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第二章

意地悪な視線【3】

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「うわ、蒸し暑っ! すぐに窓、開けまーす」
 密閉された部室内は、むっとした空気が立ちこめ、サウナ状態。宇佐美くんがササッと動いて窓を開けていくのと同時に、私もハンディモップを手にして掃除を始める。お昼休みという限られた時間内だから、手早く行わなければいけない。
 それでも、今日は当番の部員が一緒にいるだけマシだ。持ち回りで掃除当番が決まっていても、うっかり忘れるのか面倒なのか、顔を見せない子のほうが多いのだから。
 まぁ、部員当番どころか、部室の掃除は女子マネの先輩たちですら滅多にやらない仕事なわけなんだけど。
 でも、誰かがやらないといけないと思ってずっとやってたら、いつの間にか女子マネの中で掃除担当みたいな立ち位置になってしまった。そんなこと、望んでないのに……。
「あ、そうだ。都築先輩。ボードの下のバスケ雑誌、去年のぶんは片づけておいてほしいって、土岐先輩がおっしゃってました」
「あ、そうなの? わかったわ。ありがとう」
 フロア用のお掃除ワイパーで手際よく床掃除をしながら、ふと思い出したように宇佐美くんが声をかけてきた。
 バスケ雑誌か。確かに、最近は整理してなかった。でも、今はもう時間がないから部活後に片づけよう。
「僕、やっときましょうか? 雑誌の片づけくらい、部活後にサッとできますから」
「え? でも、土岐くんは私に……」
「いいっすよ。土岐先輩があんたに言っておくようにっつったから一応声かけしたけど、この程度、いちいちマネージャーに頼まなくても出来る仕事なんで」
「え?」
 私が頼まれたことだから、と言いかけた言葉が途中でさえぎられた。少しのトゲを含んだ言い回しで。
 この子、今、私のことを『あんた』って言った?
 こちらに向き直った宇佐美くんと、カチリと視線が合う。
 バスケ部員の中では小柄とはいえ、宇佐美くんは私より十センチ以上、背が高い。その位置から私を見おろしてくる黒瞳には、どう割り引いても友好的なものは感じ取れない。勘違いでも何でもなく、これは人を小馬鹿にした表情だ。
 この子、これが本性なの?
 艶のあるサラサラの黒髪と、同色のクリっとした大きな瞳。少し長めの睫毛が、小動物系のあどけない印象をもたらしている、この子の?

「聞こえましたか? 女子マネがいちいち出しゃばらなくても土岐先輩の要望には僕がしっかりと応えときますんで、あんたは引っ込んでていいってことっすよ」
 あぁ、そっか。
 トゲを含んだ挑戦的な言いようを聞いて納得した。
 この子、かーくんのファンだ。
 そういえば、かーくんが中学バスケ部のキャプテンだった頃から彼にすごく懐いて、事あるごとに『土岐先輩、土岐先輩』って連呼して纏わりついてた。
「……ふふっ」
 でも、おかしい。私相手に、張り合う必要なんてないのに。『単なる幼なじみ』で、『ただの女子マネ』の私なんか、張り合う価値もないのに。おかしい。
「何、笑ってんすか。まさか、先輩の幼なじみっていう優越感? あんたなんか、土岐先輩の彼女さんに勝てる要素、ひとつもないくせに?」
 痛い。
 突然、硬い爪でガリッと深く抉られたように、胸が痛んだ。

