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弐
濡れる朝顔の、儚さと… 【九】
しおりを挟む「真守殿。約束の刻限に遅れてしまい、申し訳ありません。本当に面目ないことです」
仁寿殿《じじゅうでん》に向かうと、そこには既に真守殿が到着しており、年長者としての私の面目は、欠片も見いだせない有り様だった。
顔から火が出る恥ずかしさをこらえ、心を込めて謝罪する。
それもこれも、間際までしつこく私に付きまとってくれた建殿のせいなのだが、そのことは真守殿には関係ない。無論、言い訳などしない。
「いえ! 光成様は刻限に遅れてなどおられません。俺が勝手に、数刻前からここに来ていただけなのです。ですが……あの、光成様? ひとつだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「はい。何なりと、どうぞ」
刻限に遅れていなくとも、年若い者を無駄に待たせてしまったことを謝罪したいのに。真守殿は、なんと優しい少年なのだろう。
「あ、あのっ……光成様の後ろに、へばりついている、そのお方は? 幽鬼のような表情の……」
「ああぁ? なんですってっ?」
「ひっ!」
あ、しまった。つい、内心の苛々が、口調(と表情)に露骨に出てしまった。
建殿相手なら、いざ知らず。年下の真守殿に辛辣な本性そのままで対するのはいけないと、ずっと自重してきたのに。『ひっ!』などと、怯えた表情で後ずさりさせてしまった。
「あ、失礼。真守殿、私の背後の『これ』については、どうぞお気遣いなく。“ただの付き添い”ですから」
怯えさせてしまった詫びに、できるだけ優しく、にっこりと微笑んで説明する。
計、五発。その鳩尾に渾身の肘鉄を命中させたにも関わらず、私の袍《ほう》の袖を掴んで離れなかった人物。
「……っ、うぅ……ついて行く。私は、ついて行くのだ。光成が行くところに、私も行ぐっ……いっ、一緒に行ぐぅっ」
なぜか半べそをかいて私から離れようとしない、『ただの付き添い(建殿)』について。
「はぁ。では、こちらのお方も六位の蔵人様で、光成様のお付き添いでここにいらした、ということですか。あの……はい、わかりました」
承知したと返事をくれたものの、真守殿の表情に納得の色は見えない。
眉はひそめているし、何かを考え込むように首を傾げている。腑に落ちないというように。
まぁ、それはそうだろう。
建殿のことは、“ただの付き添い”と説明したが。本来、極秘のお役目であるこの場に部外者を連れてくること自体、非常識。そんなことをしている私への不信感だろう。
さらに、主上《おかみ》の御用を承る花形の官職である蔵人が、べそをかいた顔を隠しもせずに『ついていく。一緒に行く』を連呼して、後輩の私の袍《ほう》を掴んで離れないさまを見せられているのだ。
戸惑い、混乱するのも頷ける。
しかし、さすが、有能な陰陽生《おんみょうせい》は違う。
まるで、聞き分けのない童《わらわ》のような姿をさらしている建殿を上から下までひと通り眺めたのち、真守殿は冷静に言い放った。
「では、お付き添いの蔵人様。光成様のお顔に免じて特別に同道していただきますが、ひとつお願いがございます。私と光成様は、これから大事なお役目があります。その場に、ざ、つ、お、ん! があると大変迷惑です。ですので、今すぐ、ぐずぐずべそべそとされているのを一切やめて、お静かになされてください!」
ごく当たり前の正論を。
「うっ……ぐひぅっ」
ぴしゃりと言い放たれた真守殿の言葉を聞くなり、私の背後で建殿がびくっと背を伸ばして固まった。およそ人とは思えない、特殊な言葉を発して。
「建殿。真守殿のおっしゃる通りです。私たちの迷惑! になりますから、今すぐ、べそをかくのをやめてください」
だから私も、真守殿の正論に乗じて、諫める言葉を口にする。
「至極迷惑! ですから……ですから、その……わ、私がですねっ。目の縁の涙を、ふっ、拭いて、差し上げますっ。途轍もなく迷惑! だから、仕方なく! ですよっ!」
そうして、振り向きざまに相手の手を持ち上げ、その袍《ほう》の袖でごしごしと顔を拭いてやった。
「痛っ! 痛い! 光成、痛い! 布の摩擦がすごくて、顔が痛い! しかも、拭いてくれるというなら、なぜ私の袍を使うのだ!」
「お静かになさい。いつまでもべそべそされていたら私たちの迷惑! ですから、こうして綺麗に拭いて差し上げているのですよ。それに、あなたの涙と鼻水を拭うのに、私の袖を使う必要がどこに?」
なぜ、建殿の袍で拭いているのか? それは、ごく簡単な理屈。
悲鳴をあげ続けている建殿の目元をさらにごしごしと拭きたてている私の袖から、建殿の指が離れていっていない。そのことを確認し、安心したかった。
ものの弾みで、つい五発も鳩尾に肘鉄をぶち込んでしまった私だけれど。そんな暴力的な私に呆れることなく、怒りを見せることなく、建殿は真剣な表情で言い募った。
『光成。もう夜になるというのに、どこに行くんだ。心配だから私もともに行くぞ。絶対に、お前から離れない』
宣言通り、ここまでついてきたこのお方の意志が本物なのかを、姑息な私は見たかった。
あまりのしつこさに、つい「特別なお役目だから、ついてくるな」と漏らしてしまった私を、先輩として放っておけないと思っているだけなのだろうが。それでも、好きな相手に心配されて、嬉しくないはずがない。
極秘のお役目に私情を持ち込んで、不謹慎だとは承知しているけれど。うっかり者で間抜けな建殿は、確実に足手まといになることは充分にわかっているのだけれど。
“ただの付き添い”という建て前でごまかしてでも、こうして、ともに居たかったのだ。
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