですって。ただ、ちょっと寝苦しかっただけです」
「またまた~リクちゃんもいいお年頃だもんね。あっという間に結婚して、ここ辞めま~すって言いそうだわ」
仁科のセリフは凛空が二年前に働きはじめた時から繰り返されている。
(この年になるとみんな同じこと言うんだよな)
もはや乾いた笑いしか出てこない。
「オレを好きになる物好きはいませんよ」
「あら、あきらめるのはまだ早いわよ。リクちゃん、顔立ちきれいだし、ちょっと長めのこの髪もアーティストっぽくてカッコいいんだから自信持っていいのよ」
さらっと伸びるがままにしていた前髪を、仁科が指先で軽く払って微笑む。
「おだててもムダですよ。見た目がどうかより、この歳になれば別のハードルが立ちふさがるんです。仁科さんだって知ってるでしょ、オレの稼ぎ」
ふたりとも同じ立場だ。業務内容が少し凛空の方が専門的なため、わずかに時給が高いものの、大きな差はない。
仁科は少し困ったように笑って、引き出しから飴を取り出し、凛空に手渡す。
「とにかく、何も食べないのは頭にも体にも悪いわ。せめてコレでも食べて」
「ありがとうございます」
それきり会話が続かず、仁科は方向転換して小坂井と旦那や子どもの愚痴などで盛り上がりはじめる。
ちなみに小坂井は結婚して三年の子どもなし、仁科は結婚生活八年で二人の子持ちらしい。
少しだけ、ふたりが羨ましいと思いながら、もらった飴を口に投げ入れる。
残り二人が出勤してくるまで、凛空は黙ってパソコンを操作して始業の準備を続けた。
やがて全員が揃うと短い朝礼をして連絡事項を確認し合うと、それぞれの業務にわかれる。
注文を受けた商品を梱包して配送会社に運送を委託するまでの作業を出荷作業員が行い、仁科が注文の確認や商品発注、問い合わせ対応をする。
小坂井は新商品の仕入れや既存取引先との交渉、商品ページの更新を行うこともある。
凛空は基本は商品撮影やページ作成・更新が主な業務になる。
たまに電話が立て続けに鳴り、仁科や小坂井が対応できない時に電話をとるものの、口が上手くないので用件だけ確認すると折り返し電話を待ってもらう。
(この仕事、嫌いじゃないんだけどね……)
商品ごとに特徴があって、それをわかりやすく伝えることは面白いと思う。
まるで一つ一つが教え子で、全国規模でその子の長所を発信しているようなもの。
使ってくれた人がこの商品がいいよと誉めてくれると、凛空が作ったわけでもないのにちゃんと長所を伝えられた、認めてもらえた気がしてうれしくなる。
(だけど給料安いんだよね~)
凛空はもうすぐ三十路。同年代の男性の平均年収を聞いて、絶望感がないわけじゃない。
そもそも正社員じゃない、フルタイムで働くパートだ。ボーナスなんてほとんど出ない。
正直言って、アパートの家賃と食費で給料はほぼ消費されてしまう。
凛空は対人関係が苦手で学生時代から失敗し続けてきた。失敗経験は人を臆病にする。
高校卒業後に就職するのが怖くなり、専門学校進学を選んだものの、そこでも挫折して就職した先でも解雇されて自信を失い、できるだけ人と関わらずにパートとして職を転々としている。
だからって起業する才覚もなく、両親も普通の会社員でコネもない。
(……どうしたもんかね……)
まるで他人事みたいに考えながらページを作っていく。
ぱっと一目で商品の長所が伝わる画像、間違いなく商品情報を伝えること。
毎日くり返したおかげで、ずいぶんと手馴れて少しぐらい考え事をしていても指がさくさく動いてくれるのがありがたいような悲しいような。
そうこうしているうちに昼近くなって、急に職場の空気が悪くなった。
職場のリーダー的存在の小坂井には上司がいる。ネットショップは一部署で、大本の会社が存在しているのだ。
小坂井の上司は横暴で、小坂井はしょっちゅう上司に当たり散らされて不機嫌になる。
苛々しているのが丸わかりの小坂井は、はっきり言って幼稚園児だ。
「なんでやらんの」
