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10.受け入れ
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気付いた時には、ドブの初めてのお風呂は終わっていた。
ノースは途中から出ていったが、代わりに同じ服を着た女性二人に洗われ、微睡んでいるうちに、濡れていたはずの身体はいつのまにか清潔な服に身を包んでいた。
白いシャツに、黒のズボン。装飾こそ違うが、肌触りは他の兎たちが着ていたのと変わりないほど。
お風呂だけではない。誰かに服を着せられたのも、髪を整えられたのも、ドブにとっては初めてのこと。
何もかも現実にしか思えないのに、頭の中がふわふわとおぼつかなくて、夢との境目が曖昧になっている。
夢、のはずだ。仲介所に監視官様が来たのも、彼が自分をここまで連れてきたのも、今に至るまでの全部が、目覚めるまでの幻のはず。
なのにいつまで経っても覚める様子はなく。少しでも長く、と願ったのは本心だが、ここまで起きないと逆に目覚めの瞬間が恐ろしい。
実は、これは死に際に見ている最期の夢で。だからこそ、ずっと目覚めないのではないのかと。
連れてこられた部屋の、これまた柔らかいソファーに座らされたドブがそう考えていることなど誰も知らず。膝に手を当て、少しでも小さくいようとするのは、それも過去の記憶によるもの。
……仲介所でこんな場所に座っていたら、すぐに殴られただろう。
いや、座る以前に、許された場所以外に入った時点で折檻されていた。
入っていなくても他の兎にうそぶかれ、叩かれた回数は両の手では足りない。
落ち着かず、指の爪と皮膚の境目を引っ掻いて。ピリ、とした痛みを感じ始めた頃、ドブの耳先が揺れる。
捉えたのは、二つの足音。重い靴の音と、聞き覚えのある歩調。
やがて開いた扉の先。見えたノースの姿に、立ち上がろうとした足が動かなかったのは、僅かに見開いた蒼と目が合ったからだ。
頭の上から、足先まで。何かを確かめるように辿られ、思わず自分の姿を確かめる。
されるがままであったが、やっぱり着てはいけない物だったのかもしれない。
もしかしたら、誰かがゴミと思って捨ててしまって。だから、仕方なく用意したのかも。
「あ、の、私の、服……」
「……あ、ああ。あの布……いや、服はこちらで捨てさせてもらった。……思い入れがあったか?」
捨てられたと聞いても悲しくはなく、むしろ当然である。
であれば、仕方なく用意されたものなのだろうと納得して、服ごと握り込んでいた膝を慌てて離す。
……本来なら、自分のような混血が着ていい物ではない。
「急ぎ既製品を用意させたが、どこか気持ち悪いところが?」
「い、いいえ。ありがとうございます。あの……なるべく汚れないように、早くお返しいたします」
「それはお前に与えた服だ、返す必要はない。なぜそう思った?」
肌に当たる感覚は落ち着かないが、気持ち悪いはずがない。ただ、借り物ならば綺麗な状態で返さなければならない。
自分が着ている時点で汚くなっているかもしれないが、と。再び握りそうになった服の代わりに皺を寄せたのは、ドブではなくノースの眉間。
不快にさせてしまったと、視線は落ちて手元へ。
結局、握り締めてしまった手をほどくことができず、背後から聞こえるのは無意識に動いた尾の音。
潜り込む隙間はなく。あったとしても、その視線から逃げることなんてできない。
「そ、の……驚かれていた、ようだった、ので。着てはいけなかったの、かと」
「それは……」
