12 / 28
12.長い夢
しおりを挟む
ひたり、ひたり。
耳を澄ませても聞こえるのは、自分の足と床が触れ合う音だけ。
隙間から吹き込む風の音も、闇夜に紛れる獣の声も、寒さに震えて軋む骨の音だって聞こえない。
窓から見える景色は真っ暗で、まだ朝が遠いことも、今起きているのはドブだけだということも分かっている。
トイレの位置はセバスに教えてもらったが、そこから与えられた部屋に戻る道を思い出せず。こうして彷徨い、何分経っただろう。
人の気配がしたなら教えてもらえたが、眠っているのを起こせたかと言えば否定するしかなく。朧気な記憶を辿り、冷えた素足が繰り返し地面に触れる。
動かす足も、壁に触れる腕も、全身がいつも以上に重たくて怠い。どんなに仕事を言いつけられた時でも、ここまでではなかったのに。
それでも頭の中だけは痛いほどに鮮明で、どれだけ目を閉じても眠れず。そうして、今はこうして歩き続けている。
薄暗い天井も、柔らかなベッドも、寒くない部屋も。何もかもが信じられなくて、落ち着かない。
『お食事』と言って渡された白いモノだって。あんなに温かくて、柔らかい食べ物があるなんて知らなかった。
パンかゆです、とセバスには教えられたが、固くて冷たい、叩くと痛いパンしか知らないドブには衝撃でしかなかった。
ご飯だけではない。お風呂も、服も、見えるもの聞くもの全部、ドブにとっては初めてのものばかり。
まるで夢のようで……でも、実際に夢なのだろうと。心の奥に広がるモヤモヤとした気分から解放されない。
そう。眠れないのではなく、ドブは眠りたくないのだ。
触感も、嗅覚も、聞こえるものも。全部が現実に近いのに、どうしても受け止めきれない。
物心ついた時からずっと、ドブは混血だと蔑まれてきた。
醜く、汚い。兎としての価値などない。みっともなく縋り付いて生きるしかできない、なり損ない。
重なり合うのは、怒鳴り声と、自分を嗤う声。可哀想にと蔑んで、最後には決まって混血だからと言われて。
それがドブにとっての日常で、慣れているから傷付いていないと言い聞かせて。そうして、本当にそうなってしまったほどに繰り返してきた。
それが突然、混血でも価値があるのだと言われ、本当は保護されるべきだったと言われて。そうして、今ここにいることも。やっぱり、ドブには夢としか思えなかったのだ。
夢ならば、いつかは醒める。
どれだけ続いてほしいと思っても、どれだけ起きたくないと思っても。朝になって、誰かがドブを起こしに来てしまえば、もう夢の中には戻れない。
温かいと思うほどにその瞬間が怖くなって、眠らなければ起きないのではないかと、そんな希望に縋って。
あり得ないことはわかっているのに、眠るのが怖くて。また一つ音が響く。
……いや、ドブに届いたのはもう一つ。
ピクリと揺れた耳が捉えたのは、何かを書くような音。紙とペン。オーナーが、書類というものを書くときと同じ音。
誰かが、まだ起きているのだ。メイドと呼ばれた彼女たちか、それともセバスさんか。これだけでは分からなくても、人がいるのなら聞くことができる。
夢の中でも、勝手に出歩くべきではないだろう。
見つかれば怒られてしまうかもしれないが、このまま部屋が分からずに歩き続けていれば結局は一緒。
音を辿り、辿り着いた部屋を確かめて。扉を開けるときのマナーを知らないと、伸ばした手が固まる。
外から声をかければ、他の人を起こしてしまうかもしれない。でも、もし忙しいのに邪魔をしてしまったら?
