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18.不調
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ピルツが屋敷に訪れてから、数日が経った。
ヴァルツが言っていた通り仕事も落ち着いてきたのか、最近は夜だけではなく朝食の時間も一緒に過ごせるようになった。
話す内容は夜とほとんど変わらない。だが、会える時間が増えたというだけでノアールは嬉しくて、幸せで。
「身体の調子が悪いのか」
「……え?」
だからこそ、ヴァルツからそう指摘されたのは、ノアールからすれば予想外のことだった。
ようやく慣れてきた朝食の場。ぱち、と瞬いた黒の先。蒼は少しだけ眉を寄せ、顔を上げたノアールを見つめ返している。
「先ほどから進んでいないようだが」
ふわふわのスクランブルエッグに、カリカリに焼かれたベーコン。野菜を好むノアールのために用意された新鮮なサラダと、一番気に入っている白パンだって。
どれも数口しか食べられていないのは元より、そうだと指摘されるまで食べていない自覚がなかったことが最も問題だろう。
これがお喋りに夢中だった結果なら咎めるだけだったが、交わした言葉も多くはない。
ヴァルツが食べ終わるほどの時間が経っていたことに気付き、揺らいだ瞳を彼は見逃さない。
「お腹が痛むか? それとも、どこか気持ち悪いところが?」
「い、痛くありません。気持ち悪いところも、ないです」
心配させてしまったと首を振って、慌てて食べようとしたサラダは、フォークで突いただけで実際には運ばれず。
兎は、嘘を吐いてはいけない。実際、痛みも気持ち悪さもないのだ。
……ただ、純粋にお腹が空いていないだけ。
ずっと重たい何かが腹の奥で膨れているようで。
少しずつなら食べられると思っていたのに、こんなに時間がかかっていたなんて。
「あの、本当になんともなくて……ゆっくり食べようと……」
「セバス」
「手配致します」
部屋を出て行ってしまったセバスから自分の主人に目を戻して、立ち上がっていたことに気付く。
「念のため、医者に診てもらおう」
「だ、大丈夫です! どこも痛くありません!」
ただ食べられないだけでお医者様を呼ぶなんて。そんな大事になるとは思わず、ノアールも立ち上がって首を振る。
「本当に身体はなんともありません。お医者様に見てもらうようなことは何も……」
「数日前から食べてないのはセバスからも聞いている。痛くなくても、何か異常があるかもしれない。自分ではわからないこともあるんだ」
「ですがっ」
「ノアール」
少し低くなった声が耳を揺すり、名を呼ばれたのに心臓がまたギュウと痛くなって、身体が縮こまる。
無意識に身体に沿った尾を握り締めて、地面に落ちた視線を戻すことができない。
本当に、なんともないのに。だけど、今のは口答えしたのと、同じで。
「も……申し訳、ありません……」
「……怒ってはいない。ただ、お前を心配しているだけだ」
屈まれたことで視界に入った顔に逸らしかけた目は、手を握られたことで留まり、再び蒼と絡む。
この手に触れるのも、触れられるのも好きで。……だけど、今は、やっぱり苦しい。
「何も無いと確認できればそれでいいし、もし悪い病気なら治さなければならない。……少し、確かめてもらうだけだ。何も怖いことはしない」
語りかける声は、まだドブと呼ばれていた頃に与えられたものと同じ。
もう怖くはないし、それが本当だともノアールは知っている。
だから、怖くはなくて。ただ、苦しくて、痛くて。
……でも、それが身体のせいではないと分かっているから、迷惑をかけてしまっていることが辛くて。
それでも、言えず。聞くのなんて、もっとできず。今は、こうして頷くのが精一杯。
ヴァルツの表情が和らぐのを見て、間違っていなかったと確かめられただけで十分。
「来るまで時間がかかる。横になっていた方が楽なら部屋に戻ろう」
ベッドに入ってもまた考えてしまうだけで、楽にはなれなくて。
だけど、これ以上ヴァルツの時間を取れないと頷けば、すぐに膝の裏がすくわれ、宙に浮く。
「ヴァ、ヴァルツ様! 自分で歩けます……!」
「いいから大人しくしていなさい」
「でも、お仕事が……」
「医者を待つ時間ぐらいならある。……そもそも、今のお前を放置して行くほど忙しくはない」
余裕ができたとはいえ、まだ忙しいはずだ。
迷惑をかけてしまったことに落ち込んで、それでも分厚い胸から聞こえてくる鼓動の音が心地良くて。
……本当になんともないのに、嘘をついているような気持ちになってしまう。
純粋な兎ではない自分を、こんなに優しくしてくれる。優しくて、温かくて、柔らかいヴァルツ様。
こんな自分でも兎と呼んでくれて。気遣ってくれて。
……それでも、やっぱり。ずっと一緒にはいられないのだ。
ズキズキとした痛みがまた胸の中に広がって、服の上から掴んでも、少しも楽にはならない。
ああ、痛くないなんて、やっぱり嘘を吐いてしまった。
だけど、これは身体が悪いからではなくて、自分が欲張りなせいだ。
温かい場所も、おいしい物も、欲しかった全てを与えてくれた。だから、もうこれ以上を求めてはいけないのだ。