一人は返事を待って、一人は言葉に詰まり。僅かな沈黙の終わりは、朗らかな笑い声によって。
「不安に思うことはありません。ヴァルツ様が見ていたのは、あなた様が愛らしい姿で待っていたからですよ」
「セバス」
ドブに向けた以上に深い皺を刻んでいるのにも関わらず、睨まれた男は動じることなく。それどころか、よりその目元を緩ませて笑う。
「おや、違いましたかな?」
「それは……っ」
「あ、あの。僕は……兎じゃ、ない、ので……」
聞き間違いでなければ、彼は愛らしいと言った。だが、それは純粋な兎に対してのみ向けられる言葉だ。
ドブの半分は、違う種族の血。耳も尾も、背丈も、本物の兎には遠く及ばない。
だから、可愛いのも、愛らしいのも、それは違うはずだと否定する声が萎んだのは、途中で口答えしていると気付いたから。
兎は、主人に逆らってはいけない。決して機嫌を損ねてはいけない。
そうでなければ愛されないと、アルビノたちに言い聞かせる言葉は何度も聞いていたのに。
でも、こんな時にどうすればいいかをドブは知らず。俯く耳を揺らしたのは、小さな溜め息。
「……お前も混乱していたし、些か性急だった。改めて、お前の状況について話そう」
対面に座っても、見上げることには変わらず。見つめる蒼に柔らかさが戻ったことに困惑する。
「まず、お前は他の兎と同じように保護されるはずだった。監視局の書類にも、兎として扱うように指示がある。血を理由に対応を変えること、ましてや虐げることは、この国では重罪だ」
「混血には、価値がないと……」
「価格が低いことは否定しない。だが、それでも希少な兎だ。仲介所にはその利益の数割を得る対価として、兎の心身を守る義務がある。あの仲介所に携わった全員には、その責務を放棄した処罰を下すこととなる」
オーナーも、仲介所の従業員も、皆がその対象になるのだろう。
他にも処罰となることをしていたかは、ドブには分からない。少なくとも、もう彼らに会うことはない、ということだけは確か。
自分のことのはずなのに、どうにも話が入ってこないのは、やはり夢だからだろうか。
価値がないと言われ続けたドブには、そもそもすぐに受け入れられるものでもない。
「それまで預かっていた兎は他の仲介所へ移動となるが、成人済みの兎に関しては、規定通りに新しい預かり元へ引き渡される」
「アルビノ、は?」
「あの白い兎も同じだ。どこに引き渡すかはこれからになるが、気になるか」
「監視官、様は、特別な兎を受け入れに来たと……」
あまりにいろいろなことが起きて忘れかけていたが、確かにアルビノはそう言っていた。
特別な監視官。特別な兎。それは間違いなく、アルビノであると。
ドブだってそれは否定しなかった。なのに、今ここにいるのはドブで、アルビノではなく。
でも、彼はアルビノを受け入れないと言っていた、ような……?
「そもそも、私があの仲介所に向かったのは調査のためで、兎を迎えるというのは勝手に言われていただけだ。今回はそれを逆手に取ったが……想定よりも腐っていたようだ」
押し殺した溜め息も、ドブの耳は余さず捉えてしまう。
自分に向けてのものではないと分かっていても揺れる先は、目の前の男にはどう映っているのだろうか。
「とにかく、お前は兎として保護されるはずだったし、服も風呂も医者も、これまで与えられるべき物を与えられていなかっただけだ。それらを得ることに、お前が負い目を感じる必要はない。今後が決まるまでは、ここがお前の家であり、住む場所だ」
一つ、二つ。瞬き、遅れて届く言葉の意味を、やはり飲み込みきれずに呆ける。
ここが、家。ここが……自分の、住む場所?
混血の僕が、兎として?
