そうして、『兎』は愛を知る

池家乃あひる

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06.日常の崩壊

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「怪我は、ないか」
「……ぁ、」

 ひとつ、ふたつ。瞬き、息を吐き。瞬きが一度、重なり合う。
 問いかける低音は、男たちに投げかけたものに比べて柔らかく。心地良い響きに、温かいなにかがソワソワと背中をくすぐる。
 今まで味わったことのない感覚に戸惑い、言葉も意味を理解することも追いつかず。口から漏れたのは、意味のない母音だけ。
 掠れ、縮れた醜い音は、彼の響きと比較するにはあまりに劣る。
 それでも、なにか言わなければと振り絞る言葉は、紛れもなくドブの本心。

「き、れい」

 チカチカと、蒼い光が輝く。本当に、本当に……こんなに綺麗な蒼を、ドブは今まで見たことがない。
 それは、初めて嫌悪を向けられていないからこそ、一等輝いていたのか。
 ドブにその真実はわからなくても、抱いた気持ちだけは本当だと。零れた言葉に、蒼が僅かに緩む。
 ふ、と笑う息は、アルビノやオーナーから向けられるのとはやはり違う。蔑みも、哀れみもなく。まるで、本物の兎に向けるように柔らかく、慈しみを抱くもの。
 ほんの一瞬。だけど、ドブにとっては永遠に思えた時間は、瞬きと共に終わりを告げる。
 次に目にしたのは、オーナーたちを再び睨み付ける男の姿。

「お前たちの目には、これがゴミに見えていたと」
「俺はオーナーに処分するように言われただけだ! なにも知らない!」
「アンタらの話は後で聞く。黙ってろ」

 なおも保身に走る男たちを、ノースと似た装いの青年が咎め、制止する。煌めく金の髪と、斑模様が刻まれた尾。なんの血が流れているかドブには分からなくても、猫やオーナーと違うことは明らか。
 そうして、彼らの後方。ノースが睨み付けるその先には、汗まみれで顔を引きつらせるオーナーと様子を窺う兎たちの姿も。
 その周囲を取り囲むのは、やはり似た装いの者たちばかり。その全員が、きっと禁制監視官なのだろう。

「毛色と種族。体格から見ても兎と猫の混血だろう。こちらで記載している書類とも特徴は一致している。……これはどういうことか、ご説明願おう」
「ご、ごっ、誤解です閣下! それは私が拾った孤児で! この仲介所の外にて行き倒れていたところを、見殺しにするのは忍びないと、やむを得ず!」

 よほどドブの存在を知られるのがマズイのだろう。見つかった以上、せめて誤解であると訴えるオーナーの焦り具合は、見つめるドブが呆れてしまうほど。

「孤児?」
「ええ、ええ! ここが仲介所とも知らずにふらりとやってきて、兎らの見ている前で倒れたので、致し方なく! 匿っていたことは確かに罪でございますが、そうしなければ今度こそ死んでしまうと思ったからこそ! しかし我々も慈善家ではございません。養うには対価をいただかなければ! ましてや兎と同じ屋敷に住まわせることもできず、仕方なくこの倉庫に住まわせていたのです!」
「逃げぬように外から鍵をつけたうえでか」
「兎の安全を守るためにございます! 万が一があってはならぬとっ……!」

 途中で噛まないのが不思議なほどに、スラスラと並べられる言葉のなんと薄いことか。
 だが、それを嘘だと知っているのは仲介所の者たちと、ドブ本人だけ。この言葉が通れば……それこそ、ドブは監視官からも兎ではないと否定されることになる。

「あくまでも兎ではないと」
「そ、そうです! こんな醜い、ドブのような毛色の兎など存在するはずがございません! 兎とは愛らしく、可憐で、か弱いもの! 愛されるためにこそ存在する特別な存在! それは閣下が誰よりもご存知のはず!」

