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第五章
望む未来(さき)にあるもの【5】
しおりを挟む「――名づけの理由? 鮎佳の?」
「そう。昔聞いたけど、もう一度聞きたくて。私の名前、お父さんがつけてくれたんでしょ?」
努めて平静なふりをして聞いたけど、本当はすごくドキドキしてた。
「そうよ。忙しい人だから、あなたを産む時に付き添ってくれることはなかったけど。出産後、私が寝てる時に病室に来てくれたみたいでね。起きたら、あなたのベッド脇にメモが置いてあった。『鮎佳』って、二文字だけ書いたメモがね」
「メモ?」
「そうよー。手帳から適当に破ったって丸わかりの、ギザギザのメモが一枚だけ。忙しい合間を縫って来てくれたんだろうけど、もっと丁寧に破れたと思うのに、って思ったわ。もしくは、起こして直接伝えてくれても良かったのに」
ギザギザ……。
「でもね、嬉しかった。今はもうあまり出かけることがなくなってしまったけど、あの人、若い頃は渓流釣りが趣味だったの。自分の好きなものに因んで、名づけてくれたんだってわかったから」
好きなものって……鮎、だ。
「高校生の鮎佳にこんな話は生々しいかもしれないけど、あなたが生まれたら、認知だけはしてくれる約束だったの。だから、それ以外は何の期待もしてなかった。愛人って立場はそんなものだと思って、名づけも、私が考えておいた別の名前があったのよ」
「そう、なんだ」
言われてみれば、そうだ。お父さんが名づけてくれなかったら、私は別の名前になってた。『鮎佳』じゃない私って、なんか不思議。
というか、ここでやっと気づいた。桜子お姉さんが言ってた通りだった。『魚釣りが趣味だから適当につけられた魚の名前』は、私の聞き間違い。『魚釣りが趣味』は、合ってる。でも、『適当につけられた名前』じゃなくて、『適当に破られたメモに書かれた名前』だったんだ。
小学生の私、もっとちゃんと聞き取れなかったのかしら。そのせいで、何年もネガティブに受け取ってた。すごく悔やまれる。
ううん、ちゃんと話を聞いていたのかもしれない。
でも、あの頃の私は、お父さんを『父親』として見ていなかった。そのせいで、真実を歪ませた記憶になったのかも。
「それから、これは後で教えてくれたことなんだけどね。お父さん、赤ちゃんの鮎佳と病室で初対面した時、『あぁ、自分の分身だ』って、初めて感じたんですって。上にお姉さんがふたりいるのに、よ。おかしいでしょ? 一見、そうは見えないだろうけど、お父さん、鮎佳のこと、とても大事に思ってるの」
衝撃的だった。分身とまで思ってくれてるなんて。そこまでだとは、想像もしてなかったから。
一見、どころか、全然そんな風には見えない。
「お父さん、素っ気ない人だから実感が湧かないかな。お母さんもそうだった。鮎佳が生まれて、初めて、お母さんもあの人の愛情深い面を知ったのかもしれない。それは鮎佳のおかげよ」
「私?」
「えぇ。正直に言うとね、お母さん、それまでは、いつ捨てられてもいいように心の準備をしてた。お母さんのほうから好きになって、そういう関係になったからね。だから鮎佳――――生まれてきてくれて、ありがとう」
聞き覚えがある。そう思った。
いつ聞いたのか。それは記憶の彼方にあって定かじゃないけれど、お母さんの声で紡がれた、この言葉。これは覚えてる。
むしろ、忘れようがないほど囚われてきた。
『生まれてきてくれて、ありがとう。あなたが生まれてくれたおかげで、お母さん、あの人に捨てられずに済んだわ』
脳裏に刻み込まれてきたこの言葉は、私にとっては負の感情そのもの。
誰にも愛されてない証拠として、常に心にあった。
でも、違った。逆だった。
ずっと、溺れていた。水の中で。
波に揺られ、渦にさらわれ。掻いても掻いても、水面には出られなくて。ずっとずっと、息苦しかった。
ただ、息がしたくて。普通に呼吸がしたくて。酸素を求めて、もがき続けた。見苦しく足掻いた。
愛されたかったから。
誰にも愛されてないと思い込んでいたから。
私がいた泥の海は、私自身が作り上げた、身を守るための鎧だった。
視点が変われば、その泥はあっという間に流れ落ち、煌めく陽射しを跳ね返す清流になる。
初めて、生まれてきて良かったと、心の底から思った。
澱みなく澄み切った水の居心地の良さを、初めて知った。 その中を、ただ心のままに進もうと決意した。
自分が望む未来を選び、私は、そこで生きていく。
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