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鳴弦に、愛の言霊の閃く 【五】

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 なんという、偶然。探すまでもなかった。相手のほうから私たちのもとに来てくれるとは!


「か、可愛い鳴き声だな。篤子。私にも、その猫を抱かせてもらえるかな?」


 けれど、逸る心を必死で抑え、平静を装って声をかける。


 落ち着け。落ち着くんだ、光成。


「え? 光成お兄様、猫、お好きでしたか?」


「あぁ。最近、妙に接する機会が増えて、興味が湧いているんだよ」


 何も気取られることなく、行動しろ。


 今日のこの日を迎えるまでに練った、灰炎捕獲のための全ての策と段取りの中から、この状況に最も沿うものを選び出し、速やかに御役目を果たすのだ。


「だから私にも、うずら丸を抱かせ……」


「でも私、急いでおりますの。それに、うずら丸は私以外には懐きませんので、光成お兄様にこの子の抱っこは無理ですわ。では、失礼いたしますっ」


「え……」


 はきはきとした早口が紡いだ言葉を聞き終わる前に、目前から布包みが消えた。篤子ごと。


「何してんの、光成ちゃん。早く追っかけて!」


「……っ、しまった!」


 完全に虚を突かれ、反応が遅れた。


「篤子、待て!」


 白焔に続いて駆け出しながら、声を張り上げる。


「待ちません。ついてこないで! 大事な用なんです。関係ない光成お兄様なんて、ついてこないで!」


 そうだった。灰炎との思いがけない邂逅に舞い上がって忘れていた。


 走りながら思い出す。篤子は、“こういう娘”だったと。


 縁戚同士で年齢も近く、幼き頃は妹の撫子《なでしこ》ともども遊び相手であったこの娘は、いつの頃からか撫子とのみ仲良くするようになり、私には小憎たらしい態度しか取らない娘になっていたのだ。


「篤子、止まれ!」


 あと、女房装束なのに、とんでもなく足が速い。


「嫌です! ついてこないでと申しましたのに、どうして、ついていらっしゃるのっ?」


 横に並び、『止まれ』と制しても篤子の足は止まらない。


 いい加減、疲れてきても良さそうなものだが、速度を保ったまま内裏の暗い庭を駆け抜けている。猫を両手で抱えたままという、走りにくい体勢で。


 そうだ。こんな風に足の速い娘だった。この篤子は。


 勝ち気で活発、自由奔放。跳ねっ返りで、わがままで。だから、撫子とも気が合って。幼い頃は、いつも三人で仲良く遊んでいたのだ。


「光成お兄様、しつこいです。私、急いでおりますのに! うずら丸にご挨拶させましたから、もうよろしいでしょう? お立ち去りになってください」


 なのに、いつの間にか、このように私を睨みつけたり、憎らしい物言いをするようになった。


 内侍司《ないしのつかさ》で、上《かみ》の女房としてお務めを始めるのだと父上から聞き、『あの跳ねっ返りが、主上《おかみ》の御用など大丈夫だろうか』と心配で様子を見に行っても、『大丈夫だから、もう来るな』と拒絶されてしまった。


「ねぇ、光成ちゃん。可愛い娘を転ばせるのは忍びないけど、アタシがその娘の足をささっと引っ掛けて、その隙に灰炎ちゃんをかっ攫う作戦でいく?」


「いや、いい。私がやる」


 並んで疾走しながら、小声で告げられた提案をしりぞける。


 どうせ、私はこの子には嫌われているのだ。灰炎捕獲のため、成すべきことを成そう。


「篤子!」


「きゃあっ!」


 携えていた弓を白焔に預け、篤子の背に飛びかかった。


「悪いが、我らはその猫に用がある。引き渡してもらうぞ」


 篤子の身体には衝撃がないよう、私が下になって地に倒れつつ、その手の中の布包みに手をかけた。


「やめて。うずら丸に触らないで! 柿本様も光成お兄様も、どうして皆、この子を取り上げようとするの? うずら丸は、私の大事なお友だちなのに!」


 腕の中から、哀しい叫びがほとばしる。


「離して! お友だちは、渡しません!」


 髪を振り乱し、猫をくるんだ布包みを抱きしめたまま身をよじって、篤子が声をあげる。


 友だち? 妖猫が?


「篤子、少し落ち着いて……」


「この子だけが! うずら丸だけが私の気持ちをわかってくれるのに! どうして、私から取り上げようとするのっ?」


「篤子、落ち着きなさい」


「嫌っ! 光成お兄様も、柿本様と同じことをおっしゃいました。『猫を引き渡しなさい』って。この子は悪さをした猫だから、陰陽師の術で封じるのでしょう? でも、そんなことはさせません。私が逃がしてあげるんです。だって、お友だちだか……」


「篤子っ!」



――びくんっ!


「何度も同じことを言わせるな。落ち着いて、私の話を聞きなさい」


「……っ、お兄様……光成お兄様が、怒鳴っ……私を怒鳴った……うっ、うぅっ……うぁ、っ」


 そんなつもりはなかったのだが、興奮状態の篤子に言葉を届けるため、やむなく叱り飛ばすような大声をあげてしまった。


 よほど驚いたのか、大きく肩を震わせた篤子の瞳から、大粒の雫が次々と溢れ始めるのを見て、胸が痛む。


「声を荒げて悪かった。けれど、興奮して暴れていては、冷静に話すことは無理だろう? 我らがその猫に用があるのは、決して封じるためではないことを伝え……」


「あつ、こ……なくな」



――ざわり


 泣き出してしまった篤子の背を撫で、言い聞かせている最中。神経に障る、甲高い声を聞いた。


「あつこ、いじめる、な」


 頬に当たる風が、どろりとぬるく変わる。


「ゆるさない……ころ、す」



――ごぉっ!


「うわっ!」


 おぞましい響きがその場の空気を震わせた直後、抱きかかえていた篤子の胸元から轟音が立ちのぼった。


 突如、膨張した緋色の光とともに。


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