悩み、考え。立ち去ることはできずに、小さく扉を開けて中を窺う。
音を立てないようにと思ったのに、微かに軋む音に心臓が跳ねて。中途半端に開いた隙間は、中を見るには狭すぎるもの。
閉じるか、開くか。混乱するドブの頭は、腕が軽く引っ張られたことで真っ白になってしまった。
正しくは引っ張られたのではなく、掴んだままのノブが扉と共に動いたせい。
「――ぁ、」
見開いたのは、蒼と黒の双方とも。そのどちらも、いると思わなかった相手に対して。
片方は硬直し、片方は見開いたまま。見上げ、見下ろし。
先に動いたのは、中から出てきたヴァルツの方だった。
「……どう、した?」
掠れた声に耳だけでなく、肩も心臓も跳ねて。思わず押さえた胸元は、早鐘を打ったまま戻らない。
覗き込むヴァルツの後ろ。見えた机と、紙が積まれた様に邪魔をしたと理解し、謝罪しなければならない口を動かせずに、指先だけに力が籠もる。
焦るほどに真っ白になるドブに向けられるのは、呆れでも怒りでもなく、少し緩んだ蒼い光。
「起きたのか。……身体の調子は? 苦しいところや、痛いところは」
「あ……だ、いじょうぶ、です。……お邪魔をして、申し訳ありません」
下げようとした頭は、肩に触れられて動かず。絡む蒼から目を下げてしまったのは、せめてもの謝罪の現れ。
伝わる温度に少しずつ力が抜けて、小さな深呼吸も、静かなこの空間ではよく響いてしまう。
「トイレに、行ったら……部屋に、戻れなく、なって……」
「ああ、無理もない。……こっちだ」
離れた熱を惜しむ間もなく、部屋からでたヴァルツが廊下へ進む。
そのまま後ろをついていこうとして、重々しい足音が数歩進んだところでピタリ、止まる。
「……そうだった。まだ靴を用意できていなかったな」
「? あの……」
視線は足元に。冷たい床に触れ、赤くなった肌に残るのは無数の小さな傷。
ずっと素足で暮らしてきたのを考えれば、冷たいのはドブにとって当たり前のこと。
尖った石で傷付かないだけ、仲介所よりはずっといいと思っているが。そう思っているのはドブだけらしい。
狭まった眉は不快を現し、見たくなかったのかと隠そうとして……それよりも先に、足が地面から離れる。
「うわっぁ……!?」
「冷えているな。……すまない。明日にはいくつか用意させる」
抱き上げられたと気付いたのは、その逞しい腕に包まれてから。膝裏を支えられ、進む足取りはドブよりも強く早い。
どうして抱き上げられたかわからず、でも降ろしてほしいとも言えず。トクトクと響く鼓動が聞こえてしまえば、思わず耳を傾けてしまう。
温かくて、心地良くて。……ずっと、忘れたくない音。
大人しく抱かれるドブを男はどう思ったか。その間も迷い無く進んだ足は、あっという間に与えられた部屋の元へ。
出てきたままで乱れたベッドに降ろされ、背中に与えられるのは慣れない柔らかさ。
「申し訳、ありません」
「謝ることはない、部屋の位置は過ごしているうちに覚えていくだろう。……寒くはないか」
「大丈夫、です。ありがとうございました」
部屋を出たのは大分前。シーツに残っていた体温も冷め切って、温かいとは言えない。
それでも、あの物置にいたころに比べればマシだと首を振る。なにより、これ以上ヴァルツに迷惑をかけたくはなかった。
上からシーツをかけられ、また見慣れない天井と向き合う時間が始まると思ったが、覗き込む蒼はドブの視界に入ったまま。
「あの……?」
「……眠れないのか」
問いかけではない。確信をもった響きに耳が揺れる。
シーツに隠れた指をぎゅっと握り込んで、咄嗟に出たのは謝罪の言葉。
「あ……も、うしわけ……」