「……だが」
三つ目の瞬きは、否定の言葉に対して。
「お前がここにいるのは兎として保護するためであり、迎えたわけではない。私はお前の主人ではないし、お前を愛することもない」
突きつけられる言葉に、普通の兎なら息もできなかっただろう。
真っ向から愛されないと突きつけられて、傷付かない兎はいない。
だが、ドブにはなんの痛みもない。むしろ納得しているほどだ。
そもそも、混血のドブを愛する者はいない。それは、最初から分かっていたことだ。
それはこの人も同じ。だから、混血でも兎だと言われるよりも、よほど受け入れられる。
むしろ、こんな自分を保護してくれるというのだ。
それも、他の兎と同じように。それだけで、ドブにとっては十分過ぎる。これ以上など、望んではいけない。
「愛しはしないが、兎としての待遇は保証する」
「ありがとう、ございます」
深く頭を下げて、再び見た蒼はやはり温かく。顔の緊張も緩めば、少しだけ眉が動いた気がしたのはドブの見間違いだったのか。
「本来は主人が兎に名を与えることになっているが、今の名で呼ばれるのも不快だろう。とはいえ、名を呼ばないのも支障がある。何か希望はあるか?」
今の名前の由来も、彼は知っているのだろう。いや、ここに来る前、アルビノが叫んでいた。
ドブのように汚い毛色。いつだって汚れて、その名前にふわさしいほどに醜い姿。
呼ばれる度に胸が苦しくなっていたのも昔のこと。
だが、改めて名前をと言われ、咄嗟に首を振ってしまう。
今言われたばかりだ。保護しているだけだと。あくまでも、ドブがここにいるのは一時的なこと。
こんな綺麗な服まで貰っているのに、名前までお願いするのは我が儘だ。
それに、ドブは覚えている。この人は、本当は兎が嫌いだ。
確かにドブの外見は、兎のそれとは比較できないほどに醜い。それでも、半分でも血が混ざっている以上、彼の嫌いな存在には違いはないのだ。
こんな優しい人を、困らせてはいけない。
「まぁ、急いで決める必要もない。ともかく、お前が何かを与えられることに対し、負い目を感じる必要はない。それだけ理解していればいい」
「あ……の、監視官、様」
明確に眉が寄り、続く言葉が喉の奥で止まる。
呼ばれるのも不快になったのかもと揺れた肩に対し、小さな溜め息は耳先を擽って跳ねさせる。
「…………ヴァルツだ」
「え……?」
「屋敷の中ならともかく、監視官では他の者と区別がつかない。私のことは名で呼びなさい」
言いながらも眉は寄ったままで、しかし目は優しくて。その方が嫌ではないのかと思いながらも、呼べと言われて逆らうことはない。
「あ……ありがとうございます。ば、ルツ、様」
馴染みのない発音を舌で転がして、うまく言えず。
だが、それに対して嫌な顔はされなくて。態度と表情の矛盾に、ドブの理解は追いつかないまま。
「先も言ったが、これはお前の権利だ。礼を言われることはしていない。……私は仕事に戻るが、あとのことはここにいるセバスに任せている」
背後に立った男が笑い、お辞儀を一つ。ドブも倣って頭を下げれば、ヴァルツは既に扉の前へ行っていたところ。
「あ、あの」
「なんだ」
保護されているだけ。ご主人様ではない。それでも呼び止めてしまったのは、きっと言うべきだと思ったからだ。
その理由をドブはわからずとも。それが正しいのか、わからなくても。
「……い、ってらっしゃい、ませ」
「…………ああ」
長い沈黙は、結局正しかったかを量るには足らず。扉は閉まり、遠ざかっていく足音が聞こえなくなって……それから、近づいてきた音へ向き直る。
見上げた灰色の瞳は、しゃがんだことでドブと同じ視線へ。目元の皺はより深く刻まれ、口に浮かぶのは柔らかな笑顔。
「申し遅れました、私はヴァルツ様にお仕えしている執事のセバスと申します」