「やらないとは言ってません。この指示を遂行するための時間を予測すると、他の業務がこれくらい滞りますがよろしいでしょうかと伺っているだけです」
「そんなん、残ってでもやってけ」
「残業しても給与には反映されませんよね」
「ぐだぐだ言い返す時間を仕事に割り当てれば済むだろうが!」
いつもは楽しそうな仁科と小坂井はどこへやら、不機嫌な時の小坂井との会話はすくみあがるほど険悪になる。
困るのは小坂井が上司に言われる時の態度が、そのまま仁科や凛空にも向けられることだ。
つまり小坂井の上司の横暴さが、小坂井に乗り移っている。
以前、目の前で小坂井が上司に怒鳴られているのを見たからわかる。
小坂井が仁科に命じた業務内容は、本来なら店長の立場にいる小坂井が行うべき仕事で、仁科本来の業務に影響があるのなら確認を取りに行くのは間違っていないはずなのに、頭ごなしに怒鳴りつけてくる。
仁科も凛空と同じフルタイムのパートで、小坂井だけが正社員なのに、仁科へ業務内容以外の仕事もちょくちょく任せて、自分は煙草を吸いに行っている。
(上司も上司なら、部下も部下。オレもそんな風に見られてんのかなぁ)
凛空はそっとため息をついた。
命じられれば仕事はする。だけどパートに働かせて、煙草を吸いに行く正社員はどうなんだと思う。
(しかも自分じゃシステムの使い方がわからないから仁科さんに任せたくて、駄々こねてんだよな。オレはあそこまで落ちぶれてないと思いたい)
重い気持ちのまま勤務時間を過ごし、キリがついたところでちょうど終業時間になる。
相変わらず不機嫌な小坂井が仕切る終礼が終わると、仁科は小坂井に命じられれた仕事を適当に片付けたようで、手短に報告して、さっさと帰っていく。
やり残した別の仕事は明日、また早めに出勤して時間外に片付けるのだろう。
昼頃から一切話さなくなった仁科の後ろ姿が怒りのオーラを出していた。
凛空も業務報告を小坂井に簡潔に告げて、カバンを持ち上げて外に出る。
今日は幸いにも仕事が順調に進んでくれた。ネットショップの仕事は終わりがないが、基本的にパートは時間給だから残業は上司の許可が必要で、凛空が業務報告をした際に何も言わない時は帰れと言う意味だった。
黙ったままの小坂井や他のパートや作業員にも挨拶をしてビルを出る。
自転車に乗ると、枯れかけの植物が水を吸った時のような気分になった。
(……まったく、疲れたなぁ……何か、いいことないかなぁ)
ろくでもない上司の態度を目の当たりにしたことは今日がはじめてじゃない。
凛空が小坂井の標的になることも多々ある。
そんな日は特に自分の不甲斐なさを痛感していたたまれない気持ちになってしまう。
(お隣さんみたいに、バリバリ働ける才覚があったらなぁ。機嫌が乱高下する上司の下からさっさと飛び出して新天地を目指せるのに)
ビシッとスーツ姿をキメて、さりげなく高級時計はめて仕事が出来る男になってみたかった。
(現実は残酷よ……甘い物食べたいなぁ……)
すい~っと走る途中でコンビニを見かけ、新発売スイーツの広告に目を奪われる。
今日と言う一日の後味の悪さを、甘いスイーツで払拭したいと誘惑にかられるものの、朝食を兼ねた昼食でお金を使ってしまった。
夕食も何にするか悩んでいるのにスイーツにまで手を伸ばす余裕はない。
(くっ……ごめんよ、新作スイーツ! オレに甲斐性がないばかりに、君を食べてあげられないッ!)
凛空の中ではデビューできないだろうスイーツへ心の中で別れを告げる。
結局、冷蔵庫の中でくたびれていた野菜とクイック総菜の素で夕食を作って、わびしく食べることにしようと算段がついた時だった。
「わっ!」
短く小さいけど鋭い声が聞こえた直後、ダンッと何かが倒れる音がした。
はっと音の方を向くと、コンビニ脇の道から飛び出してきた自転車を避けようとした高校生の男の子がバランスを崩して倒れたところだった。
自転車を運転していたのは少し年配の男性だったけど、高校生をちらっと見て不快そうな顔をするだけで走り去ってしまう。
(おいおい、こらこら、おっさん! あんたが倒したんだろうが!)