「謝るな、責めてはいない。……お前にとって、今日はあまりにたくさんのことが起きた。眠れなくて同然だろう」
身体が一段と沈んだのは、ヴァルツがベッドに腰掛けたからだ。
それだけで感じていた冷たさがなくなったように思えて、再び合わせた蒼は、思っていた通り温かなもの。
だが、込みあげるのは温かいばかりではなく。彼の手を煩わせているという罪悪感も。
「……すみ、ません」
「謝る必要はないと……」
「違うんです。……眠りたく、ない、んです」
そう思っているから眠れないのだと。諦めてしまえば眠れるのだと。だから、悪いのは自分なのだと。
打ち明けた言葉に眉は寄らず、蒼は一つ瞬くだけ。
「なぜ?」
「……眠ったら、夢が、終わるから」
口にすれば、本当にそうだと思えて。より目蓋を閉じる恐怖が込みあげる。
何もかもが都合のいい夢で、やっぱり自分はあの冷たい、狭い、物置に一人きりで。
兎と言われることはなくて。愛されるわけがなくて。
本当のことなのに。それが現実のはずなのに。やっぱり夢から覚めたくないと願ってしまう。
「ここが夢だと?」
「すいません、でも、そうとしか……思えなくて……」
馬鹿馬鹿しいと言われるだろうか。それとも、夢ではないと慰められるのだろうか。
どちらも、ドブが想像できること。何を言われたって、夢からは覚めてしまうのに。いつか、朝は来てしまうのに。
「夢だと思うなら、したいことを言ってみるといい」
「……え?」
「夢なら好きにできるだろう。お前にも叶えたいことがあるんじゃないのか」
だが、実際に聞こえたのは、ドブの予想していなかったこと。
叶えたいこと、なんて。もう既に叶えられているのに。
温かいご飯も、寒くない場所も、兎と呼ばれることも。全部。
「どこかへ行ったり、何かを食べるのは今からだと難しいが……言うだけなら自由だし、夢が続けば叶えることもできる。何か望みはあるか」
行きたい場所も、食べたいものも、思い浮かばない。もう十分、ドブは与えられている。
でも、もしもらえるのなら。本当に夢で、願ってもいいのなら。
「な……まえを……」
「名前?」
「私の、名前を……ヴァルツ様に、つけてほしいです」
呼吸が乱れる音が鼓膜を叩いて、やっぱり、願ってはいけなかったのだと突きつけられる。
「……それは」
「ご主人様ではないことは理解しています。でも、僕を受け入れてくれる人はいないと分かっているので……す、みません、ご迷惑、ですよね」
シーツを手繰り寄せ、顔まで覆う。もう一度、あの蒼を見上げる勇気はなかった。
最後の最後に、現実を突きつけられて夢から覚めたくはない。
分かっていても。分かっていたとしても。……ここが、夢だからこそ。
「お時間をとらせて申し訳ありませんでした。ちゃんと眠りますので、ヴァルツ様は――」
「ノアール」
隠しきれなかった耳が跳ねる。耳慣れない響きは、でも、特別な意味をもつ言葉には聞こえなかった。
それはまるで、人の名前のようで。
「のあー、る?」
「美しい黒という意味だ。お前のその毛色は、醜くも汚くもない。……お前の瞳と同じ、綺麗な色だ。安直に与えられた名なら、同じく安直な意味で塗り替えればいい」
チカチカと、目の前で光が散る。蒼が煌めいて、温かくて、眩しくて。
名前。自分の、名前。
与えられると思っていなかった、自分の。自分だけの、名前。
「の、あーる」
「……言っておくが、私に名付けのセンスはない。気に入らないのなら他に考えるが――」
「のあーる。のあーる。……ノアール」
何度も何度も繰り返して、その響きを忘れないように刻み込む。
兎にとって、名前を与えられることは特別なことだ。主人に迎えられ、愛される資格を得た兎だけが与えられる、唯一のもの。
