そうして、『兎』は愛を知る

池家乃あひる

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19.予想外のお誘い

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 指が止まれば、ページの捲る音も当然止まる。
 次いで吐いた息は小さくとも重く、頭に入らない文字の羅列を見つめる黒もまた、暗く重たい。
 誰もいない部屋で静かに文字を追いかけて……もう、何時間経ったのだろうか。
 お医者様に見てもらってから数日。ノアールの予想通り異常がないと言われ、これ以上心配させなくていいと安心しても、その心が晴れることはなかった。
 また心配させてはいけないとご飯も食べているが、胸の奥はやっぱり痛むし、腹の重みも時間と共に増えていくよう。
 体調が良くなるまでは、と先生の授業もしばらく休むように言われてしまった。
 そうしてぼんやりしていると色々考えそうになって、考えないようにと本を読んでいるはずなのに、またこうして意識が逸れてしまう。
 もっと勉強をしなくてはいけないのに。それが、今のノアールの仕事だとヴァルツも言っていたのに。
 早く覚えれば、ヴァルツ様も嬉しいはずで。でも、そうしたらここにはもう、いられなくなってしまう。
 乾いた紙面を撫で、息を落とす。噛み締めた唇から息は漏れず、飲み込んだ感情が胸に影を落とす。
 
 ……求めてはいけないと、分かっていたはずだった。
 ノアールがここにいるのは、保護するため。混血で、本当の兎ではないから、仕方なくここに置いているだけ。
 優しくされているのも仕事のためで、名前をくれたのも仕方なく。
 最初から、全部。ヴァルツはノアールに伝えていたのに。それでも、喜んでしまった自分が悪いのだ。
 名前を与えられて。お話をしてくれて。頭を撫でてくれて。抱き上げてくれて。
 だけど、おやすみなさいの挨拶も、微笑みも、それは兎だからではなく、仕事のためで。
 愛されないことは、最初から分かっていたはずで……でも、浅ましくも、もしかしたら、なんて気持ちがあったのだ。
 兎としてはいられなくても、雑用としてでもここにいられるのではないかと。
 もっと勉強をして、賢くなって。使えると思ってくれれば、愛されなくてもここにいてもいいのだと。
 そんな訳がないのに。
 ヴァルツ様は兎が嫌いで、ここに置いてくれたのは保護するためだと。分かっていた、はずなのに。
 
 ぎゅう、と苦しくなる胸を押さえる。
 考えれば考えるほどに痛くて、それでも考えてしまって、堂々巡り。
 これ以上、ヴァルツにもセバスにも迷惑をかけたくないのに。早く元気にならなければいけないのに。
 そうしなければ、自分としても嫌われてしまうかもしれないから。
 今だって、分かっていたはずの事実を聞いただけでこんなにも苦しいのに。もし、直接あの人の口から言われてしまったら。
 そう考えるだけで、どの時よりも一番胸が苦しくて、痛くて、泣きそうになってしまう。
 これ以上、困らせたくない。だって、もうノアールは十分与えられた。
 温かさも、優しさも、柔らかさも。そして、名前だって。
 だから、もう求めてはいけないのに。そうだと、分かっていたはずなのに。
 あの人のためにも、自分はもっと勉強して、学んで。そうして……ここから、出ていかなくてはいけないのに。
 新しい主人が、もしオーナーのような人だったとしても。それが、ヴァルツ様の役に立つのなら、笑って受け入れなければいけないのに。 

 一向に進まないページに首を振る。外から聞こえる音もないのに集中できないなんて、それこそセバスに怒られてしまう。
 この本はまだ難しすぎたのだと閉じかけて、微かに捉えた足音に耳が揺れる。
 重い靴の音。一定のリズム。近付いてくる足音。
 僅かな期待を抱いて数秒。ノックされた音に肩が跳ねたのは喜びと動揺から。
 
「私だ。入っても?」
「はっ……はい!」

 横目で見た時計は、いつもの帰宅よりも遙かに早いもの。
 身体ごと飛び上がり、向かった扉はノアールが触れるよりも先に開く。その先には当然、ヴァルツの姿が。
 姿を見て、嬉しさと同時にチクチクとした痛みが広がる。
 ああ、また。自分は求めてしまった。

