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伍
鳴弦に、愛の言霊の閃く 【四】
しおりを挟む「――ほぅ。これが、くだんの妖《あやかし》だと? まるで、建そのものではないか。乗り移ったとは、まことか。面妖なことよの」
――ぺちん
頭《とうの》中将様の右手が、ひらめく。
「声は? そなた、何か話してみよ。声までも、建そのものであるのか?」
――ぺちん
建殿の姿の妖の頬に、中将様の持つ扇が触れ、その皮膚の上で軽い摩擦音を奏でている。
「どうした? 妖ゆえ、人の言葉を話すことは出来ぬのか? ん?」
――ぺちん
三度目の摩擦音が響いた直後、ひどく不穏な目つきをした妖が、私を手招きしてきた。無言で。
そこまでの段階で、ぴりぴりとした空気が漂い始めていたのを感じ取っていたため、通常なら『お前から来い』と一喝してやるところ、黙って近づいてやることにする。
「何だ。手招きなどして」
「ちょーっと、光成ちゃん。アタシ、このいけ好かない中将と言葉を交わすの、すごーく嫌だからぁ。光成ちゃんが取次してちょうだいな」
「取次?」
「そう、取次よ。『我《われ》は、この国に最初の帝が現れる遥か昔日、太古の時代に生まれし、古き存在《もの》。此度、この場に降りてきたは、眷族《けんぞく》の始末をつけるためである。決して、たかが数年生きただけの鼻たれ小僧の言いなりになるためではない。これ以上、分をわきまえぬ高飛車な物言いをすれば、立ち去り際に内裏を火の海にしてやろうぞ』って言ってやってっ。光成ちゃんが可愛いから、そんなことしないけどぉ。こいつ、アタシの趣味じゃないのにアタシを見る目がなんかむかつくから、脅してやってちょうだいっ」
「白焔……」
溜め息混じりの声が、漏れた。軽く脱力だ。
しかめつらしい顔で私の耳元に唇を寄せてくるから何を囁くのかと思えば、ただ、自分の好みではない中将様に嫌がらせをしたいだけなのだな。
だが、怒っているのは本当のようで、その身から白い焔が薄く見え隠れしているから、仕方なく中将様にその言葉を取次した。一言一句、違《たが》わず、そのまま。
『鼻たれ小僧』のくだりで中将様の顔色が明らかに変わったが、建殿の頬をぺちぺち撫で撫でしていたことに私も腹を立てているので、構わず最後まで言い切った。
あぁ、すっきり!
「さぁて、光成ちゃん。夜も深まってきて、灰炎ちゃんの気配がびんびんと強まってきてるんだけどぉ。建の姿でなら、アタシも内侍司《ないしのつかさ》に乗り込んでも良かったのよね?」
「いや、しばし待て。そのつもりだったが、少し事情が変わった」
小声ではあるが、白焔が意気揚々と尋ねてきた。頭《とうの》中将様に言いたい放題できたことで、すっきり顔だ。
が、乗り込む云々については待ったをかけなければいけない。
「えー? 何なのぉ、その事情って」
「今宵の件は、司を束ねる柿本典侍《かきのもとのないしのすけ》様だけはご存知だと言ったろう? その典侍様から、ある条件が出されたのだ。『内侍司は、主上の御用を務める女人の司であるから、無闇に乗り込まれては困る。まずは猫を飼っている者を自分が調べる。捕り物はその後にしてほしい』と」
「そんな悠長な。調べるって言うけど、怪我しても知らないわよ? そんなこと承知したの?」
「仕方ない。典侍様は我らより位階が上だからな」
「あー、この国でも身分が何とかってあるのね。面倒くさい。けど、ひとつ言っとくわよ。アタシは燃やせる炎とそうでない炎を使い分けできるけど、下っ端の灰炎ちゃんはそうはいかない。悠長なこと言ってる間に灰炎ちゃんが暴走したら、内裏なんて一瞬で炎上しちゃうんだからねっ」
「わかっている。そうならないよう、いつでも踏み込める態勢を頭中将様と陰陽博士殿が手配なされているのだから」
白焔の話では、灰炎の暴走を止めるのは今宵が限界らしい。
怪我を負ったために正気を失っているということだが、普段は妖力がない状態のためにそれが抑えられているだけに過ぎない。
しかし、灰炎が我が国に来て、妖力が戻る朔《さく》の夜を迎えるのは、今宵で三度目。今宵中に何とかしなければ、大惨事が起こってもおかしくないということなのだ。
口調はふざけているが、その件について話す時の白焔は至極真面目。焦りさえ、伝わってくる。
それほどに、事態は差し迫っているということ。
――ぐっ
弓束《ゆづか》を握る手に、知らず力がこもる。
白焔に『待て』と言った手前、露骨に態度には出せないが、私も少なからず焦っている。
そうだ。確かに、悠長に猫の飼い主探しをしている間に、もしも灰炎が他の殿舎で何かをしでかしたら。そんな、ろくでもない想像が脳裏をよぎってしまう。
もしも、それが主上のおわす清涼殿であったなら……もしも、もう既に……。
「――あら、光成お兄様」
ん?
「光成お兄様、なぜ、こちらに? しかも、弓など携えて。何か、大事《だいじ》でもございましたの?」
唇を噛みしめ、自身の物思いに嵌まりかけていた、その時。聞き慣れた声が飛んできた。溌剌とした響きを持つ、明るいこの声の主は――。
「篤子《あつこ》か」
振り返り、その姿を視認する前に、名を呼んでいた。
私に声をかけてきたのは、ここ内侍司《ないしのつかさ》で上《かみ》の女房としてのお務めに励んでいる、篤子。
女房名は、近江《おうみ》。我が大納言家の親戚筋の娘だ。
「いや、何もないよ。この弓は、滝口の武士たちと稽古をするために持っているだけで。篤子こそ、灯りも持たずにどこへ行く……つもり……ん?」
晴れやかな笑顔で問うてきた見知った相手につられ、同じく浮かべていた笑みが突如、固まる。
どくんっと、鼓動が跳ね上がった。“ある予感”で。
緊張で、顔が強ばる。しかし、それを抑え、ゆっくりと声を紡いでいく。
「篤子……その手に抱えている布包みは、何かな? もぞもぞと、おかしな動きをしているが……」
問いかけながら、背後にいる白焔に視線をやる。
「え? この子ですか? 私の飼い猫ですの。ふた月ほど前に、怪我をして鳴いていたのを保護しまして。ほら、うずら丸。光成お兄様にご挨拶なさい」
――ぴよーんっ!
白焔が大口を開けて激しく頷きながら篤子の猫を指差しているのを見たのと、『うずら丸』がおかしな鳴き声を聞かせてきたのが、同時。
そして、すかさず篤子に寄った私自身が、布でくるまれた『うずら丸』の瞳が深紅だと視認したのは、その直後。
なんと! 灰炎かっ?
ここに、いたのか!
というより、向こうから現れてくれた……!
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