ヴァルツは飼い主ではない。保護しているだけで、いつかその元を離れなくてはいけない。そうでなくてもこれは夢で、現実ではなくて。
そうだと分かっていても、込みあげる感情を抑えられない。
名前。自分の。自分だけの。この人がつけてくれた、一つだけの。
みすぼらしいと、哀れだと、汚いと。そう呼ばれ続けていた自分に、この人は……こんなにも、綺麗な響きを与えてくれた。
美しいのだと、言ってくれた。
「ぼ、くの、なまえ……っ」
視界が涙でにじんで、息が苦しくて。だけど、嬉しくて、温かくて。
かき集めたシーツを頭に押しつけてもしゃっくりが止まらず、ようやく出せた言葉だって、歪なもの。
「あ、りが、とっ……ご、ざいます……!」
ああ、もし夢が覚めて。全部が夢で。やっぱり、何も変わっていなくたって。
自分はこの感情だけで生きていける。この名前を与えられた喜びだけで、きっと生きていける。
だって……それこそが、ドブが。ノアールが欲しかった、たった一つの物だったのだから。
「……気に入ったのならいい」
肩に触れる手が。かけられる声が。温かくて、優しくて、柔らかくて。
苦しいのに、嬉しくて。やっぱり、覚めたくないと、願ってしまう。
「怖がらずに眠りなさい。……眠っても、お前が思うよりこの夢は長く続くだろうから」
怖くなくなるまで傍にいると、そう囁く声は、泣き続けるノアールの耳にも確かに届いていた。
◇ ◇ ◇
小鳥が朝を唄い、新しい一日の始まりを告げる中。身だしなみを整えた男がそっと、扉を開く。
ノックをしないのは、まだ起こすには早すぎる時間であるからこそ。
昨日医者に言われたとおり、熱が出ていないかを確認するだけだったが……そこに、思わぬ影を見つけたセバスの目が瞬く。
「……おやおや」
安らかに眠る、兎の青年の隣。見守っている間に寝落ちたのだろう主人を見るセバスの顔は、幼い子どもを見守るように微笑ましいものだった。
耳を澄ませても聞こえるのは、自分の足と床が触れ合う音だけ。
隙間から吹き込む風の音も、闇夜に紛れる獣の声も、寒さに震えて軋む骨の音だって聞こえない。
窓から見える景色は真っ暗で、まだ朝が遠いことも、今起きているのはドブだけだということも分かっている。
トイレの位置はセバスに教えてもらったが、そこから与えられた部屋に戻る道を思い出せず。こうして彷徨い、何分経っただろう。
人の気配がしたなら教えてもらえたが、眠っているのを起こせたかと言えば否定するしかなく。朧気な記憶を辿り、冷えた素足が繰り返し地面に触れる。
動かす足も、壁に触れる腕も、全身がいつも以上に重たくて怠い。どんなに仕事を言いつけられた時でも、ここまでではなかったのに。
それでも頭の中だけは痛いほどに鮮明で、どれだけ目を閉じても眠れず。そうして、今はこうして歩き続けている。
薄暗い天井も、柔らかなベッドも、寒くない部屋も。何もかもが信じられなくて、落ち着かない。
『お食事』と言って渡された白いモノだって。あんなに温かくて、柔らかい食べ物があるなんて知らなかった。
パンかゆです、とセバスには教えられたが、固くて冷たい、叩くと痛いパンしか知らないドブには衝撃でしかなかった。
ご飯だけではない。お風呂も、服も、見えるもの聞くもの全部、ドブにとっては初めてのものばかり。
まるで夢のようで……でも、実際に夢なのだろうと。心の奥に広がるモヤモヤとした気分から解放されない。
そう。眠れないのではなく、ドブは眠りたくないのだ。
触感も、嗅覚も、聞こえるものも。全部が現実に近いのに、どうしても受け止めきれない。
物心ついた時からずっと、ドブは混血だと蔑まれてきた。
醜く、汚い。兎としての価値などない。みっともなく縋り付いて生きるしかできない、なり損ない。