「お、おかえりなさいませ、ヴァルツ様」
「ただいま。調子はどうだ?」
「だ、いじょうぶ、です。……あの、今日はお仕事、早く終わったんですね?」

 早い、と言っても夕食の時間は終わっているし、もう少しすればノアールも眠っていただろう。
 ただ、眠ろうとすればよけいに考えてしまうから、本で紛らわせようとしていただけで……でも、結局ヴァルツに会えば同じこと。

「ああ、あとは執務室でもできることだ。明日が休みになったので、早めに切り上げてきた」
「お休み、ですか……? じゃあ、明日はお屋敷にいらっしゃるんですね?」

 早く帰ってきただけでも嬉しいのに、明日も一緒にいられると聞いて、それだけでノアールの顔がほころんでしまう。
 もちろん、休みと言ってもヴァルツには仕事があり、そばにいられるわけではない。それでも、仕事がある日に比べれば多くの時間を一緒にいられる。
 そう思うだけでノアールの心は弾んで……また、喜んでしまったことに反省する。

「いや、少し出かける予定だ。昼過ぎには屋敷を出る。……本当に、身体の調子は大丈夫か?」
「あ……そう、なんですね。えっと、大丈夫です。ご飯も食べれましたし、どこも悪くありません」

 早とちりだったと落ち込んで、それを気付かれないようにと首を振る。実際、休みの日でも外に行くことはよくあることだ。
 それも仕事なのか、別の用事なのか。どちらにせよ、ノアールのすることに変わりはない。
 飼い主の中には兎を連れ歩く者も多いが、屋敷に囲って出さない者も珍しくはない。
 だが、ノアールは本当の兎ではないし、ヴァルツは飼い主ではない。連れ歩く理由は、最初からないのだ。
 ノアールだって、外に行きたいわけではない。
 ただ、少しでも一緒にいたいというだけで……でも、それを望んではいけないと、欲深い自分を咎める。

「……そうか」

 嘘ではない。出された食事は全て口に入れたし、お医者様が言ったとおり身体はなんともないのだ。
 それでも、ヴァルツの眉は少しだけ寄せられて。この答えは間違っていたのかと、恐れが滲む。

「その、ノアール。私やセバス以外の者と会うのは、まだ怖いか」
「えっと……?」
「いや、言い方が悪かった。屋敷の外で、他の者に会うのは?」

 瞬き、考えて。それから、少しだけ胸がざわめく。
 混血がどう言われているか、ノアールはよく知っている。
 一目でそうとは分からなくても、気付いた後はきっとオーナーや他の兎と同じ目で自分を見てくるだろう。
 怖くないと言えば、それも嘘になってしまうだろう。
 ……だけど、その恐怖は本当に少しだけ。

「あ、の……ヴァルツ様、と、一緒なら」
「本当に? 無理はしていないか?」
「ちょ、っと。怖いです。でも、ヴァルツ様が一緒にいるなら、大丈夫です」

 一人だったら、きっとその場で動けなくなってしまっただろう。
 でも、ヴァルツさえいるのなら。
 混血だと言われても、兎じゃないと言われても。一緒にいられる喜びに比べれば、きっと。
 だから嘘ではないと首を振って。それでも、見つめた眉はもっと深くなって。不安になるノアールへ与えられるのは、表情とは裏腹に柔らかく、優しいもの。

「それなら、明日は一緒に出かけないか」
「え?」
「珍しい植物を見られる場所がある。街から少し離れているが、無人というわけではない。私に話しかけてくる者もいるし、お前に興味を持つ者もいるだろう。心ない言葉をかける者もいないとは限らないが……」

 聞き間違いかと疑って、それが実際に言われた言葉だと理解し、瞬きが増える。
 外に。ヴァルツ様と一緒に。本当の兎じゃないのに。連れていって、もらえる。
 困惑と、それ以上の喜びに頭の中がいっぱいになって。膨らむ毛の一本一本が、まるで自分の指先のよう。