 怯えるドブに、容赦なく投げかけられる言葉。監視官でさえも、こんな醜い兎なんて見たことはないはずだと。
 これは兎ではないと、違うのだと。繰り返される度に、死の恐怖が込みあげる。
 否定されれば。違うと言われてしまえば、本当に死んでしまう。
 どんな扱いをされようと、ドブにはここしかなかったのに。ここでしか生きられないのに。
 兎としての価値がなくとも、その兎としての存在すら否定されてしまえば、いったい自分になにが残るのか。

「ですからそれは、兎では――!」
「黙れ」

 必死の訴えが、その一言で悲鳴へ変わる。歪な呼吸は、オーナーからも、その後ろにいる兎たちからも。
 毛先がビリビリと痺れるほどに空気が重く、ひりつく肌に纏わり付くのは明確な恐怖。

「奴隷と言い張り、未許可の存在を敷地内に滞在させた方が罪が軽くなるとでも思ったか? 保護を命じた兎を不当に扱い、虐げる姿を他の兎に見せるだけではなく、兎自身にもそれを助長させていた。どれ一つとっても重罪だ。そのうえ、保護を命じていた兎の書類改ざんに加え、保護責任放棄とまできた。現時点をもって貴様の保護資格、及び仲介所責任者の資格を剥奪する」
「そんなっ! お待ちください閣下! 誤解です! 私はなにもしておりません!」

 縋り付こうとでもしたのだろう。踏み出した足は、すぐさま周囲に拘束される。
 羅列された言葉のほとんどが難しく、ドブには理解できなかった内容も多い。
 だが、これこそオーナーが恐れていた事態であり、逃げられなかったのだと気付くにはこの一連で十分。

「私は他の兎のためを思って!」
「貴様のおかげで有意義な休日が過ごせそうだ。感謝の証に、他の余罪も明らかにし、全ての責任をとらせる。……逃げられると思うな」
「くそっ、くそぉっ! そもそも、混血など押しつけてきた貴様らのせいだろうがっ!」

 逃げられないと悟れば、今度は開き直り。自分は悪くないと叫ぶオーナーの声は、引き摺られる音に負けることなく響く。

「価値のない混ざり物など、生かしてやっただけマシだろうが! せめて毛色だけでもマシなら兎として扱ってやったものをっ! こんなに汚ければ他の仲介所連中だって同じ事をしたっ! なぜ私だけ!」

 音がどれだけ遠ざかろうとも、罵声はドブの鼓膜を叩き続ける。
 生きる価値すらない。汚い。……わかっていても、こうして最後まで突きつけられれば、麻痺していた心臓も痛む。
 遠巻きに見ていた従業員も連れて行かれ、残ったのは数人の監視官と、兎たちと、行き場を失ったドブ。

「混血だろうと兎だ。引き取りの価値に差があろうとも、それが虐げるための免罪符にはならない。ましてや、殺していいはずもない」

 そして、この仲介所に終わりを告げた、目の前の男。
 呆れと、怒りと。重なり合った深い息が、ドブの耳先をピクリと跳ねさせる。
 汚く、醜い。兎としての価値のない、混ざり物。
 そう言い聞かせられ、扱われたきたドブにとって。その言葉は、想像もしていなかったもの。
 呟きはドブの心に波紋を起こし、波が全身へ広がっていく。
 じわり、じわり。その感情を、ドブはなんとたとえればよかったのだろう。

「未成年の兎たちは一旦こっちで預かるとして、その子はどうするんだ?」

 混血でも、兎だと。明確に発言した男に近づくのは、先ほども男たちを捕らえていた金髪の男。
 示されているのは自分だと気付き、再び視線が地に落ちる。
 罪があるのは、オーナーや他の従業員だけ。兎はあくまでも保護対象で、この仲介所がなくなるなら、別の場所を用意しなければならない。
 だが、ドブは本当の兎でもない。そして、年齢だけでいうならもう成人だ。きっと保護の対象にはならない。
 だけど、ドブのような混血がまともに働けるはずがない。
 外に出れば、死んで、しまう。

