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序
朔(さく)の夜
しおりを挟む月影が消えた、漆黒の夜。
――ひゅうぅ
昏き、その闇の中。生ぬるい夏の風が、そろりと頬を撫でていく。
「……おかしい」
闇を纏うように佇んでいる痩身が、ぽつりと、ひとりごちた。
「なぜ、星ひとつ見えぬのだ?」
今宵は、月が姿を見せぬ、真暗き朔の夜。
だが、例え月が見えぬ黒闇でも、多少なりとも星の瞬きはあるものなのだ。
されど、いま天空には、ただひとつの星すら、見つけられぬ。
「これは一体、どういうことだ?」
闇に佇む痩身が纏う狩衣は、撫子の襲。
紅梅色と萌ゆる碧が品良く重ねられたその装束は、朔の夜でさえなければ、色鮮やかに月光に映えていたことであろう。
夜空を見上げる横顔は、若い。まだ少年と言っても、差し支えないほどに。
きりりとした眉と意志の強そうな目元が印象的なその相貌に、夜風が強く吹きつけてきた。
ざっと音を立てた風は、烏帽子からはみ出た肩までの後ろ髪を縦横に巻き上げ、気儘にはためかせていく。
「何だ? これは……」
胡乱げな硬い声が、闇に溶ける。
少年の髪や頬に当たる夜風の中に、不意にどろりとした湿り気が混じったのだ。
次いで、痩身の正面、香り高い百日紅の樹木の根元に、ぽうっと明かりが灯った。
深く濃い、緋色の光だ。
それをみとめた途端、少年の周囲に禍々しい気配が充満していく。
びぃんと、肌を刺すほどに、強く。
踏みしめる大地が揺れたと錯覚するほどの、衝撃波を伴って――
禍々しい、緋色の光。
最初は点のように小さなものであったが、それはあっという間に広がり、辺りを深紅に染めていく。
「やっと来たか。待っていたぞ」
待っていた。これを。
“ お前 ”を。
にやりと、口角が上がる。不敵に微笑み、むせ返るような匂いを放つ夏草を踏みしめ、一歩前に出た。
素早く霊符を取り出し、呪を唱え、そこに滅魔の気を込めていく。
「――――破ぁーっ!」
深紅の塊に向けて、調伏の真言を思いきり叩きつけた。
――ぎぃっ、ぎぎぎぎっ、ぎぃぃっ
叫びとも呻き声ともつかぬ耳障りな音が、ぎぃんっと大地を震わせ、闇を切り裂いて響き渡っていく。
直後、辺りが、ぱぁっと明るく光り輝いた。
深紅の光が、ひと際輝く黄金色に変化したのだ。
この光は、何だ?
黄金色の光源に目が眩み、ほんの刹那、視力が奪われた。
が、臨戦態勢は崩さない。
再び霊符を取り出し、次の真言を唱え始める。
「……っ……居ない?」
だが、そこまでだった。
「奴は、どこだ! どこに消えたっ?」
一瞬のちには、黄金色の光は消え去り、そこに充満していた禍々しい気配も、跡形もなく霧散していた。
――ひゅうぅ
後に残されたのは、そこに現れていた怪異の気配など微塵も感じさせない、静かな空間。
ただ、夏のそよ風が吹き抜けるのみの場になっていた。
――ひゅうぅ
南の空に赤星が妖しく瞬く、夏の朔夜。
そう、百日紅が甘やかに香るここは、宮中の一角。仁寿殿。
帝のおわす大内裏の、いつもと変わらぬ夜の姿に、戻っていたのだ。
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