不幸連続コンボからの、猫と隣人に拾われてます

まと

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蒸し暑いアスファルトの照り返しが、容赦なく身体にまとわりつく。
スーツの中もすでに汗でぐっしょりだったけれど、そんなことすら気にならないほど心のほうが重く、湿っていた。
鞄を握る手に力が入らない。
肩も、背中も、ずしりと鉛のようだ。

会社を出る時、中野課長の姿はどこにもなかった。
それはあえてそうしたのかは分からない。
あんなに必死で入った会社だったのに、辞めるのはこうも容易い。

毎日がしんどくて眠れない日もあった。
逃げ出したいと思った夜だって数えきれない。でも少しでも現状を変えるために、歯を食いしばって頑張ってきたつもりだったのに。

「...なんか、もうどうでもいいや」

ぴたりと足が止まる。
ぼんやりと、黒ずんだアスファルトのひび割れを見つめた。

「...消えたいなぁ」

ぽつりと出た言葉は、セミの鳴き声に混じって消える。

「あれ、お隣さんだ」

照り返しに揺らぐ空気の向こうで、誰かの声がした。
ゆらりと顔をあげれば、このありえない暑さだというのに、涼しげな顔をしたイケメンが立っている。
とても不思議そうな顔をして。

「どうしたんですか?」

「...え?」

「酷い顔してますよ」

「そう?...どんな顔?」

「仕事も、住むところも、いっぺんになくしたような顔?」

「ふはっ」

なんてタイムリーなことを言うのだろう、この隣人は。
思わず笑ってしまったじゃないか。
それにしてもお洒落なイケメンだ。
安物のスーツを着た自分が恥ずかしくなる。

「当たりですか?」

首を傾け、形のいい唇がやわらかく弧を描く。本来ならムカついてもいいだろうに。
その笑みに、ゆるーっと力が抜けていく。
まるで夏の熱気に沈んでいた心に、ひとしずくの冷水を垂らされたみたいに。

「半分当たり」





「それってハメられたってことですか?」

「...そうなるねえ」

自分でも信じられないけど、普通に喋ってる。
まあ外でばったり会った隣人と、仲良く並んで歩いて帰ることは、そんなに不思議なことではないか。
そしてその隣人に、いましがた会社を辞めてきたその経緯を愚痴るのも、なんら不思議ではないよね。
それが昨日、初めて顔を合わせたばかりの相手であっても。

ちなみに多分、いや絶対、年下だろうからと勝手に予想して敬語はやめた。

「まるでドラマみたいですね」

「 ...ねえ。オレもそう思う、ははは」

「まあ良かったんじゃないですか?辞めて正解ですよ」

「...おいおい、ヒトゴトだと思ってさー」

「そんな会社にいたって、いずれ似たようなことに巻き込まれてます。結局使い潰されて、搾取されるだけです」

「そ...そうかもしれないけどさ...でも...言われるがまま、逃げるように辞めちゃって良かったのかなってさ、思っちゃうんだよ」

「でもお隣さん、戦わないでしょう?」

「む、オレのことなにも知らないじゃん」

「知らないけどなんとなく分かります。うちの猫が迷惑かけた時だって、本当は何か言いたげだったけど、なにも言い返してこなかったでしょう?」  

「う」

淡々とした声は妙に確信めいていて、思わずこちらが口をつぐむ。
こやつ、飄々とその場の空気なんて読みませんって顔して、意外と相手をよく見てるじゃないか。
確かに間違ってはいない。
オレは人の顔色ばかりを伺う臆病者で、肝心な時なんにも言えない。

今回だって会社の言いなりになって悔しくてたまらないくせに、何もせず逃げるようにして会社を飛び出した。

ふぅと息をはいてへらりと笑う。

「...ていうかその件に関してはさぁ、猫が迷惑っていうか...君が...もうちょっと気を付けてあげなよ」

眉をひそめて指摘すると、相手は悪びれもせずに首をかしげた。

「あはは、はーい」

「軽い...」

「でもうちの猫は特別なんです。本当に」

「出たよ、謎の自信」

「まあまあ、今はお隣さんの話でしょう?」

「そうそう、そうなんだけど」

しぶしぶうなずきながらも、結局押し切られてしまう自分に気づき苦笑が漏れた。

「まあ負け癖とか、逃げ癖?ついてんのかもね。その割には本当にこれでいいのかなってぐるぐる悩んだりして」

どうせ敵わない相手なのに。

情けなく笑うオレを隣人は横目で一瞥し、ほんのわずかに口角を上げた。
神秘的なほどに、綺麗な横顔だ。
まるで全ての答えを知っている神様みたい。
なんにも知らない癖に、生意気で余裕そうで。