『あんたなんか、土岐先輩の彼女さんに勝てる要素、ひとつもないくせに』

 ただ、本当のことを言われただけなのに。
 まるで、酷い言葉で傷つけられたみたいに、胸がズキズキと痛んでる。
「あぁ。そういえばさ、いつだったか、体育倉庫で脚立から落ちたとかで怪我したこと、ありましたよね? あんた、その時、土岐先輩に助け求めて保健室まで運ばせてた。他の先輩たちが何人も傍にいたのに、わざわざ土岐先輩の名前を呼んでさ」
 あ、あれは……っ。
 ひと言だけ反論しようとしたその時、予鈴が鳴った。
「あ、予鈴っすね」
 私の手からハンディモップを取り上げた宇佐美くんが、くいっと顔を覗き込んできた。
 大きな黒瞳が見下したようにギロッと動き、その口元には意地悪げな笑みがニヤリと形作られていく。
「ま、とにかく、今後はあんな図々しいことはやめてもらえますか? あんたのアレ、土岐先輩の幼なじみってのをひけらかしてるみたいで、すっげぇ鼻についたし。マジ、ウザかったっすよ」
 もう、いい。なんとでも言えばいい。反論する気なんて、失せた。
 意地悪な視線から顔を背け、黙ってその横を通り抜けることにする。
「あれ? 逃げるんすかぁ? 別にいいけど、これだけは念押ししときますよ」
 すれ違いざま、くっきりと大きな黒瞳が斜めに近づいてきた。
 男子にしては可愛らしい印象のぷるんとした口元が片側に引き上がり、悪意を持って醜く歪むのを黙って見つめる。
「今後、土岐先輩に迷惑だけはかけないでくださいよ。完璧美少女な彼女さんと違って、気が強いだけの平凡な地味女が、あの先輩に釣り合うわけもないんだか……っ」
「いい加減、しつこい! あんたに言われるまでもなく、全部ちゃんとわかってる! 大きなお世話よっ!」
「うわぁっ!」
 あーあ、やっちゃった。小憎たらしい後輩の頬をひっぱたいて、思いっきり突き飛ばしてやった。
 その後、相手がロッカーに背中からぶつかった姿を視界の端に捉えたけど、もうその時には部室のドアに向かって駆け出してたから、どうなったのか知らない。
 何かが落ちる『ガシャンッ』って音も聞こえたけど、知らない。後悔もしてない。

「……っ、なんでっ?」
 走りながら、声が零れ落ちていく。どうして、こんなことになった? どんな理由で、あそこまで言われなきゃいけないの? 同じ部活という以外、何の接点もない後輩。中学生に。
 なんで? どうして? あそこまで言われるような、いったい何を私がしたの?
 ただ、好きなだけなのに。
 彼女から、かーくんを取るつもりなんてないし。奪おうとしたことも、一度もないのにっ。
 ただ……ただ、見てきただけ。
 かーくんと、彼が好きになった、あの女の子を。光の中で寄り添う姿を。
 私が決して行くことができない煌びやかな場所にいる、眩しいふたりを。
 ——どうして、その子なの? どうして、私じゃないの?
 声にならない問いかけを。思いの丈を。じくじくと痛む胸の内で、ただ、重ねてきただけなのに!

 走り続ける視界の中で、地面が芝生からコンクリートに変わった。中庭を抜けてピロティまで戻ってきたんだ。
 だから、いったん足を止めることにした。
「……っ……うぅ、っ」
 教室はすぐそこだし、荒くなった呼吸に、嗚咽が混じり始めたから。
 このままだと、涙をこらえてる変な顔のまま授業に戻ることになってしまう。誰にどう思われても構わないけど、ひかるを心配させるわけにはいかない。
 明るい性格とバレー部での活躍で、先輩後輩問わず大勢から慕われてる人気者なのに。こんな私の親友でいてくれてる優しいあの子の表情を曇らせることはできない。
 取りあえず泣き顔を何とかしなくてはと、ピロティに一番近い教室棟の女子トイレに駆け込んだ。
「……ひどい顔」
 数回、洗顔したものの、鏡に映った自分の顔のひどさに、さらに泣きたくなる。
 トイレの利用者が誰も居なくて良かった。そうホッとするほどに、鏡の中の自分は、ひどい有り様だ。
 真っ赤に充血した目。いまだおさまらない嗚咽を噛み殺してるために唇は歪み、顎には何本も深いしわが刻まれてる。とても見られたものじゃない。ひどすぎる。

『あんたなんか、土岐先輩の彼女さんに勝てる要素、ひとつもないくせに』
『完璧美少女な彼女さんと違って、気が強いだけの平凡な地味女が、あの先輩に釣り合うわけもない』

 意地悪な視線とともに放たれ、鋭く刺さったトゲが胸中でじくじくと疼く。
 わかってる。泣き顔ですら、きっと可愛いに違いない彼女に勝てるものなんか、私は何ひとつ持ってない。そんなこと、自分が一番よく知ってる。
「ふふっ。『気が強いだけの平凡な地味女』か。あの陰険小動物、うまいこと言うわね。ふふっ……あははっ」
 自嘲の笑みが、鏡に映った顔をさらに歪ませていく。びしょ濡れの顔だから、まんまホラーだ。
 顎につたってポタポタと流れ落ちていく涙ですら濁って見える、こんな私なんか……。
「ふっ……ふふっ」
 誰も愛さない。〝だから、家族にも愛されないんだ〟。
「あははっ……あはははっ」
 滲んだ視界の向こう側。鏡の中で醜く笑う私は、泥水の中に浮かんでいた。


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