呼び止めようかと迷いつつ、とりあえず心配なのは高校生の方で、そちらへ自転車を向ける。
「あんた、大丈夫か?」
自転車にぶつかりかけた高校生が近づいてくる自転車を見たら恐れるかもしれない、と思った凛空は少し離れた場所で自転車を止めてから、高校生に近寄って声をかける。
さらさらの黒髪、まだ新しそうな制服を着ている高校生が、凛空を見上げると小さく微笑んだ。
(うっ……かわいい……最近の子にしては珍しい、純朴そうな子……)
三十路間近の負け組には目の毒なほど、汚れのない素直な目と笑顔に胸がきゅんっとすると同時に、溢れる若さが眩しすぎて精神的なダメージを食らう。
(ぐふっ……オジサンにはちょっと辛いわ、その純粋さがっ!!)
しかも今日は汚れた大人の部分を見せつけられた一日だったのだ。
清らかさを浴びて精神が浄化する過程の痛みを感じながら、高校生の目線に合わせて腰を落とす。
「怪我はないか? 痛いところはない?」
「はい、ありがとうございます! ちょっと腰を打ったみたいですが、ほら、しっかり歩けますし、支障はありません!」
はきはき答える声はまだ少年らしさが残っている。顔立ちもまずまずで、明日もずっと幸せでいられると信じきっているまっすぐな目に、凛空は少し嫉妬する。
(いいな、若いって、ほんとにいいな…)
哀愁を感じつつ、顔には出さないで笑顔で頷いてみせる。
「あ、でも手はすりむいてる! ちょっと待ってな」
高校生の左手が転んだ拍子に地面に擦れたようで、すりむいて血が滲んでいる。
カバンの中を慌てて漁って、ようやく絆創膏を見つけた。
「……ん、と……あ、あった! はい、これ貼ってあげるよ」
一年以上前に、商品梱包を手伝っていた時にダンボールの縁で手を切ってしまったことがある。
その時、仁科が多めにくれて残ったものをカバンに入れたままにしていた。
絆創膏を手に貼ってあげると、高校生がはにかんだ笑顔になってお礼を言う。
(い、いかん……これ以上、この清浄な空気を浴びていては、オレの汚れて疲れ切った心が悲鳴を上げる……耐えきれなくなる前に、さっと別れを告げて去るのみ!)
凛空もにっこり笑顔を取り繕い、高校生にもう一度だけ安否を確認してから、さっと片手を上げて別れる挨拶をした。
「それじゃ、気を付けて帰るんだよ」
「あっ、待って! お礼を、何かお礼をさせてください」
「それくらいお礼なんて要らないって。じゃあな」
まだ引き留めようとする高校生の気配を背中で断ち切って、自転車に駆け寄ると速攻で漕ぎ出す。
なぜだろう、人助けをするつもりだったのにかえって自分自身の方が精神攻撃を食らってしまった。
これもすべて上司に当たり散らされた小坂井が放つ負のオーラに精神が毒されていたからに違いない。
凛空は心の中で小坂井とその上司に文句を言い放ちつつ、立ち漕ぎをしていつもの倍速でアパートに戻る。
「ただいま~、だれもいないけど言ってみる、さみしいアラサーでーす」
投げやりに言い放ちながら、凛空はスニーカーを脱いでカバンをその場に放り出す。
今朝新たなシワを見つけた鏡の前で手を洗い、自然とため息がこぼれ落ちる。
(……今日も終わっちったな……オレ、こうして終わるのかな……)
雑に残り物野菜を洗い、切って、炒めながらぼうっと考える。
職場の人と仲良くなったことがない。学生時代の友人ともほとんど会わなくなってしまうこの年になると、休日もろくな予定がない。
仕事に行って、帰って食事をして風呂に入って寝て起きて、また仕事に行く。
毎日、朝晩ほとんど変化のない日常。
(平和ってことだけど、これでいいんだろうか……?)