重なり合うのは、怒鳴り声と、自分を嗤う声。可哀想にと蔑んで、最後には決まって混血だからと言われて。
それがドブにとっての日常で、慣れているから傷付いていないと言い聞かせて。そうして、本当にそうなってしまったほどに繰り返してきた。
それが突然、混血でも価値があるのだと言われ、本当は保護されるべきだったと言われて。そうして、今ここにいることも。やっぱり、ドブには夢としか思えなかったのだ。
夢ならば、いつかは醒める。
どれだけ続いてほしいと思っても、どれだけ起きたくないと思っても。朝になって、誰かがドブを起こしに来てしまえば、もう夢の中には戻れない。
温かいと思うほどにその瞬間が怖くなって、眠らなければ起きないのではないかと、そんな希望に縋って。
あり得ないことはわかっているのに、眠るのが怖くて。また一つ音が響く。
……いや、ドブに届いたのはもう一つ。
ピクリと揺れた耳が捉えたのは、何かを書くような音。紙とペン。オーナーが、書類というものを書くときと同じ音。
誰かが、まだ起きているのだ。メイドと呼ばれた彼女たちか、それともセバスさんか。これだけでは分からなくても、人がいるのなら聞くことができる。
夢の中でも、勝手に出歩くべきではないだろう。
見つかれば怒られてしまうかもしれないが、このまま部屋が分からずに歩き続けていれば結局は一緒。
音を辿り、辿り着いた部屋を確かめて。扉を開けるときのマナーを知らないと、伸ばした手が固まる。
外から声をかければ、他の人を起こしてしまうかもしれない。でも、もし忙しいのに邪魔をしてしまったら?
悩み、考え。立ち去ることはできずに、小さく扉を開けて中を窺う。
音を立てないようにと思ったのに、微かに軋む音に心臓が跳ねて。中途半端に開いた隙間は、中を見るには狭すぎるもの。
閉じるか、開くか。混乱するドブの頭は、腕が軽く引っ張られたことで真っ白になってしまった。
正しくは引っ張られたのではなく、掴んだままのノブが扉と共に動いたせい。
「――ぁ、」
見開いたのは、蒼と黒の双方とも。そのどちらも、いると思わなかった相手に対して。
片方は硬直し、片方は見開いたまま。見上げ、見下ろし。
先に動いたのは、中から出てきたヴァルツの方だった。
「……どう、した?」
掠れた声に耳だけでなく、肩も心臓も跳ねて。思わず押さえた胸元は、早鐘を打ったまま戻らない。
覗き込むヴァルツの後ろ。見えた机と、紙が積まれた様に邪魔をしたと理解し、謝罪しなければならない口を動かせずに、指先だけに力が籠もる。
焦るほどに真っ白になるドブに向けられるのは、呆れでも怒りでもなく、少し緩んだ蒼い光。
「起きたのか。……身体の調子は? 苦しいところや、痛いところは」
「あ……だ、いじょうぶ、です。……お邪魔をして、申し訳ありません」
下げようとした頭は、肩に触れられて動かず。絡む蒼から目を下げてしまったのは、せめてもの謝罪の現れ。
伝わる温度に少しずつ力が抜けて、小さな深呼吸も、静かなこの空間ではよく響いてしまう。
「トイレに、行ったら……部屋に、戻れなく、なって……」
「ああ、無理もない。……こっちだ」
離れた熱を惜しむ間もなく、部屋からでたヴァルツが廊下へ進む。
そのまま後ろをついていこうとして、重々しい足音が数歩進んだところでピタリ、止まる。
「……そうだった。まだ靴を用意できていなかったな」
「? あの……」
視線は足元に。冷たい床に触れ、赤くなった肌に残るのは無数の小さな傷。
ずっと素足で暮らしてきたのを考えれば、冷たいのはドブにとって当たり前のこと。
尖った石で傷付かないだけ、仲介所よりはずっといいと思っているが。そう思っているのはドブだけらしい。
