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第二章

意地悪な視線【1】

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 その光景は、不愉快極まりないものだった。
「ねぇ鮎佳、気づいてる? 今のあんた、すんごい目つき悪くなってるよ?」
「うん、わかってる」
 私の物真似をしてるつもりなのか、隣を歩くひかるが眉間にキュッとしわを作り、唇を引き結んだ表情を作って見せてくる。
 バレー部のエースアタッカーなだけあって、ひかると私との身長差は頭ひとつぶん。その高さから、ぐいっと近づけてきた変顔の威圧感のすごさに少しのけぞったけれど、私は頷いただけで何も言わない。
 わかってる、そんなこと。いちいち言われなくても、自分が人に与える印象の悪さは、ちゃんと自覚してる。
「まぁ、でもねー。鮎佳じゃなくても、あんなのを見せられたら、顔は強張るかぁ。土岐くんのアレは、ある意味、かなりなホラーだもんね。私たち幼なじみから見たらさ」
 土岐くんのアレ、と強調しながら目線を中庭に流したひかるにつられ、それをまた見てしまった自分を呪う。
 お昼ご飯のためにカフェテリアに向かっていた私たちがいた廊下から、中庭のその光景は真正面にあった。
「あのふたり、今日も暑苦しいくらいにラブラブだよねー。てゆうか私、いまだに見慣れないわよ。土岐くんが、あんな風にしてる姿。剣道とバスケにしか興味なかった『あの、かーくんが!』って青ざめちゃうっ」
「……休憩時間、なくなるわよ」
「青ざめたついでに、むず痒いぃ!」
 声かけをするも、最後まで叫ばないと気が済まないのだろう、天を仰いで大げさに腕をかきむしり始めたひかるを置いて、止めてた足をカフェテリアに向ける。どうせ、すぐに追いついてくるから構わない。
 それよりも、今、見てしまった光景を脳内から取り除く努力をしなければ。
 そんなことをしても、同じ光景はまたいつでも私の前に現れるし、それは打ち消しようのないくらい、ごく当たり前の光景なのに。無駄な努力を、つい、してしまう。
 たった今、目に飛び込んできた光景。それは、ひと組の男女の親密な姿だった。
 雨上がりの木々に囲まれた中庭のベンチで仲良く見つめ合うふたりは、手を繋ぎ、微笑み合い、時には男子が相手の髪を優しく梳いては、楽しそうに会話を交わし合っていた。
 風に揺れる木々の葉が雨の名残の雫をキラキラと光らせている眩いその下で、親密な姿を披露していたのは私の幼なじみ。土岐奏人ときかなと。かーくんと、その彼女だった。

「あっ、そうだ! 今日は金曜だからランチの丼メニュー、味噌カツ丼だよね。私、今日は丼にしようっと。明日は練習試合だし、ガッツリいくわ」
「いいんじゃない? というか、試合がなくてもいつもガッツリでしょ。ひかるは」
 かーくんとは、食欲魔神のこのひかると同じく、幼稚舎からのつき合いの間柄だ。
 そして、出会った時からずっと私の心にいて離れないひと、でもある。
「わぉ、鮎佳。表情が途端に柔らかくなったね。もしや、昔のかーくんとのやり取りでも思い出したのかにゃー?」
「うるさい」
 カフェテリアの端のカウンターに隣同士で座り、早速、味噌カツ丼を頬張りつつも私を弄るのを忘れないひかるのニンマリ笑顔を、横目で軽く睨む。
「でも、図星でしょ? さっき土岐くんと白藤しらふじさんを睨んでた時とは、目つきが全然違うもん」
「別に……あの子たちのことは、睨んでない」
 天ぷら蕎麦に伸ばしたお箸が、途中で止まった。同時に、さっきの光景がまた脳裏に蘇ってくる。
 極めて親密だったふたりの、とてもとても眩い姿が——。
「そーお? 鮎佳さぁ、白藤さんを見る目、いつもキツいよ。自覚ないの?」
 白藤さん。かーくんの彼女。妹以外の女子に笑いかけてるところを見たことがなかった彼の、初めての彼女。
 彼が真っ直ぐに恋愛感情を向けて、誰よりも大切にしてる女の子。
 睨んでない。そんなことしてるつもり、ない。
 だって、単なる幼なじみの私にはそんな資格はない。
 ただ、あのふたりを見てると、とても胸が苦しくて。ふたりがいる場所がとても眩しくて、惹きつけられるのに見ていられなくて。そうしてるうちに、全身がドロッと重いものに包まれて息がしにくくなる。それだけ……。
「鮎佳? 私ね、あんたのこと、ずっと見てきた。だからこそ、今、言っちゃうんだけどぉ。あの子たち、もう一年以上もあんな風にラブラブなんだからさー。別れることなんて、きっとないよ?」
 ひかる……。
「だから、土岐くんのこと、いい加減、諦めなよ。あ、蕎麦も食べなよ。伸びるよ?」
 トッピングのキャベツをシャリシャリと咀嚼する音。その合間に、わざと軽く言い放ってきたのだとわかる、親友の言葉。
 けれど、私は返事ができない。どっちにも。『諦めろ』ってサクッと言われて、すぐに頷けるほど簡単な想いじゃない。
 それに、食欲も一気に落ちた。残暑の厳しいこの時期に、どうして私は天ぷら蕎麦を注文したんだろう。しかも、出汁が熱々の温麺を。

「もう、いいんじゃない? 鮎佳もそろそろ楽になっていい頃だと思うよ? ほんとなら去年の春にそうしなきゃいけなかったでしょ?」
「……ん」
 これには、小さく頷くことができた。ひかるの言う通りだったから。
 去年、中三になってすぐの頃。ひかるに〝あの噂〟を聞かされた。かーくんが他の女の子に恋をした、と。
 その時、私はちゃんと覚悟を決めていた。ずっと抱いてきた恋心を。かーくんへの想いを、すっぱりと断ち切るのだと。
 だけど、わかってはいても、その覚悟を実践できずにいただけ。
 十年以上もの間、胸に秘めてきた、たったひとつの想いだから。すんなり手放すことが私にはどうしてもできなくて、ずるずると今に至ってしまった。
 叶うわけもないのに、ね。

 かーくんが、私をそういう対象として見ることは決して無いってことは、嫌というほど理解してる。
 ずっと想い続けてきたからこそ、私に対する彼の一貫して変わらない幼なじみとしての態度で、この想いが叶うことはないと、わかりすぎるほどに理解してしまってる。
 だから、この気持ちを告げるつもりなんてない。『単なる幼なじみ』として、少しでも長く同じ時を過ごしたいだけ。
 でも、そう思っていても、姿くらいは見ていたい。彼のために、私に何かできることはないかと考えてしまう。彼が入部したバスケ部のマネージャーになったのは、それが理由だ。
 そして彼も、そんな姑息な私のことを、他の幼なじみたちと同様に『大事な仲間』として扱ってくれたりするものだから、余計に気持ちの整理がつかない。想い続けても無駄なのに、断ち切れない。
 彼が幼なじみとしての私に寄せてくれる信頼が、長い歳月を経た想いに〝未練〟というスパイスをつけ加え、その切ない甘さが、私の勇気を足止めしてくる。
 もう少しだけ、このままでいてもいいんじゃない? と――。


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