かと言って興味のある職種や職場が他になく、特技もない。
こんな身分じゃ、もし仮に気になる女性と知り合えたとしてもアピールできないだろう。
少ない収入、単身者アパートに賃貸暮らし、車なし、彼女もなし。
(笑えるくらいにないない尽くしだな、オレ)
炒め終えた野菜にインスタント調味料を投入したところで、お隣さんから物音が聞こえてくる。
はっきり聞こえないけど人の話し声らしき音がふたつ聞こえる。きっと例の彼女と一緒に帰宅したんだろう。
カチッと火を止めて皿に盛り付け、冷凍しておいた白米を解凍してその上に載せる。
「ワンプレートディナーの完成でーす!」
ちゃっちゃららーん、と効果音を口ずさみながら皿を頭上高く掲げる。
当然ながら部屋の中は静かなまま。
(……いいんだよ、これくらい言わなきゃ気が沈むばかりだっての)
隣から聞こえてくるわずかな物音がやけに気に障る。
ひとりでむしゃむしゃ食べながら、いたたまれなくなってスマホで無料動画を見ることにする。
古いアパートなのに住民が使えるwifi環境がある。通信料は使っても使わなくても定額で家賃に含まれている。
だからテレビは買わず、スマホだけが外界からの情報源になっている。
(どうせ料金を払うなら、使わな損だもんな~)
動画を見ると言っても、一日中パソコン作業をしていた目は疲れていて鈍く痛い。
ただ音を流しているだけのような状態で夕食を終え、片づけをしてから風呂場へ向かう。
お湯に浸かっても狭いユニットバスでは足を伸ばせない。
くつろげるような状態じゃないけど、せめてあたたかさだけは味わおうと目を閉じる。
(はぁ……これだけがせめてもの癒しだよねぇ……)
節約のために、風呂を溜めて入るのは一日置きにしている。入れない日はさっとシャワーで済ませるだけで、やっぱり入浴した時ほどさっぱりできない。
風呂を堪能して外に出る。洗濯物を洗濯機に押し込んで始動させたら、終わるまで時間がある。
念のために連絡がなかったか、スマホを確認する。
(……ゲッ、何だよ小坂井の奴……呑気に家族写真を送信している場合か?)
職場を出た時は不機嫌の塊だった小坂井は、帰宅して最愛の妻とのひと時に機嫌を良くしたらしい。
無邪気に手料理と妻とのツーショットを無料メッセージ交換アプリで送ってくる。
ちなみに職場の全員がひとつのグループに入っている。出張することもある小坂井に、業務中に何か起きた時に連絡するために使用しているはずが、小坂井は勘違いしてプライベートもかなり頻繁に連絡してくる。
(仁科さんが来なくなったら、あんたどうするつもり。オレは無理だからな、彼女みたいな神対応)
まったく対人スキルや電話応対と言うのは、立派な才能、特技だ。
からきしその手の能力が欠乏している凛空が、どんなに訓練を重ねても仁科の代役にはなれない。
どれだけ仁科が職場において貴重な人材なのかを小坂井は分かっていない。
もし分かっていて、あんな態度をとっているのなら小坂井は勘違いしている。仁科が優しくしてくれる、どれだけ八つ当たりしても許してくれると思っているのではないか。
(あんなの、実の息子でも腹立つ態度なんだから、家族でもない小坂井をいつまでも仁科さんが受け入れてくれるわけないじゃん)
いつか遠くない未来、仁科が辞めそうだと思うと憂鬱な気分が増す。
パソコン作業が苦にならないからこそ、今の職場がちょうどいい感じなのに顧客対応まで任されたら今の業務に支障が出るし、精神的にももたないだろう。
(……本気で転職先探さないと……)
とりあえず無料登録だけした転職サイトで求人情報を流し見ていると、ピピ~ッと洗濯機が完了を知らせる音が聞こえる。
続きはまた今度、とスマホを手放して洗濯物を干しに行き、ついでに歯磨きも終わらせると眠気がどっと押し寄せる。
(……寝るか)
盗まれる物なんてほとんどないけど、念のために戸締りを確認してから明かりを消し、ベッドに潜り込む。
枕元にメガネを外して置き、大きくあくびをする。
(あぁ、この瞬間! 今、この時の至福のために仕事していると言えるっ! ありがとう、布団よ。今夜もお前に包まれて、いざ行こう、安らかなる眠りの世界へ!)
ふぅ~っ、と満足気な息を長く吐き出して、あっさりと凛空は眠ってしまった。
遠くを走る車の音や、隣から漏れ聞こえるかすかな物音も、時計の秒針が時を刻む音も凛空には届かない。
安らかで深い眠りを堪能する間に、自分の身に何が起きるのかも知らずに、ただただ眠り続けている。
やがて静けさと暗闇が色濃い部屋の隅で、わずかな振動が起きる。
少しずつ少しずつ振動の中に気配が生まれて大きくなっていく。
けれど凛空は気づかない。
平和で面白みのない凛空の日常は、この夜、終わりを告げた。
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