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肆
愛(いと)し恋し、重ぬる想いの牡丹(ふかみ草) 【五】
しおりを挟む「――朔《さく》の夜、だと?」
「はい」
「妖《あやかし》が、そのように申したのか?」
「左様でございます」
頭《とうの》中将様からの確認のお言葉に、ちくりと胸を刺す痛みを堪えながら頷く。
建殿の姿を『妖』だと認めることは、とてもつらい。あれは妖猫ではあったが、建殿の身体でもあったのだから。
「確かに申しておりました。そのことを踏まえ、熟考した結果、気づいたことがございます」
しかし、今は、うじうじと嘆いている場合ではない。
「何だ。話せ」
「はい。まずは、こちらをご覧ください」
中将様のお手元に、持参した巻物を差し出す。
「これは?」
「妖が内裏《だいり》に姿を現した最初の日から昨夜までの記録です」
中将様に向けて広げたその巻物には、妖騒ぎに関する全ての事柄――――日時、場所、目撃者、妖猫の様子などが事細かに記してある。
妖騒ぎが始まって以来、ほぼ全ての場合において現場に立ってきた真守殿と私が共同で記載してきたものだ。
「中将様。ここから、ここ。それから、この部分。全てを見比べてみてくださいませ」
「ん? ここか? いったい何が……おや? これは……光成、これは、もしや……?」
「はい。その『もしや』の可能性が高いようです」
さすが、中将様だ。私が指し示したとはいえ、さっと目を通されただけで、お気づきになられた。記録書の中に埋もれていた、違和感。奇妙な差異に。
「まさに、朔《さく》の夜、ということか」
「おっしゃる通りです」
目を細め、独り言のように低く呟かれた頭《とうの》中将様に、短く頷き返す。
中将様に確認していただいたのは、朔の夜の前後とそれ以外の妖猫の様子の部分。それから、妖猫が現れた時刻。
「その、建の姿で現れたという妖《あやかし》が言い残した言葉が手がかりとなったわけか。その事実が口惜しいな」
「そう考えれば、それを告げるためにだけ現れたような気さえしてきます。何の意図があって、という疑問もございますが、そのことで新たな発見があったのも事実でございますので。私も、まことに口惜しくはあるのですが」
ここで、言葉を切った。これ以上は、口にしたくない。どう考えても、あの妖の言葉のおかげであるからだ。
が、建殿の身体を乗っ取った奴に、そんな言葉は使いたくなどない。
けれど、『朔《さく》の夜』というあの言葉がなければ、これほど早くには気づけなかったろう。
記録書をそういう目で確認しようとは、思わなかった。それも、事実。
認めたくはないが、あれがあったからこそ、浮かび上がってきた。
「では、それで決まりだな」
手にされた扇で『朔の夜』の日付をとん、と押さえ、鋭い視線を送ってこられた中将様に、私も同じ眼力を込めて表情を引き締めた。
曖昧なおっしゃりようだが、私には通じる。
「はい。もう、疑う余地はございません。――妖猫は、二匹おります」
「そうすると、事に当たる者の増員をせねばなるまい。陰陽博士《おんみょうはかせ》殿のもとへ出向くとしよう」
「私もお供させていただいてもよろしいでしょうか。賀茂基射《かもの もとい》様にご相談したいことがあるのです」
「建のことか。わかった。ついて参れ」
「ありがとうございます」
ひと時も無駄にはしない主義の中将様がすぐさま立ち上がられ、私も巻物を手に続いた。真守殿から伝わっているだろうが、基射様のご意見も伺いたい。
それにしても、迂闊だった。
中将様に続き、歩を進めながら悔恨の念に苛まれる。なぜ、一度も疑問を抱かなかったのだろう。私は。
記録書をつけるだけなら誰でも出来る。それを見比べ、そこから何かを読み取ることを、なぜ怠ったのだろう。そうすれば、もしかしたら建殿があのようなことになることは、なかったかもしれないのに……!
「こんなことでは、あの人を無事取り戻した後、その迂闊ぶりを責められませんね」
先を歩く中将様に聞こえぬよう、口内だけで呟き、手にした巻物をぐっと握りしめる。
妖猫の体長、鳴き声、体毛の色の変化。現れる時刻。
『朔《さく》の夜』を軸にして他の日と比較してみれば、その差異は明らか。全てが、少しずつ違っていた。唯一、同じだったのは、虹彩の色のみ。
このことから導き出される結論は、ひとつしかない。
建殿の身体を乗っ取ったあの妖猫と、朔の夜にのみ現れる別の妖猫。その二匹が、いま宮中にいる。
わかりやすくも、ややこしい結論だ。退治しなければならない相手と、その苦労が二倍になった。
そして、困難極まりないのは、そのうちの一匹は決して殺してはならないということ。
しかし、最も重要な点でもある。そうでなければ、建殿の命が危ういのだ。
もちろん、そんなことにはさせない。建殿は、私が必ずお守りする。だが、そのためには……。
「――光成」
「……っ、はい!」
建殿のお身体を出来るだけ傷つけない方向で、且つ、確実に妖猫ごと捕らえる方策について思考を巡らせ始めたところで、私の先を歩いておられるお方から声がかかった。
同時に、たゆまず歩んでおられた足がぴたりと止まり、端整な面差しから、凄みのある流し目が無言で向けられる。
「必ず、二匹とも仕留めるぞ」
「……っ……そ、れは……」
そうして、私の視線を縫い止めてから放たれた宣言に、声を失った。
仕留める? “二匹とも”と、おっしゃられたか? そんなとこをすれば……。
「お、待ち……くださ……それでは、建殿が……あの方のお命が……」
わかっている。このお方は、頭《とうの》中将様だ。
主上の側近の最たる蔵人頭《くろうどのとう》として、また宮中の警護を担う近衛中将としての責任からのお言葉。それに異を唱えることなど出来ない。
その上、我ら蔵人の長に対して口答えなど、以《もっ》ての外。断じて、してはならない。
「……っ、中将様は何をお考えなのですか! 『二匹ともを仕留める』などと安易なことをおっしゃられて!」
「何?」
「そのようなとこをすれば、建殿のお命が危ういではありませんか。私は承服できません! まずは捕らえ、建殿を救出したのちに、未来永劫、消滅させてやれば良いのです。特に、建殿に乗り移ったほうは、体毛一本すら残させません!」
けれど、気づけば中将様をきっと睨みつけ、口答えどころか、遠慮なしに怒鳴り散らしていた。
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