そうだと分かっているのに、なおも求めてしまう自分自身の浅ましさに、胸の痛みは強く増していくばかりだった。
ヴァルツが言っていた通り仕事も落ち着いてきたのか、最近は夜だけではなく朝食の時間も一緒に過ごせるようになった。
話す内容は夜とほとんど変わらない。だが、会える時間が増えたというだけでノアールは嬉しくて、幸せで。
「身体の調子が悪いのか」
「……え?」
だからこそ、ヴァルツからそう指摘されたのは、ノアールからすれば予想外のことだった。
ようやく慣れてきた朝食の場。ぱち、と瞬いた黒の先。蒼は少しだけ眉を寄せ、顔を上げたノアールを見つめ返している。
「先ほどから進んでいないようだが」
ふわふわのスクランブルエッグに、カリカリに焼かれたベーコン。野菜を好むノアールのために用意された新鮮なサラダと、一番気に入っている白パンだって。
どれも数口しか食べられていないのは元より、そうだと指摘されるまで食べていない自覚がなかったことが最も問題だろう。
これがお喋りに夢中だった結果なら咎めるだけだったが、交わした言葉も多くはない。
ヴァルツが食べ終わるほどの時間が経っていたことに気付き、揺らいだ瞳を彼は見逃さない。
「お腹が痛むか? それとも、どこか気持ち悪いところが?」
「い、痛くありません。気持ち悪いところも、ないです」
心配させてしまったと首を振って、慌てて食べようとしたサラダは、フォークで突いただけで実際には運ばれず。
兎は、嘘を吐いてはいけない。実際、痛みも気持ち悪さもないのだ。
……ただ、純粋にお腹が空いていないだけ。
ずっと重たい何かが腹の奥で膨れているようで。
少しずつなら食べられると思っていたのに、こんなに時間がかかっていたなんて。
「あの、本当になんともなくて……ゆっくり食べようと……」
「セバス」
「手配致します」
部屋を出て行ってしまったセバスから自分の主人に目を戻して、立ち上がっていたことに気付く。
「念のため、医者に診てもらおう」
「だ、大丈夫です! どこも痛くありません!」
ただ食べられないだけでお医者様を呼ぶなんて。そんな大事になるとは思わず、ノアールも立ち上がって首を振る。
「本当に身体はなんともありません。お医者様に見てもらうようなことは何も……」
「数日前から食べてないのはセバスからも聞いている。痛くなくても、何か異常があるかもしれない。自分ではわからないこともあるんだ」
「ですがっ」
「ノアール」
少し低くなった声が耳を揺すり、名を呼ばれたのに心臓がまたギュウと痛くなって、身体が縮こまる。
無意識に身体に沿った尾を握り締めて、地面に落ちた視線を戻すことができない。
本当に、なんともないのに。だけど、今のは口答えしたのと、同じで。
「も……申し訳、ありません……」
「……怒ってはいない。ただ、お前を心配しているだけだ」
屈まれたことで視界に入った顔に逸らしかけた目は、手を握られたことで留まり、再び蒼と絡む。
この手に触れるのも、触れられるのも好きで。……だけど、今は、やっぱり苦しい。
「何も無いと確認できればそれでいいし、もし悪い病気なら治さなければならない。……少し、確かめてもらうだけだ。何も怖いことはしない」
語りかける声は、まだドブと呼ばれていた頃に与えられたものと同じ。
もう怖くはないし、それが本当だともノアールは知っている。
だから、怖くはなくて。ただ、苦しくて、痛くて。
……でも、それが身体のせいではないと分かっているから、迷惑をかけてしまっていることが辛くて。
それでも、言えず。聞くのなんて、もっとできず。今は、こうして頷くのが精一杯。
ヴァルツの表情が和らぐのを見て、間違っていなかったと確かめられただけで十分。
「来るまで時間がかかる。横になっていた方が楽なら部屋に戻ろう」
ベッドに入ってもまた考えてしまうだけで、楽にはなれなくて。
だけど、これ以上ヴァルツの時間を取れないと頷けば、すぐに膝の裏がすくわれ、宙に浮く。
「ヴァ、ヴァルツ様! 自分で歩けます……!」
「いいから大人しくしていなさい」
「でも、お仕事が……」
「医者を待つ時間ぐらいならある。……そもそも、今のお前を放置して行くほど忙しくはない」
余裕ができたとはいえ、まだ忙しいはずだ。
迷惑をかけてしまったことに落ち込んで、それでも分厚い胸から聞こえてくる鼓動の音が心地良くて。
……本当になんともないのに、嘘をついているような気持ちになってしまう。
純粋な兎ではない自分を、こんなに優しくしてくれる。優しくて、温かくて、柔らかいヴァルツ様。
こんな自分でも兎と呼んでくれて。気遣ってくれて。
……それでも、やっぱり。ずっと一緒にはいられないのだ。
ズキズキとした痛みがまた胸の中に広がって、服の上から掴んでも、少しも楽にはならない。
ああ、痛くないなんて、やっぱり嘘を吐いてしまった。
だけど、これは身体が悪いからではなくて、自分が欲張りなせいだ。
温かい場所も、おいしい物も、欲しかった全てを与えてくれた。だから、もうこれ以上を求めてはいけないのだ。
そうだと分かっているのに、なおも求めてしまう自分自身の浅ましさに、胸の痛みは強く増していくばかりだった。
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