「セバス、様」
「私の事は呼び捨てで構いません。他のメイドも同様に、お気軽にお呼びください」
「それは……」
「さて!」
執事、とは言ってもヴァルツに仕えているのなら、ドブよりも身分が高い。
所有物として迎えられたのではなくても、そんなことはできない。
だが、首を振るよりも先ににっこりと微笑まれ。強く張り上げた声に、否定の言葉も出てこないまま。
「お医者様が来るまでまだ時間がありますので、先にお食事にいたしましょうか」
もちろん、その提案に対しても、ドブが首を振ることはできなかったのだ。
ノースは途中から出ていったが、代わりに同じ服を着た女性二人に洗われ、微睡んでいるうちに、濡れていたはずの身体はいつのまにか清潔な服に身を包んでいた。
白いシャツに、黒のズボン。装飾こそ違うが、肌触りは他の兎たちが着ていたのと変わりないほど。
お風呂だけではない。誰かに服を着せられたのも、髪を整えられたのも、ドブにとっては初めてのこと。
何もかも現実にしか思えないのに、頭の中がふわふわとおぼつかなくて、夢との境目が曖昧になっている。
夢、のはずだ。仲介所に監視官様が来たのも、彼が自分をここまで連れてきたのも、今に至るまでの全部が、目覚めるまでの幻のはず。
なのにいつまで経っても覚める様子はなく。少しでも長く、と願ったのは本心だが、ここまで起きないと逆に目覚めの瞬間が恐ろしい。
実は、これは死に際に見ている最期の夢で。だからこそ、ずっと目覚めないのではないのかと。
連れてこられた部屋の、これまた柔らかいソファーに座らされたドブがそう考えていることなど誰も知らず。膝に手を当て、少しでも小さくいようとするのは、それも過去の記憶によるもの。
……仲介所でこんな場所に座っていたら、すぐに殴られただろう。
いや、座る以前に、許された場所以外に入った時点で折檻されていた。
入っていなくても他の兎にうそぶかれ、叩かれた回数は両の手では足りない。
落ち着かず、指の爪と皮膚の境目を引っ掻いて。ピリ、とした痛みを感じ始めた頃、ドブの耳先が揺れる。
捉えたのは、二つの足音。重い靴の音と、聞き覚えのある歩調。
やがて開いた扉の先。見えたノースの姿に、立ち上がろうとした足が動かなかったのは、僅かに見開いた蒼と目が合ったからだ。
頭の上から、足先まで。何かを確かめるように辿られ、思わず自分の姿を確かめる。
されるがままであったが、やっぱり着てはいけない物だったのかもしれない。
もしかしたら、誰かがゴミと思って捨ててしまって。だから、仕方なく用意したのかも。
「あ、の、私の、服……」
「……あ、ああ。あの布……いや、服はこちらで捨てさせてもらった。……思い入れがあったか?」
捨てられたと聞いても悲しくはなく、むしろ当然である。
であれば、仕方なく用意されたものなのだろうと納得して、服ごと握り込んでいた膝を慌てて離す。
……本来なら、自分のような混血が着ていい物ではない。
「急ぎ既製品を用意させたが、どこか気持ち悪いところが?」
「い、いいえ。ありがとうございます。あの……なるべく汚れないように、早くお返しいたします」
「それはお前に与えた服だ、返す必要はない。なぜそう思った?」
肌に当たる感覚は落ち着かないが、気持ち悪いはずがない。ただ、借り物ならば綺麗な状態で返さなければならない。
自分が着ている時点で汚くなっているかもしれないが、と。再び握りそうになった服の代わりに皺を寄せたのは、ドブではなくノースの眉間。
不快にさせてしまったと、視線は落ちて手元へ。
結局、握り締めてしまった手をほどくことができず、背後から聞こえるのは無意識に動いた尾の音。
潜り込む隙間はなく。あったとしても、その視線から逃げることなんてできない。