「もし嫌なら――」
「いっ、行きたい! 行きたいですっ! ……あっ」

 思わず声を張り上げて、驚いてしまったヴァルツに慌てて口を押さえ。謝罪しても、また叫びそうになってしまう。
 それこそ、このまま飛び上がってしまいそうなほどに。

「あ、の。嬉しい、です。本当に、すごく……! あの、でも……お仕事は……」
「休みだと言っただろう。それに、お前もここに籠もってばかりでは退屈だろうと思って」
「でも、純粋な兎じゃないのに……」
「……やはり、それを気にしていたのか」

 眉が下がって、困った顔になって。きっと、言ってはいけなかったことだと理解しても、伝えてしまった言葉は戻らない。
 落ちかけた視線は、かがまれたことで合わされて。服を握ろうとした手は、ヴァルツの指に包まれる。

「混血だろうと、純粋な兎だろうと、お前が兎であることには変わりない。……あのオーナーたちに言われた言葉が、まだお前を苦しめていることは分かっている。それでも、お前は兎だと胸を張っていいんだ」

 透き通った蒼が揺れている。
 ああ、これは困っているのではなくて……心配、しているのだ。
 ノアールが傷付けられ、落ち込んでしまうことを。そうさせたくないのだと、伝えようとしている。

「本当に、いいんでしょうか……お勉強も全然……」
「休みだと言っただろう? それはお前もだ、ノアール。普段から頑張っているから、一緒に息抜きをしよう。お前にプレゼントもあるんだ」
「プレゼント……?」

 見守っていたセバスが箱を開け、中から取り出された服に目を開く。
 他の兎が着ているような、フワフワとした生地とは違う。肌が出るところはなくて、兎らしいのは首元で重なったレースぐらい。
 まだノアールに物の価値はわからない。でも、これが特別な服なのは理解できる。
 ヴァルツが着ているのとよく似た黒い服。だけど、アクセントとして差し込まれた色は、間違いなく。

「……ヴァルツ様の、色」
「ノアール?」

 控えめに、だけど間違いなく。見つけた色は、ヴァルツの瞳と同じ蒼。
 本当の兎ではないのに。ヴァルツは、飼い主ではないのに。これも、仕事だと分かっているのに。

「気に入らなかっただろうか」
「い、いいえ! そんなことありません! で、でも……服ならもう、十分頂いているのに」
「与えているのは全部既製品だろう? お前の為にあつらえたんだ。……気に入ったのなら、受け取ってほしい」

 鼓動が強くなる。
 ヴァルツ様が、自分の為に。……自分だけの、為に。

「……ノアール」
「あ……っ」

 視界が滲んだと、そう思った時にはもう涙が溢れていた。
 止めなければ、と思っても止められず。慌てて裾で拭っても、次から次へと流れてしまう。

「っ……ご、ごめ、なさい。すぐ、止めるので……!」
「ほっほっほ。嬉しい涙なら、無理に止める必要はありませんよ」

 朗らかな笑いと、少し乱れた呼吸。両方が鼓膜を揺らして、それからそっと、目を拭うのは柔らかい感触。
 ヴァルツに拭われていると気付いて、余計に溢れてしまう涙に戸惑っているのは、泣いているノアール自身。

「ヴァルツ様とのお出かけも、お洋服も、嬉しかったのでしょう?」
「っ……はい。すごく、すごく、嬉しいですっ……!」
「……そう、か」

 よかったと、そう呟いた顔がやっと笑ってくれて。それを見て、ますます止まらない涙を、何度も丁寧に拭われる。
 ああ、やっぱり温かくて、優しくて。嬉しくて……こんなにも、苦しい。
 外に行けることより、服を贈られたことより。一緒にいられることが。
 この人のそばにいられるだけで、こんなにも満たされてしまう。

「ありがとうございますっ、ヴァルツ様!」
「……明日も、その言葉が聞ければいい」

 頭を撫でられ、ゴロゴロと自分の喉が鳴るのを感じて、苦しいのに嬉しくて。
 ああ。離れたくない。やっぱり、一緒にいたい。
 だけど――ヴァルツ様は僕を、愛してはくれない。
 それが悲しくて、辛くて。だけど、やっぱり、嬉しくて。
 少しでも、この時間が。この幸せが続いて欲しいと、強欲にも願ってしまうのだった。
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