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第三章

彼と彼の言葉【1】

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「大尉殿。花宮です」
「入れ」
「失礼します」
「花宮、どうした?」
「はい? 何がです?」
 何が、どうした、なのか。入室の許可を得てすぐに問われた内容がわからない。
「花宮。入るなら、さっさと入ってくれ。そこで立ち止まっていられたら目立つ。話はその後だ」
 疑問が先に立ったせいで、ドアのノブを掴んだまま片足を踏み入れた状態で止まってしまった煌に、上官の苦笑が届いてきた。
 これは珍しい反応だ。無表情が通常状態の土岐大尉なのだから。
 しかし、苦笑とはいえ自分に笑みが向けられたからと言って、煌はもう浮かれたりしない。
 半日前の彼ならば浮かれ気分が欲情に直結していたが、今は相手が何を考えているのかを表情ではなく言葉で確認したい。
「どうした? 悩み事でもあるような顔つきをしている」
「俺が? なんで、そう思ったんです?」
「なぜ、と問われたら困るな。直感としか言えない。私の思い過ごしだったか?」
「……いえ。あたらずといえども遠からず、です。大尉殿の直感、冴えてますね」
 奏人の『どうした』が意味するところが自分への気遣いであり、尚且つ、煌の心情を読み解いた結果だと知って、強張っていた煌の表情が何とも言えない微妙なものに変わった。
「本当に悩みがあるのか。私に……いや、私には言えないのだろうな」
 そして、続けられた奏人の声に目を剥く。
 え? ちょっと待て。その言い方だと、悩みがあるなら自分に相談してみろ、と聞こえたんだが?

 言いかけたものの、どうせ煌は自分には相談など持ちかけないのだろうと諦めの声で締め括られているが、紛れもなく、部下の私事に介入してきた。あの、連隊長が!
 誰とも馴れ合わず、辺境騎兵連隊における孤高の存在として頂点に立ってきた、この人が!
「余計なことを尋ねてしまったようだ。——では花宮、今宵は何から始める?」
 だが、煌が驚愕に身を任せている間に、上官は意識を切り替えてしまった。怜悧な無表情からは相談の『そ』すら消え失せたかのようで、事務的な誘いの言葉がかけられた。
 煌が、そのようにしたのだ。土岐大尉の私室で二人が過ごす時、この時だけは目上の立場になる煌に、奏人からお伺いを立てろ、と。そして、煌が命じた通りに奉仕しろ、と。
 七ヶ月かけて、隷属関係を操作してきた。いけすかない上級貴族のお坊ちゃんは、煌が望んだ通りに彼の玩具になった。だが——。
 違う。俺は……今夜は……今夜は、そのために訪れたんじゃないんだ。
 実は、自分から満月でもない今夜を指定したにもかかわらず、煌は上官の部屋には来ないつもりだった。
 夕刻、第二分隊長から聞かされた土岐大尉の転任の話で、思考がぐちゃぐちゃになったからだ。
 来月には帝都に戻ることを、自分には話してもらえなかった。動揺。悔しさ。怒り。苛立ち。裏切られた、という手前勝手な非難から気づかされた上官への想い。
 一度に噴き上がった感情を処理しきれなかったため、約束をすっぽかすつもりでいた。
 けれど、刻限ギリギリになって、煌はそれを翻した。やはり行こう、と。
 又聞きの噂ではなく、直接、上官から話を聞くべきだ、と思い返したのだ。加えて、この気持ちが彼に約束を守らせた。
 ——大尉殿の顔が見たい。
 煌の胸を甘く疼かせるこの欲求が、刻限通りに奏人の私室に彼が到着した理由だ。

「花宮。なぜ、黙っている?」
「あ……」
「特に希望はないのか? 私に勝手に動け、ということか?」
 どう話を切り出そうか。煌が逡巡していると、彼の無言をなぜか〝そういう圧力〟と受け取ったらしい上官が、煌のシャツのボタンに手を伸ばしてきたものだから慌てた。
「ちょっ! ちょっと待て! そうじゃない!」
 大層、慌てた。
「花宮?」
 慌てすぎて、勢い余った。上官の手を止めるつもりが、その身体を思いっきり抱きしめていた。
 どうして、こうなったのか。咄嗟の勢いとは恐ろしい。しかし、これを好機と捉えるべきではないか?
 一瞬のうちに決断した煌は、抱きしめる腕の力をさらに強めた。
 相手は、煌の手を振り払わない。そのことに安堵しつつ、言葉を選ぶ。最も聞きたいことに、ずばりと切り込むための文言を。
 少佐に昇進するらしいですね。来月、帝都で奉祝式典に参列するんでしょう? その後、そのまま参謀本部に戻るというのは本当ですか? あなたにとって、辺境騎兵連隊は昇進のための、ただの踏み台でしたか? ここで俺と過ごした時間も、あなたにとっては……。
「大尉殿」
「何だ」
 言いたいこと、尋ねたいことが煌の脳内で渦を巻く。しかし、順序立てて問えるほどの冷静さは、見下ろした上官の深い黒瞳と視線が絡んだ時点で遥か彼方に吹き飛んでいた。
 荒ぶる感情が奔流となって、一気に溢れ出た。
「どうやら俺は、あんたのことが好きらしい。恋心、という意味で」


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