「そ、の……驚かれていた、ようだった、ので。着てはいけなかったの、かと」
「それは……」
一人は返事を待って、一人は言葉に詰まり。僅かな沈黙の終わりは、朗らかな笑い声によって。
「不安に思うことはありません。ヴァルツ様が見ていたのは、あなた様が愛らしい姿で待っていたからですよ」
「セバス」
ドブに向けた以上に深い皺を刻んでいるのにも関わらず、睨まれた男は動じることなく。それどころか、よりその目元を緩ませて笑う。
「おや、違いましたかな?」
「それは……っ」
「あ、あの。僕は……兎じゃ、ない、ので……」
聞き間違いでなければ、彼は愛らしいと言った。だが、それは純粋な兎に対してのみ向けられる言葉だ。
ドブの半分は、違う種族の血。耳も尾も、背丈も、本物の兎には遠く及ばない。
だから、可愛いのも、愛らしいのも、それは違うはずだと否定する声が萎んだのは、途中で口答えしていると気付いたから。
兎は、主人に逆らってはいけない。決して機嫌を損ねてはいけない。
そうでなければ愛されないと、アルビノたちに言い聞かせる言葉は何度も聞いていたのに。
でも、こんな時にどうすればいいかをドブは知らず。俯く耳を揺らしたのは、小さな溜め息。
「……お前も混乱していたし、些か性急だった。改めて、お前の状況について話そう」
対面に座っても、見上げることには変わらず。見つめる蒼に柔らかさが戻ったことに困惑する。
「まず、お前は他の兎と同じように保護されるはずだった。監視局の書類にも、兎として扱うように指示がある。血を理由に対応を変えること、ましてや虐げることは、この国では重罪だ」
「混血には、価値がないと……」
「価格が低いことは否定しない。だが、それでも希少な兎だ。仲介所にはその利益の数割を得る対価として、兎の心身を守る義務がある。あの仲介所に携わった全員には、その責務を放棄した処罰を下すこととなる」
オーナーも、仲介所の従業員も、皆がその対象になるのだろう。
他にも処罰となることをしていたかは、ドブには分からない。少なくとも、もう彼らに会うことはない、ということだけは確か。
自分のことのはずなのに、どうにも話が入ってこないのは、やはり夢だからだろうか。
価値がないと言われ続けたドブには、そもそもすぐに受け入れられるものでもない。
「それまで預かっていた兎は他の仲介所へ移動となるが、成人済みの兎に関しては、規定通りに新しい預かり元へ引き渡される」
「アルビノ、は?」
「あの白い兎も同じだ。どこに引き渡すかはこれからになるが、気になるか」
「監視官、様は、特別な兎を受け入れに来たと……」
あまりにいろいろなことが起きて忘れかけていたが、確かにアルビノはそう言っていた。
特別な監視官。特別な兎。それは間違いなく、アルビノであると。
ドブだってそれは否定しなかった。なのに、今ここにいるのはドブで、アルビノではなく。
でも、彼はアルビノを受け入れないと言っていた、ような……?
「そもそも、私があの仲介所に向かったのは調査のためで、兎を迎えるというのは勝手に言われていただけだ。今回はそれを逆手に取ったが……想定よりも腐っていたようだ」
押し殺した溜め息も、ドブの耳は余さず捉えてしまう。
自分に向けてのものではないと分かっていても揺れる先は、目の前の男にはどう映っているのだろうか。
「とにかく、お前は兎として保護されるはずだったし、服も風呂も医者も、これまで与えられるべき物を与えられていなかっただけだ。それらを得ることに、お前が負い目を感じる必要はない。今後が決まるまでは、ここがお前の家であり、住む場所だ」
一つ、二つ。瞬き、遅れて届く言葉の意味を、やはり飲み込みきれずに呆ける。
ここが、家。ここが……自分の、住む場所?
混血の僕が、兎として?