当然モテるのだろう。
外見だけじゃなく、こういう掴み処がないところも。
暑いのに、秋の終わりのような涼しげなところも。

「!」

...とかなんとか考えていたら、イケメンが突然こちらを向いた。
穴が開くくらい、盗み見ていたからめちゃくちゃ驚いた。

「そういえばオレ達、自己紹介まだでしたね」

「そ、そうだね?」

唐突すぎる言葉に面食らいながらも、確かに、とも思った。
普通なら最初に会ったあの日に済ませるはずのこと。
けれどあの時は状況が状況で、名乗る余裕なんてなかった。

「オレは天澄あますみめいじって言います。めいじって呼んでください。ちなみに歳は24です」

「天澄...めいじ...くんね。えと、オレの名前は箱島はこじま...、はこじまはこじま かえでって言います。歳は27です」

「了解です。あの楓さん」

「...うん?」

「世の中の正解とか不正解とかはどうでもよくて、結局はあなたがどう思うか、どう納得するかだと思います」

「... どう思うか、どう納得するか...」

その言葉の意味を探そうと、ぽつり呟いた。
ふいに、彼の白い手が視界に下りてくる。

「?」

ゆっくりと、ためらいもなく。
見下ろされるようにして。
指先が触れる直前、汗のにじむ額にひやりとした影が落ちた。
前髪が軽く持ち上げられ、夏の光が額をなぞる。
一瞬、あんなにも煩かった蝉の声が遠くなる。
目を閉じれば、きらきらとした光の粒がまぶたの裏に残った。

「あ...」

「前髪、目に入りそうだったんで」

「あ...りが、とう?」

えと...、今のって普通なのだろうか?
男が男の前髪を払ってくれるもの?
それも汗つきだよ?
オレなんかのだよ?
分からない、友達がいないもんで。

え?え?とどうしていいか分からず、目を泳がせていると...、

「...それこそドラマなんて、勝てる脚本があるから正面から戦うだけで、現実リアルでは勝てる保証なんてありません。だったらこれ以上傷だらけになるよりも、一番に自分を守れるほうがよっぽど賢いです」

「...」

ついさっき不当に会社を辞めてきたばかりで、そんな風に簡単に割り切れるわけがない。
だけど、どこかほんの少しだけ救われた気持ちになる。
傷付いたばかりの時。
なにも考えたくない時。
頭の中が整理できずに混乱している時。
一旦逃げて、無理に答えを出そうとしなくてもいいのかもしれないって。

「そうだ、だったらうちに来ませんか」

「うち...?」

聞き返すと、彼はにこりと笑う。
まるで世間話の延長みたいな顔で。

「はい」

「えと、いまから?」

首を傾げながら尋ねると、彼は肩をすくめて首を横に振る。

「そうじゃなくて」

「?じゃあどういう...って、はっ!?」

戸惑いを浮かべたまま話していると、ふと視界の端に不自然な灰色が揺れた。
ゆらゆらと夏空を汚す煙。
最初はどこか遠くのことのように見えたが、次の瞬間、その根元が見えた。

「め...めいじくん!!」

「?」

「マ…マンションッ!!オレ達のアパートがっ!!燃えてるっ」

喉の奥がひゅっとすぼまり、心臓が跳ね上がる。
それは紛れもなく、自分たちの住むマンションから立ち上る煙だった。
炎がうねるように空へと伸び、黒い煙が夏の青空を覆い尽くしている。

「う…嘘だろ…」

周囲からも慌てる声が交錯し、胸の奥で焦燥が膨らんでいく。
そして再びはっとする。

「めいじくん!!毛玉!毛玉はっ?!」

オレは慌ててめいじくんの袖を強く掴んだ。
心臓が早鐘のように鳴り、声が震える。

「毛玉?」

「猫!猫だよ!キミんとこの!!た、たたた助けにいかなきゃっ」

焦りのあまり言葉が詰まり、呼吸も乱れる。

「落ち着いて、大丈夫です。うちの猫、今あそこにはいないですから」

その言葉に、少しだけホッとして安堵する。

「よ...良かった…。って、なんでそんなに落ち着いてんの?!オレ達の階、めっちゃ燃えてるよぉ!!」

まるでジェットコースターのように上下する感情の波が、胸の奥でぐるぐると渦巻いていた。焦りと不安、恐怖で頭の中はぐちゃぐちゃだ。
それに対して、めいじくんはどこか冷静で燃え盛るアパートを前にしても落ち着いている。
本気の本気で変わり者だと思う。

消防車のサイレンが遠くから近づいてきて、間もなく到着するようだ。
住人たちが慌てて避難を始めているのが分かる。
大丈夫だろうか?

「っ、」

くらりと目の前が揺れ、足元がふらついた。

「大丈夫?楓さん」

めいじくんの大きな手が、オレの肩をしっかりと支えてくれる。
でも大丈夫とは言えない。
落ちてしまいそうに、地面に身体が吸い込まれそうだ。

「オレの...オレの...」

オレの居場所がどんどん失くなっていく。

「楓さん、」

そこで意識はぷつり。


この日オレは本当に、仕事と住むところをいっぺんになくしてしまったみたいだ。


    
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