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第四章

天花舞う【6−3】

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『かっちゃん。お願い……』

 目を瞑って反芻する、脳裏にこびりついた声。
 大丈夫だ、歌鈴。お前との約束は忘れてないから。
「……今のって、女の子の名前?」
 あ、しまった。ほんの数瞬、白藤さんから意識が離れてしまっていた。
 今、何て言ったんだ? 俯いているために表情が見えない。
「白藤さん、ごめん。話しかけてくれてた? よく聞こえなかったんだけど」
「いいの、独り言だから。あの、私、そろそろ戻らないといけないから。だから、その……」
「あぁ、そうだね。じゃあ、一緒に」
「なので、これで失礼しますっ!」
「えっ、白藤さん?」
 下を向いたまま一気に言い放つなり、彼女が走り出した。

 女子の宿泊ホテルはもう目の前とは言え、ひとりで帰らせるなんて、とんでもない。すぐに小さな背中を追いかけた。
「白藤さん、待って!」
「きゃっ!」
「危ない!」
 雪で滑った彼女の腕を咄嗟に掴んで、肩を支えた。良かった。間に合って。
「雪が降ってるのに、走ったりしたら危ないよ」
 顔を覗き込んで、優しく諭す。
「あ……ありがと、ございます」
「ん。気をつけて?」
 小さく告げられた感謝の言葉に少しの笑みを返すと、潤んだ瞳が向けられた。
 何だ?
 ……あ! 俺が触れてるからか!
 素早く、彼女の腕と肩から手を離し、一歩後ろに下がった。
「ごめんね。強く掴みすぎてた? びっくりしたよね?」
 これ以上、泣かせたくなくて、表情を窺いながら謝る。
「えっ? あ、違っ……違うの」
 顔の前で手を振り、首も同じように振った彼女の言葉に、またやってしまったとへこみかけた思考が少し浮上した。
 が、変わらずに、その瞳には涙が居座っていて。首を振った拍子に、頬にも光の粒が飛んでいる。
「じゃあ、どうして泣いてるの?」
 触れるわけにはいかないから、顔を覗き込んで、涙が溜まってる箇所を見つめて知らせる。
 あ、まさか……。

「もしかして、さっき、俺が秋田に怒鳴ってたから……怖い?」
 怖い? 俺のこと。これは、出来れば聞きたくはなかった。もし頷かれたりしたら、立ち直れない。でも、他に原因が思い当たらないから仕方ない。
「え? 土岐くんが怖い? ううん、全然?」
 きょとんとした後に、『全然』と続けられた。疑問系だが。
 怖がってないのか? なら良かった。嬉しい。それは嬉しいが、しかし……。
「それなら、どうして涙……」
「土岐くん! 私! 土岐くんに聞きたいことがありますっ!」
「あ、はい」
 突然、直立不動の姿勢をとった相手から、大きな声がかけられた。
 聞きたいこと? 俺に? 何だろう。
「あのね! 土岐くんって、女の子の名前をっ……よ、呼び、呼び捨てっ……することって……」
「え、名前?」
「あ! やっぱり今のは無しで! えと! あの、土岐くんって。今……す、す、すっ……」
 何だ、この可愛さは。
 両手をぎゅっと握りしめて。潤んだ瞳と真っ赤な顔で、何かを尋ねようとしてくれてる姿。見つめてるだけで胸が甘く締めつけられる。
「あっ、あの! すっ、すっ、すっ……スキーは……得意です……か?」
「え? うん、得意だよ。……あれ? どうかした?」
「ううん。何でもないですぅ……うぅぅ」
 何でもない? いや、どう見ても、がっかりしまくりの表情なんだが。


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