「……だが」
三つ目の瞬きは、否定の言葉に対して。
「お前がここにいるのは兎として保護するためであり、迎えたわけではない。私はお前の主人ではないし、お前を愛することもない」
突きつけられる言葉に、普通の兎なら息もできなかっただろう。
真っ向から愛されないと突きつけられて、傷付かない兎はいない。
だが、ドブにはなんの痛みもない。むしろ納得しているほどだ。
そもそも、混血のドブを愛する者はいない。それは、最初から分かっていたことだ。
それはこの人も同じ。だから、混血でも兎だと言われるよりも、よほど受け入れられる。
むしろ、こんな自分を保護してくれるというのだ。
それも、他の兎と同じように。それだけで、ドブにとっては十分過ぎる。これ以上など、望んではいけない。
「愛しはしないが、兎としての待遇は保証する」
「ありがとう、ございます」
深く頭を下げて、再び見た蒼はやはり温かく。顔の緊張も緩めば、少しだけ眉が動いた気がしたのはドブの見間違いだったのか。
「本来は主人が兎に名を与えることになっているが、今の名で呼ばれるのも不快だろう。とはいえ、名を呼ばないのも支障がある。何か希望はあるか?」
今の名前の由来も、彼は知っているのだろう。いや、ここに来る前、アルビノが叫んでいた。
ドブのように汚い毛色。いつだって汚れて、その名前にふわさしいほどに醜い姿。
呼ばれる度に胸が苦しくなっていたのも昔のこと。
だが、改めて名前をと言われ、咄嗟に首を振ってしまう。
今言われたばかりだ。保護しているだけだと。あくまでも、ドブがここにいるのは一時的なこと。
こんな綺麗な服まで貰っているのに、名前までお願いするのは我が儘だ。
それに、ドブは覚えている。この人は、本当は兎が嫌いだ。
確かにドブの外見は、兎のそれとは比較できないほどに醜い。それでも、半分でも血が混ざっている以上、彼の嫌いな存在には違いはないのだ。
こんな優しい人を、困らせてはいけない。
「まぁ、急いで決める必要もない。ともかく、お前が何かを与えられることに対し、負い目を感じる必要はない。それだけ理解していればいい」
「あ……の、監視官、様」
明確に眉が寄り、続く言葉が喉の奥で止まる。
呼ばれるのも不快になったのかもと揺れた肩に対し、小さな溜め息は耳先を擽って跳ねさせる。
「…………ヴァルツだ」
「え……?」
「屋敷の中ならともかく、監視官では他の者と区別がつかない。私のことは名で呼びなさい」
言いながらも眉は寄ったままで、しかし目は優しくて。その方が嫌ではないのかと思いながらも、呼べと言われて逆らうことはない。
「あ……ありがとうございます。ば、ルツ、様」
馴染みのない発音を舌で転がして、うまく言えず。
だが、それに対して嫌な顔はされなくて。態度と表情の矛盾に、ドブの理解は追いつかないまま。
「先も言ったが、これはお前の権利だ。礼を言われることはしていない。……私は仕事に戻るが、あとのことはここにいるセバスに任せている」
背後に立った男が笑い、お辞儀を一つ。ドブも倣って頭を下げれば、ヴァルツは既に扉の前へ行っていたところ。
「あ、あの」
「なんだ」
保護されているだけ。ご主人様ではない。それでも呼び止めてしまったのは、きっと言うべきだと思ったからだ。
その理由をドブはわからずとも。それが正しいのか、わからなくても。
「……い、ってらっしゃい、ませ」
「…………ああ」
長い沈黙は、結局正しかったかを量るには足らず。扉は閉まり、遠ざかっていく足音が聞こえなくなって……それから、近づいてきた音へ向き直る。
見上げた灰色の瞳は、しゃがんだことでドブと同じ視線へ。目元の皺はより深く刻まれ、口に浮かぶのは柔らかな笑顔。
「申し遅れました、私はヴァルツ様にお仕えしている執事のセバスと申します」
「セバス、様」
「私の事は呼び捨てで構いません。他のメイドも同様に、お気軽にお呼びください」
「それは……」
「さて!」
執事、とは言ってもヴァルツに仕えているのなら、ドブよりも身分が高い。
所有物として迎えられたのではなくても、そんなことはできない。
だが、首を振るよりも先ににっこりと微笑まれ。強く張り上げた声に、否定の言葉も出てこないまま。
「お医者様が来るまでまだ時間がありますので、先にお食事にいたしましょうか」
もちろん、その提案に対しても、ドブが首を振ることはできなかったのだ。
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