「この子は、」
「お……お願い、します」

 続きが聞こえるよりも先に、額を地面に擦りつける。正しい頼み方なんてわからない。兎としての作法だって、教わっていない。
 それでも、頼まなければ死んでしまう。どれだけ汚くとも、醜くとも、価値がなくとも。どうしたって、死ぬのだけは怖かった。

「掃除も、皿洗いも、なんでもします。なにも言いません。ご……ご不快になるなら、視界にも入らないようにします」

 自分の鼓動が、歪な呼吸が、やかましくて他の音がなにも入らない。
 見下ろす彼らが、どんな顔をしているのかだって、今のドブには分からない。
 役に立つわけがないと蔑まれても、呆れられても、それでも……こうして縋るしか、ドブには生きる方法がないのだ。
 自分は本物の兎ではないから。愛されることはないのだから。
 それでも、死にたくは、ないから。

「どんな場所でも文句をいいません。どんな食事でもいただけるなら、なんでもします。っ……兎と、して。価値がないのは、わかっています。それでも、私でも働ける場所を、いただけませんか」

 兎として愛される価値がないのは、ドブだって分かっている。
 何度も、何度も。言い聞かせられて、突きつけられて、諦めてきた。だけど、せめて生きることだけは許されたいと。
 強く、頭を擦りつけるドブの耳に届くのは、重い足音。
 続くのは溜め息でも、断る言葉でもなく。布擦れと、再び膝をついた気配。
 震えるのは恐怖か。それとも、今さら感じる寒さからなのか。掻いた指先に土が入り込む不快感は、肩に触れられる感覚に掻き消される。

「顔を上げなさい」

 ドブの耳先を跳ねさせるその声は、決して大きくはなく。そして、低くとも怖くないと思ったのは、その響きにどこか柔らかさがあったから。
 恐る恐る見上げた先、見つめた蒼の目つきはやはり鋭く、本当なら怖いと思うところなのだろう。
 されど、ドブに込み上げるのは恐怖でも寒さでもなく。得も知れぬ感覚が一気に湧き上がって、肌が粟立つ。
 震えながら吐いた息が白く溶けていく。
脈打つ鼓動がやかましくて、目の前の男にも聞こえているのではと、そんなありもしない錯覚に翻弄される。
 視界が滲み、伏せようとした顔は動かず、蒼に見下ろされたまま。

「私が怖いか」

 聞かれた内容にすぐ答えられなかったのは、誤魔化そうとしたからではなく、自分の感情が分からなかったからだ。
 怖くない、と言えばきっと嘘になるだろう。だけど、正しくこの感情を言葉にすることは、ドブにはあまりにも難しい。

「わか、り、ません。……でも、」
「……?」

 だが、この身体の震えは。
 この内側から突き上げる、泣き喚きたくなる衝動は、怖いからではない。
 自分を見つめる瞳。投げかけられる声。一瞬だけ触れてくれた手の平。
 そのどれもが――ああ。

「――あった、かい、です」

 空気は冷え切り、晒された肌から容赦なく体温は奪われている。
 それでも、温かい。温かいのだ、この人は。
 夜空のように深く、氷のように透き通った深い蒼も。自分へ投げかける低い声も。こんな醜い存在に問いかけた言葉だって。
 目に映り、耳で捉え、感じ取る全てが柔らかくて、優しくて。心臓が苦しいのに、それを心地いいとすら思えてしまう。
 だって、初めてだったのだ。ドブを兎だと言ってくれた人は。
 こんなにも汚れ、醜く、価値がないと言われ続けたドブを、それでも兎であると言ってくれたのは。
 生きてもいいのだと言ってくれたのは、この人だけなのだ。
 それが、彼にとって特別な言葉ではなくても。ドブだけを指しているのではなくても。その言葉に、彼がどれだけ救われたことか。
 そう。ドブの身体を震わせるのは恐怖でも寒さでもない。それこそが、ドブが生まれて初めて抱いた、歓喜なのだと。
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