狭まった眉は不快を現し、見たくなかったのかと隠そうとして……それよりも先に、足が地面から離れる。
「うわっぁ……!?」
「冷えているな。……すまない。明日にはいくつか用意させる」
抱き上げられたと気付いたのは、その逞しい腕に包まれてから。膝裏を支えられ、進む足取りはドブよりも強く早い。
どうして抱き上げられたかわからず、でも降ろしてほしいとも言えず。トクトクと響く鼓動が聞こえてしまえば、思わず耳を傾けてしまう。
温かくて、心地良くて。……ずっと、忘れたくない音。
大人しく抱かれるドブを男はどう思ったか。その間も迷い無く進んだ足は、あっという間に与えられた部屋の元へ。
出てきたままで乱れたベッドに降ろされ、背中に与えられるのは慣れない柔らかさ。
「申し訳、ありません」
「謝ることはない、部屋の位置は過ごしているうちに覚えていくだろう。……寒くはないか」
「大丈夫、です。ありがとうございました」
部屋を出たのは大分前。シーツに残っていた体温も冷め切って、温かいとは言えない。
それでも、あの物置にいたころに比べればマシだと首を振る。なにより、これ以上ヴァルツに迷惑をかけたくはなかった。
上からシーツをかけられ、また見慣れない天井と向き合う時間が始まると思ったが、覗き込む蒼はドブの視界に入ったまま。
「あの……?」
「……眠れないのか」
問いかけではない。確信をもった響きに耳が揺れる。
シーツに隠れた指をぎゅっと握り込んで、咄嗟に出たのは謝罪の言葉。
「あ……も、うしわけ……」
「謝るな、責めてはいない。……お前にとって、今日はあまりにたくさんのことが起きた。眠れなくて同然だろう」
身体が一段と沈んだのは、ヴァルツがベッドに腰掛けたからだ。
それだけで感じていた冷たさがなくなったように思えて、再び合わせた蒼は、思っていた通り温かなもの。
だが、込みあげるのは温かいばかりではなく。彼の手を煩わせているという罪悪感も。
「……すみ、ません」
「謝る必要はないと……」
「違うんです。……眠りたく、ない、んです」
そう思っているから眠れないのだと。諦めてしまえば眠れるのだと。だから、悪いのは自分なのだと。
打ち明けた言葉に眉は寄らず、蒼は一つ瞬くだけ。
「なぜ?」
「……眠ったら、夢が、終わるから」
口にすれば、本当にそうだと思えて。より目蓋を閉じる恐怖が込みあげる。
何もかもが都合のいい夢で、やっぱり自分はあの冷たい、狭い、物置に一人きりで。
兎と言われることはなくて。愛されるわけがなくて。
本当のことなのに。それが現実のはずなのに。やっぱり夢から覚めたくないと願ってしまう。
「ここが夢だと?」
「すいません、でも、そうとしか……思えなくて……」
馬鹿馬鹿しいと言われるだろうか。それとも、夢ではないと慰められるのだろうか。
どちらも、ドブが想像できること。何を言われたって、夢からは覚めてしまうのに。いつか、朝は来てしまうのに。
「夢だと思うなら、したいことを言ってみるといい」
「……え?」
「夢なら好きにできるだろう。お前にも叶えたいことがあるんじゃないのか」
だが、実際に聞こえたのは、ドブの予想していなかったこと。
叶えたいこと、なんて。もう既に叶えられているのに。
温かいご飯も、寒くない場所も、兎と呼ばれることも。全部。
「どこかへ行ったり、何かを食べるのは今からだと難しいが……言うだけなら自由だし、夢が続けば叶えることもできる。何か望みはあるか」
行きたい場所も、食べたいものも、思い浮かばない。もう十分、ドブは与えられている。
でも、もしもらえるのなら。本当に夢で、願ってもいいのなら。
「な……まえを……」
「名前?」
「私の、名前を……ヴァルツ様に、つけてほしいです」
呼吸が乱れる音が鼓膜を叩いて、やっぱり、願ってはいけなかったのだと突きつけられる。
「……それは」
「ご主人様ではないことは理解しています。でも、僕を受け入れてくれる人はいないと分かっているので……す、みません、ご迷惑、ですよね」
シーツを手繰り寄せ、顔まで覆う。もう一度、あの蒼を見上げる勇気はなかった。
最後の最後に、現実を突きつけられて夢から覚めたくはない。
分かっていても。分かっていたとしても。……ここが、夢だからこそ。
「お時間をとらせて申し訳ありませんでした。ちゃんと眠りますので、ヴァルツ様は――」
「ノアール」
隠しきれなかった耳が跳ねる。耳慣れない響きは、でも、特別な意味をもつ言葉には聞こえなかった。
それはまるで、人の名前のようで。
「のあー、る?」
「美しい黒という意味だ。お前のその毛色は、醜くも汚くもない。……お前の瞳と同じ、綺麗な色だ。安直に与えられた名なら、同じく安直な意味で塗り替えればいい」
チカチカと、目の前で光が散る。蒼が煌めいて、温かくて、眩しくて。
名前。自分の、名前。
与えられると思っていなかった、自分の。自分だけの、名前。
「の、あーる」
「……言っておくが、私に名付けのセンスはない。気に入らないのなら他に考えるが――」
「のあーる。のあーる。……ノアール」
何度も何度も繰り返して、その響きを忘れないように刻み込む。
兎にとって、名前を与えられることは特別なことだ。主人に迎えられ、愛される資格を得た兎だけが与えられる、唯一のもの。
ヴァルツは飼い主ではない。保護しているだけで、いつかその元を離れなくてはいけない。そうでなくてもこれは夢で、現実ではなくて。
そうだと分かっていても、込みあげる感情を抑えられない。
名前。自分の。自分だけの。この人がつけてくれた、一つだけの。
みすぼらしいと、哀れだと、汚いと。そう呼ばれ続けていた自分に、この人は……こんなにも、綺麗な響きを与えてくれた。
美しいのだと、言ってくれた。
「ぼ、くの、なまえ……っ」
視界が涙でにじんで、息が苦しくて。だけど、嬉しくて、温かくて。
かき集めたシーツを頭に押しつけてもしゃっくりが止まらず、ようやく出せた言葉だって、歪なもの。
「あ、りが、とっ……ご、ざいます……!」
ああ、もし夢が覚めて。全部が夢で。やっぱり、何も変わっていなくたって。
自分はこの感情だけで生きていける。この名前を与えられた喜びだけで、きっと生きていける。
だって……それこそが、ドブが。ノアールが欲しかった、たった一つの物だったのだから。
「……気に入ったのならいい」
肩に触れる手が。かけられる声が。温かくて、優しくて、柔らかくて。
苦しいのに、嬉しくて。やっぱり、覚めたくないと、願ってしまう。
「怖がらずに眠りなさい。……眠っても、お前が思うよりこの夢は長く続くだろうから」
怖くなくなるまで傍にいると、そう囁く声は、泣き続けるノアールの耳にも確かに届いていた。
◇ ◇ ◇
小鳥が朝を唄い、新しい一日の始まりを告げる中。身だしなみを整えた男がそっと、扉を開く。
ノックをしないのは、まだ起こすには早すぎる時間であるからこそ。
昨日医者に言われたとおり、熱が出ていないかを確認するだけだったが……そこに、思わぬ影を見つけたセバスの目が瞬く。
「……おやおや」
安らかに眠る、兎の青年の隣。見守っている間に寝落ちたのだろう主人を見るセバスの顔は、幼い子どもを見守るように微笑ましいものだった。
46
あなたにおすすめの小説
不遇聖女様(男)は、国を捨てて闇落ちする覚悟を決めました!
ミクリ21
BL
聖女様(男)は、理不尽な不遇を受けていました。
その不遇は、聖女になった7歳から始まり、現在の15歳まで続きました。
しかし、聖女ラウロはとうとう国を捨てるようです。
何故なら、この世界の成人年齢は15歳だから。
聖女ラウロは、これからは闇落ちをして自由に生きるのだ!!(闇落ちは自称)
【完結】第三王子は、自由に踊りたい。〜豹の獣人と、第一王子に言い寄られてますが、僕は一体どうすればいいでしょうか?〜
N2O
BL
気弱で不憫属性の第三王子が、二人の男から寵愛を受けるはなし。
表紙絵
⇨元素 様 X(@10loveeeyy)
※独自設定、ご都合主義です。
※ハーレム要素を予定しています。
完結·助けた犬は騎士団長でした
禅
BL
母を亡くしたクレムは王都を見下ろす丘の森に一人で暮らしていた。
ある日、森の中で傷を負った犬を見つけて介抱する。犬との生活は穏やかで温かく、クレムの孤独を癒していった。
しかし、犬は突然いなくなり、ふたたび孤独な日々に寂しさを覚えていると、城から迎えが現れた。
強引に連れて行かれた王城でクレムの出生の秘密が明かされ……
※完結まで毎日投稿します
結婚したけど夫の不倫が発覚して兄に相談した。相手は親友で2児の母に慰謝料を請求した。
佐藤 美奈
恋愛
伯爵令嬢のアメリアは幼馴染のジェームズと結婚して公爵夫人になった。
結婚して半年が経過したよく晴れたある日、アメリアはジェームズとのすれ違いの生活に悩んでいた。そんな時、机の脇に置き忘れたような手紙を発見して中身を確かめた。
アメリアは手紙を読んで衝撃を受けた。夫のジェームズは不倫をしていた。しかも相手はアメリアの親しい友人のエリー。彼女は既婚者で2児の母でもある。ジェームズの不倫相手は他にもいました。
アメリアは信頼する兄のニコラスの元を訪ね相談して意見を求めた。
あと一度だけでもいいから君に会いたい
藤雪たすく
BL
異世界に転生し、冒険者ギルドの雑用係として働き始めてかれこれ10年ほど経つけれど……この世界のご飯は素材を生かしすぎている。
いまだ食事に馴染めず米が恋しすぎてしまった為、とある冒険者さんの事が気になって仕方がなくなってしまった。
もう一度あの人に会いたい。あと一度でもあの人と会いたい。
※他サイト投稿済み作品を改題、修正したものになります
【8話完結】強制力に負けて死に戻ったら、幼馴染の様子がおかしいのですが、バグですか?
キノア9g
BL
目が覚めたら、大好きだったRPGの世界に転生していた。
知識チートでなんとか死亡フラグを回避した……はずだったのに、あっさり死んで、気づけば一年前に逆戻り。
今度こそ生き残ってみせる。そう思っていたんだけど——
「お前、ちょっと俺に執着しすぎじゃない……?」
幼馴染が、なんかおかしい。妙に優しいし、距離が近いし、俺の行動にやたら詳しい。
しかも、その笑顔の奥に見える“何か”が、最近ちょっと怖い。
これは、運命を変えようと足掻く俺と、俺だけを見つめ続ける幼馴染の、ちょっと(だいぶ?)危険な異世界BL。
全8話。
愛を知らない少年たちの番物語。
あゆみん
BL
親から愛されることなく育った不憫な三兄弟が異世界で番に待ち焦がれた獣たちから愛を注がれ、一途な愛に戸惑いながらも幸せになる物語。
*触れ合いシーンは★マークをつけます。
魔法学園の悪役令息ー替え玉を務めさせていただきます
オカメ颯記
BL
田舎の王国出身のランドルフ・コンラートは、小さいころに自分を養子に出した実家に呼び戻される。行方不明になった兄弟の身代わりとなって、魔道学園に通ってほしいというのだ。
魔法なんて全く使えない抗議したものの、丸め込まれたランドルフはデリン大公家の公子ローレンスとして学園に復学することになる。無口でおとなしいという触れ込みの兄弟は、学園では悪役令息としてわがままにふるまっていた。顔も名前も知らない知人たちに囲まれて、因縁をつけられたり、王族を殴り倒したり。同室の相棒には偽物であることをすぐに看破されてしまうし、どうやって学園生活をおくればいいのか。混乱の中で、何の情報もないまま、王子たちの勢力争いに巻き込まれていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる