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番など、御免こうむる
「ミリア!」
勢いよく開いた扉に誰も驚かなかったのは、その声が研究室内にも散々響いていたからだ。
だからこそ、突撃してきた男をすぐ制止できたし、呼ばれた女性を他のメンバーが隠すこともできたのだが、それで騒動が収まるわけでもない。
太陽と見紛うほどに輝く金髪と、宝石のように透き通った青の瞳は、このルガリア国の王族である証。
外で待機していた騎士が怯むのはやむを得ない――とは、誰も思っていないし、むしろ苛立ちが募る。
実際、セリカが自国から連れてきた騎士らは職務を全うし、他国の王族にも毅然としている。
彼らへの賞賛と尊敬に比例し、狼狽えるルガリア国の騎士らに、面々には呆れとも苛立ちともとれぬ表情が浮かぶ。
だが、それだけの待遇で招かれている以上、不敬であったとしても罰を与えることはできない。
そもそも、罪に問える男の眼中に、ミリア以外は入っていない。
行く手を塞がれ、グル、と鳴る喉はまさしく獣。
であれば、匿われた少女に対する鋭い視線は、肉食獣が獲物に向けるものと差異ない。
「無礼者! 俺を誰と思っている! 邪魔をするなっ!」
噛み付く勢い。いや、実際にこのまま噛み付いてでも突破しかねない。
耳や尾を除けば人と変わらぬ造形でも、やはり本質は獣と同じなのか。あるいは、これも運命の番とやらが狂わせているのか。
一括りにすると、やれ獣人差別だの迫害だのと抗議されそうだが、それだけのことをしてきたのはどちらだ……と。逃避しかけた思考を引き戻し、立ち上がった影は周囲の誰よりも小さいもの。
「もちろん存じておりますとも。ルガリア国第二王子、レオナルト殿。……こうも毎日押しかけられれば、嫌でも覚えるというものだ」
年の頃はミリアと同じに見えるが、胸元に輝くピンは、王室に仕える者の証。
これだけで彼女――セリカが名実共に認められた存在なのは明らか。
だが、レオナルトにとっては、自らを運命の番と引き剥がす元凶としか映っていない。眼光だけで殺せるのであれば、もう何度彼女は死を迎えていただろうか。
だが、どれだけ殺気を向けられようと、唸られ牙が剥き出しになろうと、正面から受け止める彼女にかすり傷一つ付くこともなければ、恐れを抱かせることもない。
そうでなければ、獣人の研究――もとい、運命の番の研究などやってられないのだ。
「俺の番を返せ!」
「これも毎日申し上げているが、ミリアはあなたの番ではないし、番だとしてもあなたのモノではないので返す必要はない。ついでに言うなら、この部屋に入ることも彼女に近づくことも禁止されているので、出ていくように」
「黙れ! たかが人間が番について口を出すなど!」
「そのたかが人間を番と誤認し、否定しても執拗に追いかけ回すうえに、許可もなく呼び捨てにするのが番に対する扱いとは」
口調は元より、大袈裟に首を振る仕草は王族への態度とは思えない。それも分かった上でしているのだから、より質が悪いと言えるだろう。
本来、王族ともなれば感情の制御はできて当然のこと。
二番目とはいえ、王位継承権を持つのであれば、怒りを抱こうと腹の底に沈め、探り、己の利とする道に繋げるものだ。
こんなあからさまな挑発など軽く流せて当然だが、顔はますます赤くなり、騎士が止めていなければ牙より先に爪で引き裂かれていただろう。
ここまで単純なのは、運命と信じて止まない少女を取り上げられているせいか。
言葉が話せて知能がある分、ある意味獣よりも厄介ではある。
「我が番と貴様のような下等な存在を同列に扱うなど!」
「その下等な存在である我々に要請を送ったのは、他でもない貴国の陛下であったはずだが……まったく、我々の任務に子どものお守りは含まれていなかったはずだが?」
「こ、子どもだと……!?」
「何度忠告しても押しかけ、執拗に女性を追いかけ回し、自らが救援を求めた使者を侮辱する。少しでも常識があるなら、子どもでも分かることだ。となると、第二王子殿は子ども以下ということになるか」
セリカの口調はふざけているように思えるが、これで真面目に考えているのだから、素で性格が歪んでいる。
ついでに言うなら女性らしかぬ口調も、わざとではなく通常運転。
いささか常識は欠如しているが、かといって時と場を誤るほど逸脱もしていない。
すなわち、かしこまる必要がないと判断しているからこそ、この地獄のような現状は作られている。
「王族に対する侮辱である! この無礼者を捕らえよ! 極刑に処す!」
番を取り上げられているうえに、子ども呼ばわり。否、それ以下とまで称され、怒るのもさもありなん。
いよいよ処刑とまで口にしたが、本人の表情は全く変わらない。同室の人間たちがざわめく中、レオナルトの騎士らは目を合わせて困惑するばかり。
「本当に、これでは犬や猫の方がまだ賢いかもしれんな」
その間も何をしている、だの、早くしろ、と喚くレオナルトには、セリカの呟きが聞こえていないのが幸いか。
挑発しておいてひどい言いようであるが、何をしてもしなくても結果は変わらなかっただろう。処罰の名目が、番の監禁に変わるだけだ。
とはいえ、この国の騎士にセリカを捕まえる権利はない。たとえ王族の命令であろうとも、である。
「ルーク、読み上げ」
「はい。ひとつ、ルガリア国王族に対する我らの言動は、すべてルガリア国王の御裁量にて不問とする。ひとつ、派遣団の内に番が存在しても接触は許されぬ。ひとつ、この研究室への立ち入りは王族を含め、許可のない者は例外なく禁ずる」
他にも細かな取り決めはされているが、要するに全て無罪放免というわけである。
他国の派遣団に対して破格の待遇であるのは間違いない。セリカも正確な報奨金までは伝えられていないが、相当の額が動いているだろう。
目的を果たせば、臨時収入と来年の予算も確約済み。研究室を拡大し、欲しかった実験器具と手を出しにくかった素材も手に入る。
それから……と、その夢を実現させるためにも、まずは邪魔者を排除しなければならない。
「そういえば、我々に危害をくわえる場合も即刻帰国していいんだったか。まだ治療の途中だが、処刑とまで言われれば仕方あるまい。すぐに撤収――」
「セリカ殿! 申し訳ございません! すぐ、今すぐに出ていきますので! それだけは何卒!」
どこからすっ飛んできたか。あるいは、最初からそこにいたか。滑り込むように姿を現したのは、なにかしらのお偉い様であろう。
それこそ彼がどの地位で、どれだけの力を持っているか、セリカには興味のないこと。
彼女の中で彼の名前は、第二王子回収係で定着してしまったし、この滞在の間それは変わらないだろう。
力尽くで引き摺り出されたレオナルトを見送り。邪魔さえされなければ留まるという、これまた数日の間に繰り返したセリフを投げかけて。
最後に、何度も頭を下げる男を扉の外に閉め出して、ようやく静寂が訪れる。
とはいえ、それも数秒。室内は溜め息に満たされ、口々に漏れるのは疲労と苛立ちと困惑。その他、様々。
「ローヴェン所長! いくら誓約書があるからって、無茶苦茶ですよ!」
詰め寄ったのはルークだが、似たような視線は周囲からも。
どれもがセリカを心配するものだし、咎めているのも彼女を案じてのことと分かっている。
「すまんな。だが、この国の兵らが役に立たない以上、責任者である私が追い返すのが道理だろう」
「だからといって挑発する必要はないじゃないですか!」
「大いにあるとも! 事例の収集、報復、事実の否定。どれ一つとっても重要だからな。ちゃんと記録しているか?」
「していますけどっ、程度というものが……!」
気が気ではなかった、と。実際に訴えるのは一人でも、部下全員の想いは同じ。
身の安全は保証されているが、相手は運命の番を取り上げられている王族。その気になれば、どんな手を使ってくるか。
それこそ、冤罪をふっかけて番以外を処刑し、あわや戦争に発展してもおかしくはない。
事態は思っている以上に深刻なのだと咎めても、笑って流すばかり。
なにより、この現状がどれほど面倒か、誰よりも理解しているのはセリカ本人なのだ。
まったく以て厄介だと、セリカが溜め息の代わりに漏らしたのは奥に匿われたもう一人の助手の名。
「大丈夫か、ミリア」
男たちの後ろから出てきた姿は、騒動の前に比べて少しやつれている様子。無理もない。この国に来てから始終この調子だ。
危険性から部屋から出ることもできず、ほぼ軟禁状態。
その点はレオナルトの指摘通りであるが、そうさせているのもまたレオナルトとは言うまでもない。
「私は、大丈夫です。申し訳ありません、私のせいで……」
「繰り返すが、今回の件についてお前に落ち度はない。この事態を想定していなかった私の責任だ。たとえ処刑になろうとも、お前は無事に祖国に帰す。もちろん、他の皆もな」
「駄目です! 所長も一緒でなければ!」
「そうですよ! 俺たちだけ帰るなんて、そんなこと!」
「落ち着け落ち着け、もちろん私も帰る前提だ。それこそ、お前たちだけ帰せばどんな結果になるかも分かっている」
とはいえ最悪を考えておくのに越したことはないと、そこまで呟けば収拾がつかないだろう。
所長、と呻く声は冗談に聞こえない発言への恨みか、想定外の問題に対する疲労か。
部下たちには可哀想なことをしているが、このような結果になるとは、誰が想定しただろうか。
あらゆる事態、あらゆる可能性を考慮して挑んだセリカでさえ予見できなかった時点で、答えは否。だからこそ、問題と定義しているのだから。
「獣人の番に対する執着は分かっていたつもりでしたが、あそこまでとは……」
「個人差だろうな。王太子殿下が母君の腹に置いてきたのを、自分の物にしたんじゃないのか?」
「なるほど、一理ある。今回の件が落ち着いたら検証してみるか」
「冗談ですって。……でも、本当に元が兄の感性だっていうなら、それを返してくれれば今すぐ終わるとは思いますけどね」
そもそも、セリカたちがなぜこの国にいるかというと、簡潔に言えば要請に応じたからである。
ルガリア国には現在、二人の王子がいる。
そのうち、王太子には運命の番と呼ばれる、本能により結ばれた伴侶が既に見つかっているという。
自然に出会うのは億の確立。一生出会わないことも不思議ではない。
だからこそ、出会えたならばまさしく運命であると謳ったのはどこの詩人であったか。
そのロマンスさから、巷では運命の番を元にした物語や舞台もあるが、夢とは夢であるからこそ美しいもの。
実際は番なのだからと執拗に交際を迫り、付き纏ったり家まで押しかけたりするのはまだ可愛らしい方。
出会った運命の番が婚姻しているにも関わらず誘拐、監禁。相手の伴侶に危害をくわえ、殺害にまで発展した事例も少なくはない。
一昔前は、運命の番なのだから仕方ないと擁護する声もあったが、少なくともセリカの国では減刑の理由にはならず、等しく裁かれるようになっている。
というよりも、運命の番に関する事例が多すぎるために、ルガリア国には関与しないという決定が出されていた。
獣人の入国も制限され、現在国内にいるのはすでに番が見つかっている者か、身元の確かな保証人がいるなど、正統な許可がある者に限られている。
例外はあるし、運命の番に関係する事件が起きないわけではないが……以前よりも治安が良くなったのは言うまでもない。
話が逸れたが、要するに獣人にとって運命の番は人生を左右する重要な存在であり、唯一無二の存在なのだ。
喜ばしいことに王太子は幼い頃から身分に不足のない相手が番と判明しているし、仲も良好という。相手の女性も非常に優秀で、王太子妃教育も滞りなく終了しているとかなんとか。
だが、今回の問題もまた、その相手絡みである。
そもそも、どうやって番と認識するかといえば、互いのフェロモン――すなわち体臭にて判断することは、セリカが研究する以前から判明していた。
件の番殿は、そのフェロモンが他の獣人に比べても少ない体質らしい。
本来は問題ないし、これまで何もなかった。
だが、全く感じなくなってしまったとなれば話は別。
番関係が解消されたとしてもフェロモンが消える、あるいは感じなくなる例はない。
対外的な方法で一時的に軽減できたとしても、完全に消すことは不可能。ましてや、人間の数倍も嗅覚が鋭い獣人を誤魔化すだけの技術は、まだ存在していない。
どれだけ上塗りしようと、どんな悪臭に紛れ込ませようと、番であればその僅かな匂いを嗅ぎつけてしまうのが獣人だ。
となれば、原因として考えられるのは王太子側の不調。
匂いが感じられないと判明した日の荒れようは、とても見られるものではなかったとは、獣国側の話。
ありとあらゆる治療を試したが、一向に回復する兆しはなし。
単に匂いがしないだけ。番と判明しているなら問題ないが、当人らにとっては世界が終わるほどの絶望である。
目の前にいる存在が番と頭では理解しているのに、匂いがしないせいで身体が拒絶しているという矛盾。番に触れているはずなのに、感じるはずの幸福感も充足感も与えられない。
擬似的に番を失ったのと同じ状況に陥っているといえば、その絶望も理解できるだろう。
番がいるのに番と認識できない。その乖離に耐えきれず、いよいよ王太子は寝台で倒れたままになってしまったという。
このままでは国の存続が危うい――といったところで、番研究者であるセリカが派遣されるに至ったのだ。
もちろん、すんなりとはいかない。これまで獣人によって引き起こされた問題、これまでの獣国の対応を考えても大分渋ったという。
しかし、相手は大国。そして、もし王太子を助けられたなら大きな恩を売る格好の機会。
あらゆる条件によって、渋々セリカたち研究者を遣わせた、ということだ。
もっとも、渋っていたのは国のお偉い方であり、打診された当の本人は貴重な症例だとウキウキでやってきたわけだ。
……とはいえ、そのご機嫌もレオナルトが現れるまでだったが。
「それにしても、ここまで妨害されるとは……国王の命令があるのに、なぜ止めようとしないんでしょうか。明らかに甘やかされている感じはしますけど」
「だからといって、王太子殿下がこれ以上悪化しないように要請したのはこの国では? むしろ進んであの人を通しているとしか思えません」
「まぁ、狙っているのは間違いないな」
向けられる視線など気にも留めていないのか、作業に戻るセリカは大したことがないように続けている。実際、彼女にとって、なんてことはないのだろう。
国があり、兄弟がいれば、当然勢力争いも野心もある。
「仮に回復しなければ、あの男が次の王太子になる。番への興奮状態を除いても、地頭が良くないことは判明済みだ。癇癪持ちで成績も今一つ、気に入らない進言をする者は追いやり、今では耳に優しい者に囲まれているという。野心を持つ者にとっては、これ以上ない傀儡だろう」
馬鹿とナイフは使いようとは言うが、最も面倒なのは権力を持った馬鹿――とまでは口にはしないものの、そう言うことだ。
国を健全に存続させたい王太子派と、この好機に自分らの利を得ようと勢いづく第二王子派。優勢は、時間と共に後者へ傾きかけている。
「国王も相応の年だ。他の候補がいたとして、それまで病気にかからない保証はない。実際、あの男に鞍替えしている者も多いらしいからな。しかも、今なら番という名の正統な伴侶も見つかっている。あとは邪魔者が消えるだけだな」
「やっぱ貴族って怖ぇ~……」
「この国がどうなろうと構わないが、あの男が国王となるのは問題だ。やれ番を返せだの監禁だので戦争をふっかけられる可能性はある」
誰も否定しないのは、獣人の番に対する執着を知っているからだ。
それこそ、冗談だと笑い飛ばせる余地はない。無事に帰れたとしても、後を追ってくるのは想定していた。
彼らにとって、番の奪還は正当な理由となる。
「で、ですが、ミリアは……!」
「説明したところで本能だから仕方ないと開き直っていれば聞き入れん。理解したとて、別の理由で侵略してくるのには変わらない」
見やったミリアの顔は青ざめ、哀れなほどに震えている。
日々求婚を迫られ、番ではないと否定しても聞く耳を持たれず。最悪は戦争になると聞いて平然としていられるほうが稀であろう。
獣人にとって番とは、何においても優先すべき存在。まともな理性があっても、その本能には逆らえないのだ。
ならば、本能のままに動いているあの男であれば……そして、これを機に侵略しようというのであれば、血が流れることは避けられない。
「ど、どうすれば……」
「そう怯えるな、我々のやるべきことは変わらん。王太子殿下には一刻も早く回復していただき、さっさと国を継いでもらうのが最善だ」
「ですが、薬も対症療法も効果はありませんでした。新しく取り寄せている薬草もいつ届くか……」
「どうせそれも妨害されている。もう一つの検証も進めておきたかったが、やむを得ん。あちらが手段を選ばないのなら、こちらにも考えがある」
セリカは根っからの研究者だ。運命の番、という神聖視された概念を解明することに魅入られた、自他認める変わり者。
彼女の発明により運命の番に関連する事件は減少し、大国相手でも対等に渉れるだけの成果も生み出した。
溜め息の長さは、滅多にない症例についての惜しさと比例する。
番と別れたいと願う者。どうしても番に出会いたいと懇願する者。番と思っていた相手が本当は違うと判明した者。あらゆる事例に遭遇し、全てを糧としてきた。
そんな彼女だからこそ、これだけの条件が揃った事例が今後二度と現れないことを理解している。
強引に解決することもできたが、それなりのリスクも伴う。より安全な回復のために、と理由をつけて観察を続けていたのも否定はしない。
レオナルトが喚くだけなら、この決断は下さなかっただろう。
セリカは、自他認める変わり者だ。運命の番という、この世界で神聖化された概念を理屈で解き明かそうとした冒涜者だ。
気が狂っていると言われたことも数えられない。獣人への、非人道的な実験だって、許可さえ降りれば躊躇なくやれるだろう。
……だが自分の可愛い助手がこれ以上被害に遭うことを許容できるほど、セリカは冷酷な人間ではないのだ。
「全員荷物を纏めておけ。明日の朝には発つぞ」
「所長? 一体なにを……」
助手に問われ、振り返ったセリカが笑う。
虚勢でもなく、無理に作られたものでもない。ただ、確信を纏わせ、彼らを安心させる笑みで。
「奥の手、というやつだ」
◇ ◇ ◇
結論から言えば、奥の手の効果は覿面であった。
このまま衰弱していくと思われた王太子は瞬く間に回復し、知らせを受けた婚約者との一時を楽しめるほどだったという。
それが前日の夕方のこと。強硬手段における対償はこの国で解決すべきだと夜通し荷造りを済ませ、なんなら国王への報告も済ませ、宴やら褒賞やらも辞退し、あとは馬車に乗り込むだけだったはずだ。
……とはいえ、そう簡単に終わるわけがない。
「待て! 大罪人め!」
重々しい鎧の音が響いた時には、すでに周囲を取り囲まれていた。
抜剣こそしていないが、到底お見送りとは思えない重装備。咄嗟にミリアを隠したのは、この数日で刷り込まれた習慣のせいか。
動揺していないセリカだけが進み出て、睨み付けるレオナルトと対峙する。
「これは第二王子殿。わざわざ不要と述べたにも関わらず、お見送りいただけるとは。して、あなたの兄君を助けた我々が大罪人とは?」
「黙れ! 我が番と知りながら妨害し、王族への不敬な発言。さらには、我が番を誘拐するとは!」
「ミリアは番ではないと否定しております。また、我々のあらゆる行動は――」
悲鳴は周囲からのみ。胸倉を掴まれた本人は冷静に男を見上げたまま。
「……これが、貴国の、女性に対する態度であると? これでは番が否定したくなるのも当然でしょう」
「貴様の減らず口もここまでだ。貴様には王太子殺害の容疑もかかっている」
あからさまに禍々しい小瓶を突きつけられ、部下の否定は兵士らに押さえられる。
「貴様に貸し与えた部屋から見つかった。使われている薬草は、貴国にしか生息していない猛毒。くわえて、王太子の悪化は貴様らが来たのと同時期。何を言おうとも、貴様の罪は明らか。散々主張していた約定とやらの効力は既になし!」
冤罪なのは明らか。そんな分かりきった怪しい小瓶など知らないと、主張するのは無駄なこと。
理解しているからこそ、セリカの目は細まり、口から否定は出ない。諦めたと認識したレオナルトが鼻で笑い、勝利を確定して兵士らに命じる。
否、命じたはずだった。番と主張するミリア以外は全員、容赦なく。
「――ふはっ、はははっ! あーっははははははっ!」
その高笑いに遮られなければ、だったが。
「しょ、所長……?」
「きっ、聞いたか皆! まさか、こんな馬鹿馬鹿しい手で来るとは! これはさすがに私でもっ、ふっ、よ、予想しなかっ……あはははは! だ、だめだ、面白すぎて笑いが止まらん!」
掴まれていなければ、手を叩いていたか腹を抱えていたか。
誰もが呆気に取られ、場違いな笑いを聞くしかできず。誰よりも先に我に返ったのは、馬鹿馬鹿しいと称された当の男。
「道化の真似ごとか? 無駄だ! 貴様は真っ先に処刑して、」
「急ごしらえの作戦にしてもあまりに杜撰! くくっ……ど、どうせ隔離している間に助手を手籠めにし、子を成したとしてそのまま監禁するつもりだろうが、もっとマシな理由があっただろう? こんな見え見えの嘘! むしろ道化はそちらではないか!」
あー駄目だ苦しいと、斬首よりも先に酸欠で息絶えかねない。
ひぃひぃと喘ぐセリカの顔も赤いが、直球に侮辱されたレオナルトの顔はそれ以上。
この期に及んでまだ暴言を吐かれた怒りか、思考を見透かされた動揺か。はたまた、その両方であるのか。
「はーっ、笑った笑った……馬鹿ついでに繰り返すが、どれだけ主張しようとミリアはあなたの番ではない。絶対にな」
笑いの反動か、響く声は静かだ。まるで子どもに言い聞かせるようで、しかし断言する言葉。
誤解の余地も含ませない。言葉通りなのだと。
「仮に私があなたの番であっても、己の立場を理解せずに本能を言い訳に理性を溶かす馬鹿など御免こうむる。特に、番と主張しながら本物も分からずに喚く馬鹿はな」
「このっ……どこまでも俺を愚弄するか!」
その口に笑みはなく、鼻で笑う音もない。突き刺さる視線だけが、彼女が本気で呆れていると示している。
一層首が絞まろうとも、彼女の理性は崩れない。
それを無謀と呼ぶか、愚かと呼ぶか。目の前の男にとっては、後者でしかなく。
「下等な人間がっ! 番の研究などっ馬鹿馬鹿しい! その地位も所詮は偽りのもの。人間ごときが我らの番を理解するなど、傲慢にもほどがある!」
「いいや、お前より私の方が理解している。何度でも言ってやろう。ミリアは貴様の番ではない!」
「黙れぇっ!」
地面に突き飛ばされ、喉元に剣先が突きつけられる。されど、彼女の瞳は揺るがない。
「所長っ!」
「もういい! この場で切り捨ててやる! 我が番を弄した罪でな!」
「自分が馬鹿にされた腹いせの間違いだろう? あなたの番など、存在しないのだからな!」
「貴様が何と言おうと、ミリアは我が半身! 我が番! 我が唯一! 我が番はミリアただ一人! 他の誰でもないっ!」
振り上げられる剣。誰かの悲鳴。何かが切れる音。
頭の奥、繋がっていた何かがフッと途切れるような。張りつめていた糸が千切れたような。無くなったことで初めて意識した、不可解な感覚。
僅かな喪失感の後に湧き上がるのは、途方もない開放感だ。
僅かに目を見開いたのは二人。そして、この感覚を得たのも同じく、二人のみ。
「――あ、?」
気の抜けた声。揺れる瞳。滑り落ちた剣に続いて、崩れ落ちる身体。
情けなくへたり込んだ男を横目に立ち上がるセリカの顔は、むしろ晴れやかなものだ。
駆け寄る部下に声をかけるのも程ほどに、詳細を書き留める目も眩しいほどに輝いている。
「無茶しすぎですよ所長……!」
「すまんな。だが見ろ、仮説は合っていたぞ! 精査する必要はあるが、これだけ元は取れたようなものだ!」
先ほどまで首を落とされかけていたとは思えないほどに高揚し、惜しみなく笑う様は少女のように無邪気。
大半は呆れ、呆気に取られている。どちらでもないのは、その笑顔を見上げ、崩れ落ちたままのレオナルト。
「な……なぜ……」
口にしながら、理解はしている。単に、受け入れたくないだけだ。
自分を馬鹿にし、番を奪おうとしたこの女が。先ほどまであんなにも憎かったはずの存在が、どうして。
自分の番は確かに、と。まだミリアに縋る目を向ける男を、セリカが見下ろす。
そこに笑みはなく。先ほどと変わらない冷たさがある。違うのは、その視線に男の心臓が抉られるように痛み、悲鳴をあげること。
「確かに、人間である私に番の真髄とやらは理解できんし、残念なことに実際できなかった。理性を手放すほどに求める存在がいることも、この先わからんままだろう。だが、事実を突き止めていけば、いずれ解明はできる」
「そんなはずがない……なぜ、お前が……」
「番なのか、だろう?」
睨み付けたのは、理解しながらも沸く憎悪か。その後に歪む困惑は、己の本能とやらに矛盾した衝動にか。
先ほどまで殺したいほどだった存在を愛おしく思うのと、求めながら反応できないこと。頭と身体の反応が噛み合わない様は、先の王太子と同じ。だが、こちらに至っては、もう治療法はない。
その手段は、レオナルト自ら切り捨てたのだから。
「何度も言っただろう、ミリアは番ではないと。あなたが否定しようと事実は変わらない。それだけの話だ」
「そんなはずがない! 彼女からは番の匂いがっ……!」
何度否定されてもレオナルトが納得しなかったのは、まさにその理由からだ。
番からしか感じないフェロモン。唯一無二の匂い。明らかにミリアから香っていた、甘く香しい、一度嗅げば二度と忘れられない。何者にも勝る幸福感。
なのに、今はその匂いがセリカからしているのに、どれだけ嗅いでも感じない。
番と認識しているのに、番でしか得られない幸せを、感じられない。
「今回の要請にあたって、約定以外にも対策をいくつか施してあった。これも、その一つでな」
「それは……っ……」
「ああ、この距離からでもわかるのか。これは私の匂いを元に作ったモノでな。我々には無臭だが、獣人には嗅ぎ分けられる濃度に調整してある。私に同行した者は全員、これを纏うよう指示してあった」
ポケットから取り出したのは、飾り気のないシンプルな香水瓶だ。揺れる中身を見るよりも先に、レオナルトの目が見開かれる。
この距離からでも分かるのだろう。濃縮された番の香り。番を持つ獣人にとって、毒にも匹敵する魅惑の品。だが、やはり、得られるべき幸福感がない。
こんなにも強く香っているのに。頭では、理解しているのに。
「本来は番がいる者に協力してもらう予定だったが、それはさておき。約定にも関わらず番だと騒がれた場合を想定し、私に矛先が向かうようにする為だったが……まさか、本人を差し置いて別人を番と誤認するとは」
「待て! それではやはり、ミリアが我が番であろう! 貴様の匂いだろうと、私の鼻は真に番をっ!」
「ミリアには既に番がいる。出会ってもう二年目だ」
「……はぇ?」
いい加減否定も飽きたと。吐き捨てるような言葉に漏れた声の、なんと情けない響きか。
それほど想定していなかったのだろう。番がセリカだと本質的に突きつけられた時よりも、よっぽど堪えているように見える。
「言っただろう。この香水は本来は別の者……つまり、ミリアを元に作る予定だった。色々と問題が重なってな。となれば、番がいなくとも責任者である私が身を削るほかあるまい。ああ、ちなみに番を持っていないのは追従した兵士を含めても私だけ。彼女の番は、我が国でも正式に認められた番だ。番が二人いるなら話は別だが……それこそ、あり得ないだろう?」
唯一無二の存在だからこそ、番は特別であり、他に替えはない。
だからこそ求め、欲し、惨事を引き起こす。それが二人いる時点で、番ではない。
「そもそも、何をもって番と認識しているかだが……最も相性のいい存在を本能的に察知していると、我々は暫定している」
「相性、だと?」
「例外こそあるが、男女で番う理由は子孫を次に繋ぐこと。つまり、子作りが最大の目的だ。メスはより強いオスを求め、オスは子を成すメスを求める。人間だと血筋だとか利権だとかも絡むが、本質としては変わらないし、自然の摂理である」
年若い女が、明け透けに性行為を示唆するなど、非難されるだろう。
だが、セリカは当然のように説明を続けるし、それに何の感情も抱いていない。彼女にとって、これは単なる解説以上の意味を持たないのだ。
「だが、身体に個人差があるように子を為しにくい組み合わせも存在する。要するに、本能的に子が生まれやすい最適な相手こそ、運命の番ということだ」
「ふっ、ふざけるな! そんな馬鹿げた理由などっ!」
「ああ、お前たちが神聖視していることについて否定はしないが、魂だとか前世だとか、神に選ばれたよりもよっぽど腑に落ちると思うがね。これまで同性の番が確認されていないことにも説明がつく。本当に魂で定まっているのなら、性別など関係ないはずだからな。……つまり!」
大きく踏み出し、顔を近付け。揺れる瞳を見下ろし、セリカが浮かべるのは満面の笑み。
「本当に魂で繋がっているなら、匂いで誤魔化そうともお前は私が番だと分かったはず。それにも関わらず私の助手を番と誤認したのは、最も顔が好みという俗人間的な理由だということだ! この点では、獣の方がまだ理性的と言えるだろうな!」
「な……っな……!」
「いやいや、しかし理解できるぞ。××××の相手なら、好みの方が望ましいだろうからな。ま、何であれお前が顔で選んだのは事実だし、本来の番との縁も先ほど切れた。全て解決というわけだ!」
「ま、まてっ!」
あっはっは、と清々しい笑いと共に離れようとしたセリカの足を掴むレオナルトだが、引き止めるだけで精一杯なのだろう。
青ざめた顔。滲む脂汗。揺れ続ける瞳。小さな呻きは、込みあげる吐き気を耐えるものだろう。
やはり、獣人と人間ではこれだけの差が生じるのかと、笑顔の裏で考えるのは観察対象に対する思案ばかり。
「番との縁が、切れるはずがない。番とは運命だ! そんなこと、あっていいはずが……!」
「おやおや、下等な人間である私でも分かったのに、番至高主義の獣人が分からんはずがないだろう。ふむ、体温の低下と脈の上昇、頭痛と吐き気もか。ああ、ようやく得た成功例なのに、長期的な観察ができんことが実に惜しい」
さりげなく首に手を添えたのは、脈を測るまでの一瞬。たったそれだけの接触に込みあげる歓喜と、それでも番として反応できない矛盾に内側から掻き混ぜられる不快感。
一層強く香る、セリカ自身の匂い。番だと認識しているのに、どうしても、番から得られる幸福感が感じられない。
「お前は私が来た日からずっとミリアを番だと声にしていた。つまり、その言葉を誰よりも聞いていたのはお前自身だ。人間の頭とは単純でな、何度も繰り返せばそれが真実と思い込むようになる。そして、お前は私が番ではないと自らの口で否定した。その結果、番と認識しているのは間違いだったと認識し、繋がりが切れたというわけだな」
「そんな、そんなこと、あっていいわけ、」
「ああ、私も番の解消に関しては仮説でしかなかったし、あくまでも可能性の一つだ。……が、実際に縁が切れた感覚はあったんだ、記録するに値するだろう。こんな好条件での観察など、二度とないだろうしな。その点については感謝している」
とはいえ、色々と精査をしなければならない。再現は難しい。より確実な方法を、と。口にするセリカは、もう這いつくばる男に興味はないのだろう。
これ以上のデータは得られないと、なおもしがみ付く男を見ることもない。
「王太子殿下の治療も済んだし、あとは陛下たちが何とかするだろう。これ以上長引けば、ダーリンが待ちくたびれてしまう」
「だっ、ダーリン!?」
「失敬、夫と言うべきだったな。可愛らしいから、ついいつものように呼んでしまった。可哀想に、今頃は私の帰りを泣いて待っているだろう。池ができるまえに早く祖国に戻らねば」
「お前の番は私だろう!?」
溜め息は甘く、その瞬間だけを切り取れば年相応の乙女にも見える。
たとえ、その夫が身長二メートルは超える大男で、片手でリンゴどころか岩さえも粉砕できる熊の獣人であろうとも、セリカにとっては可愛いダーリンであるし、今回の話には関係のないこと。
「お前もそう言ったじゃないか! 本当の番だと! 俺が、俺がいるのに、なぜっ!」
「おやおや面白い冗談だ。番ではないと散々否定し、自分から断ち切ったのは他でもないあなた自身ではないか。それとも、この国の王族は番に対して処刑を言い渡すのがプロポーズだと? それなら、ここまで来ても謝罪の一つがないのも納得だな。これに関しては文化の違いであり、私の研究には何の実りもないが」
ただでさえ青白かった顔から色さえ失われていく。
事実、レオナルトはセリカが来国した日から彼女を否定し続けた。
神聖である番を研究していることも、年の若い女がその所長であることも、王族である自分に不遜な対応を取ることも。何より、番である彼女を自分から引き剥がし続けていることも、全てが気に入らなかった。
視界に入るだけで腹が煮え、声を聞くだけで感情が制御できなかった。本気で処刑したいと願い、実行に移そうともした。
その全てを指摘されるまで、謝罪していないことにさえ気付いていなかったのだ。
「ま、待ってくれ……違う、私は、そんなつもりじゃっ……す、すまなかった! もう二度としない! 処刑なんて冗談だ!」
「おや、本当に冗談とは。これは根本的に価値観が違うらしい」
「謝るっ、やり直させてくれ! お前は私の番だ! 私の唯一、私の運命! そっ、そうだ! 何が欲しい!? 金か? 宝石か? 私はこの国の王子だ、お前が望むのなら何だって用意できる! 研究所が欲しいなら、最高の設備だって整えてやる!」
「物覚えの悪い男だ。私は言ったはずだぞ」
足から膝へ、往生際悪くしがみ付く男に向けられるのは、怒りでも呆れでもない。
価値のない研究対象に向ける感情など、あるはずがないのだから。
「お前が番など、御免こうむるとな」
◇ ◇ ◇
「まったく、名前も覚えていないのに番とはな。縁が切れても執着まで切れるわけではないと」
しがみ付いて離れないと思われたレオナルトとの決着は、駆けつけた騎士たちによって収束を迎えた。
なおもセリカが番だと喚き、抵抗する姿を横目に馬車に乗り込んだのが半刻前。
それから凄まじい勢いで手記を綴り、区切りがついたことを示す呟きが漏れ、同乗していた部下たちから漏れたのは安堵と呆れの両方。
「ほんっとうに、無茶しすぎですよ所長……」
「今回こそはダメかと……」
「番の関係が切れるかまでは賭けだったが、あの男が連行されるのは時間の問題だったし、斬りかかられた場合の対処もしてあった」
「それでも無茶しすぎですっ!」
もし彼女になにかあれば、ダーリン……もとい、彼女の夫が何をするか。
それこそ考えるだけでも恐ろしいと、涙を浮かべる部下を宥める本人はあっけらかんとしたものだ。
「というか、どうやって王太子を治療したんですか?」
「説明していなかったか?」
「聞いてません。夜明けまでに荷物を纏めろっていうから徹夜で荷造りして、合流した矢先にアレでしたもん」
本当に今まで意識していなかったのは、彼女の中で既に解決している問題だからだ。
驚異的な集中力を持つが、終わってしまえば重要な点以外は早々に忘れてしまう。
天才故の切り替えと言われれば、納得してしまうだけの才を持っているが、常人からすれば欠点としか言えない。
「嗅覚を壊死させる毒に対し、ひとまずの対処として中和剤を投与していたのは説明したか?」
「聞いてますし知ってます。そうではなくて、どうやって復活させたかですよ」
原因不明と言われた不調は、蓋を開ければただ毒を盛られていただけのこと。
隠し持っていた原液を解明するために研究所で保管していたのも当然のこと。毒による悪化は防いだが、問題は壊死した嗅覚を復活させる方法だ。
長期的な目でみれば、完全とは言わないが日常に支障ない程度には回復しただろう。だが、数ヶ月……下手をすれば数年も拘束されるわけにはいかない。
元の約定では一か月に限られていたが、その間にレオナルトが暴走し、ミリアが犠牲になる可能性もあった。
だが、一時的でも嗅覚を復活させ、番のフェロモンを認識できるようになれば帰国の条件は達成できる。
その最後の関門を、いかにして突破したのか。散々手は尽くしたはずだが……。
「嗅覚は鈍っていたが、完全に死んでいたわけではなかったからな。番としての本能を利用しただけだ」
「……もう少し具体的に」
「ふむ。番としての本能は子作りと言っただろう? だから婚約者殿を呼び出し、彼の目の前で××を××して、その××を――」
「わ゛ぁーーーーーっ!」
誰がそこまで生々しく説明しろと言ったのか。
思わず叫んでしまったルークを誰が責められるだろう。
確かに、本質的に言えば番うのは子作りのため。つまり一番深く結びついているのは性欲とも言える。
その性欲を刺激する意味合いでは、最も合理的で確実ではある。確実ではある、が……!
「具体的にと言っただろう」
「言い方ってもんが! あるじゃないですか!」
「いつまで経っても慣れないな、お前は。そんなに初心では、嫁が来た時に困るぞ」
「余計なお世話ですよっ!」
慣れてたまるかと怒り心頭であるが、理由を聞いたミリアの方は始終涼やかなまま。むしろ納得し、二人のやり取りを眺めているまである。
優秀であることと個人の価値観は、また別の問題なのだ。
「ともかく、本能を刺激された結果、一時的でも仲睦まじい時間を過ごせるほどに回復したんだ。あとは当事者たちで解決するべきだろう」
婚前交渉を誘発し、それにより子どもができたとしても、王太子の命を救うためだったと言い張れば罪には問われない。
それよりも、実際に毒を盛ったレオナルト側の存在を罰する方が重要視されるだろう。
レオナルト本人が関与していたかこそ不明だが、どちらにせよ番を失った獣人は長くはない。
故意的に繋がりを消したのは今回の例が初めてだが、事故や他の要因で番を失い、衰弱してきた者を何人も見てきた。
セリカの見解では、番とは子を成すための効率的な措置だ。
それでも、あんなにも縋り、失ったことを嘆き、やがて死を辿るだろう過程は……子孫を残すだけでは説明できないのも事実。
それに、確かに繋がりが切れる瞬間を、セリカ本人が感じたのだ。
人間側の影響や、無意識下で番との繋がりを示す何かがあったのかもしれない。
まだまだ研究のしがいがあるのは、いいことだ。
「まぁ、今のうちに休むといい。帰ったらやることがたくさんあるからな」
まだ遠い故郷。自分を待ちくたびれているだろう夫を思い浮かべる。
家具の一つや二つの犠牲は覚悟していよう。研究成果に手を出すような躾はしていないから、それ以外ならいくら壊されても買い換えればいい。
それで自分を待っている間の喪失感が少しでも紛らわせるというのなら、ソファーでも椅子でも、よろこんで差し出そうじゃないか。
そうして、自分が帰ってきたと知らせを聞いて。真っ先に駆けつける巨体が、自分を抱きしめながらベソベソと泣く姿が目に浮かぶ。
縋り付き、あなただけだと叫んで。同じ泣き顔でも、本来の番とそうでないはずの夫とを無意識に比べたセリカが笑う。
本当の番に会った、と言えばどんな反応をするのかと。
そんな意地悪を考えるようには見えない、穏やかな笑みで。
勢いよく開いた扉に誰も驚かなかったのは、その声が研究室内にも散々響いていたからだ。
だからこそ、突撃してきた男をすぐ制止できたし、呼ばれた女性を他のメンバーが隠すこともできたのだが、それで騒動が収まるわけでもない。
太陽と見紛うほどに輝く金髪と、宝石のように透き通った青の瞳は、このルガリア国の王族である証。
外で待機していた騎士が怯むのはやむを得ない――とは、誰も思っていないし、むしろ苛立ちが募る。
実際、セリカが自国から連れてきた騎士らは職務を全うし、他国の王族にも毅然としている。
彼らへの賞賛と尊敬に比例し、狼狽えるルガリア国の騎士らに、面々には呆れとも苛立ちともとれぬ表情が浮かぶ。
だが、それだけの待遇で招かれている以上、不敬であったとしても罰を与えることはできない。
そもそも、罪に問える男の眼中に、ミリア以外は入っていない。
行く手を塞がれ、グル、と鳴る喉はまさしく獣。
であれば、匿われた少女に対する鋭い視線は、肉食獣が獲物に向けるものと差異ない。
「無礼者! 俺を誰と思っている! 邪魔をするなっ!」
噛み付く勢い。いや、実際にこのまま噛み付いてでも突破しかねない。
耳や尾を除けば人と変わらぬ造形でも、やはり本質は獣と同じなのか。あるいは、これも運命の番とやらが狂わせているのか。
一括りにすると、やれ獣人差別だの迫害だのと抗議されそうだが、それだけのことをしてきたのはどちらだ……と。逃避しかけた思考を引き戻し、立ち上がった影は周囲の誰よりも小さいもの。
「もちろん存じておりますとも。ルガリア国第二王子、レオナルト殿。……こうも毎日押しかけられれば、嫌でも覚えるというものだ」
年の頃はミリアと同じに見えるが、胸元に輝くピンは、王室に仕える者の証。
これだけで彼女――セリカが名実共に認められた存在なのは明らか。
だが、レオナルトにとっては、自らを運命の番と引き剥がす元凶としか映っていない。眼光だけで殺せるのであれば、もう何度彼女は死を迎えていただろうか。
だが、どれだけ殺気を向けられようと、唸られ牙が剥き出しになろうと、正面から受け止める彼女にかすり傷一つ付くこともなければ、恐れを抱かせることもない。
そうでなければ、獣人の研究――もとい、運命の番の研究などやってられないのだ。
「俺の番を返せ!」
「これも毎日申し上げているが、ミリアはあなたの番ではないし、番だとしてもあなたのモノではないので返す必要はない。ついでに言うなら、この部屋に入ることも彼女に近づくことも禁止されているので、出ていくように」
「黙れ! たかが人間が番について口を出すなど!」
「そのたかが人間を番と誤認し、否定しても執拗に追いかけ回すうえに、許可もなく呼び捨てにするのが番に対する扱いとは」
口調は元より、大袈裟に首を振る仕草は王族への態度とは思えない。それも分かった上でしているのだから、より質が悪いと言えるだろう。
本来、王族ともなれば感情の制御はできて当然のこと。
二番目とはいえ、王位継承権を持つのであれば、怒りを抱こうと腹の底に沈め、探り、己の利とする道に繋げるものだ。
こんなあからさまな挑発など軽く流せて当然だが、顔はますます赤くなり、騎士が止めていなければ牙より先に爪で引き裂かれていただろう。
ここまで単純なのは、運命と信じて止まない少女を取り上げられているせいか。
言葉が話せて知能がある分、ある意味獣よりも厄介ではある。
「我が番と貴様のような下等な存在を同列に扱うなど!」
「その下等な存在である我々に要請を送ったのは、他でもない貴国の陛下であったはずだが……まったく、我々の任務に子どものお守りは含まれていなかったはずだが?」
「こ、子どもだと……!?」
「何度忠告しても押しかけ、執拗に女性を追いかけ回し、自らが救援を求めた使者を侮辱する。少しでも常識があるなら、子どもでも分かることだ。となると、第二王子殿は子ども以下ということになるか」
セリカの口調はふざけているように思えるが、これで真面目に考えているのだから、素で性格が歪んでいる。
ついでに言うなら女性らしかぬ口調も、わざとではなく通常運転。
いささか常識は欠如しているが、かといって時と場を誤るほど逸脱もしていない。
すなわち、かしこまる必要がないと判断しているからこそ、この地獄のような現状は作られている。
「王族に対する侮辱である! この無礼者を捕らえよ! 極刑に処す!」
番を取り上げられているうえに、子ども呼ばわり。否、それ以下とまで称され、怒るのもさもありなん。
いよいよ処刑とまで口にしたが、本人の表情は全く変わらない。同室の人間たちがざわめく中、レオナルトの騎士らは目を合わせて困惑するばかり。
「本当に、これでは犬や猫の方がまだ賢いかもしれんな」
その間も何をしている、だの、早くしろ、と喚くレオナルトには、セリカの呟きが聞こえていないのが幸いか。
挑発しておいてひどい言いようであるが、何をしてもしなくても結果は変わらなかっただろう。処罰の名目が、番の監禁に変わるだけだ。
とはいえ、この国の騎士にセリカを捕まえる権利はない。たとえ王族の命令であろうとも、である。
「ルーク、読み上げ」
「はい。ひとつ、ルガリア国王族に対する我らの言動は、すべてルガリア国王の御裁量にて不問とする。ひとつ、派遣団の内に番が存在しても接触は許されぬ。ひとつ、この研究室への立ち入りは王族を含め、許可のない者は例外なく禁ずる」
他にも細かな取り決めはされているが、要するに全て無罪放免というわけである。
他国の派遣団に対して破格の待遇であるのは間違いない。セリカも正確な報奨金までは伝えられていないが、相当の額が動いているだろう。
目的を果たせば、臨時収入と来年の予算も確約済み。研究室を拡大し、欲しかった実験器具と手を出しにくかった素材も手に入る。
それから……と、その夢を実現させるためにも、まずは邪魔者を排除しなければならない。
「そういえば、我々に危害をくわえる場合も即刻帰国していいんだったか。まだ治療の途中だが、処刑とまで言われれば仕方あるまい。すぐに撤収――」
「セリカ殿! 申し訳ございません! すぐ、今すぐに出ていきますので! それだけは何卒!」
どこからすっ飛んできたか。あるいは、最初からそこにいたか。滑り込むように姿を現したのは、なにかしらのお偉い様であろう。
それこそ彼がどの地位で、どれだけの力を持っているか、セリカには興味のないこと。
彼女の中で彼の名前は、第二王子回収係で定着してしまったし、この滞在の間それは変わらないだろう。
力尽くで引き摺り出されたレオナルトを見送り。邪魔さえされなければ留まるという、これまた数日の間に繰り返したセリフを投げかけて。
最後に、何度も頭を下げる男を扉の外に閉め出して、ようやく静寂が訪れる。
とはいえ、それも数秒。室内は溜め息に満たされ、口々に漏れるのは疲労と苛立ちと困惑。その他、様々。
「ローヴェン所長! いくら誓約書があるからって、無茶苦茶ですよ!」
詰め寄ったのはルークだが、似たような視線は周囲からも。
どれもがセリカを心配するものだし、咎めているのも彼女を案じてのことと分かっている。
「すまんな。だが、この国の兵らが役に立たない以上、責任者である私が追い返すのが道理だろう」
「だからといって挑発する必要はないじゃないですか!」
「大いにあるとも! 事例の収集、報復、事実の否定。どれ一つとっても重要だからな。ちゃんと記録しているか?」
「していますけどっ、程度というものが……!」
気が気ではなかった、と。実際に訴えるのは一人でも、部下全員の想いは同じ。
身の安全は保証されているが、相手は運命の番を取り上げられている王族。その気になれば、どんな手を使ってくるか。
それこそ、冤罪をふっかけて番以外を処刑し、あわや戦争に発展してもおかしくはない。
事態は思っている以上に深刻なのだと咎めても、笑って流すばかり。
なにより、この現状がどれほど面倒か、誰よりも理解しているのはセリカ本人なのだ。
まったく以て厄介だと、セリカが溜め息の代わりに漏らしたのは奥に匿われたもう一人の助手の名。
「大丈夫か、ミリア」
男たちの後ろから出てきた姿は、騒動の前に比べて少しやつれている様子。無理もない。この国に来てから始終この調子だ。
危険性から部屋から出ることもできず、ほぼ軟禁状態。
その点はレオナルトの指摘通りであるが、そうさせているのもまたレオナルトとは言うまでもない。
「私は、大丈夫です。申し訳ありません、私のせいで……」
「繰り返すが、今回の件についてお前に落ち度はない。この事態を想定していなかった私の責任だ。たとえ処刑になろうとも、お前は無事に祖国に帰す。もちろん、他の皆もな」
「駄目です! 所長も一緒でなければ!」
「そうですよ! 俺たちだけ帰るなんて、そんなこと!」
「落ち着け落ち着け、もちろん私も帰る前提だ。それこそ、お前たちだけ帰せばどんな結果になるかも分かっている」
とはいえ最悪を考えておくのに越したことはないと、そこまで呟けば収拾がつかないだろう。
所長、と呻く声は冗談に聞こえない発言への恨みか、想定外の問題に対する疲労か。
部下たちには可哀想なことをしているが、このような結果になるとは、誰が想定しただろうか。
あらゆる事態、あらゆる可能性を考慮して挑んだセリカでさえ予見できなかった時点で、答えは否。だからこそ、問題と定義しているのだから。
「獣人の番に対する執着は分かっていたつもりでしたが、あそこまでとは……」
「個人差だろうな。王太子殿下が母君の腹に置いてきたのを、自分の物にしたんじゃないのか?」
「なるほど、一理ある。今回の件が落ち着いたら検証してみるか」
「冗談ですって。……でも、本当に元が兄の感性だっていうなら、それを返してくれれば今すぐ終わるとは思いますけどね」
そもそも、セリカたちがなぜこの国にいるかというと、簡潔に言えば要請に応じたからである。
ルガリア国には現在、二人の王子がいる。
そのうち、王太子には運命の番と呼ばれる、本能により結ばれた伴侶が既に見つかっているという。
自然に出会うのは億の確立。一生出会わないことも不思議ではない。
だからこそ、出会えたならばまさしく運命であると謳ったのはどこの詩人であったか。
そのロマンスさから、巷では運命の番を元にした物語や舞台もあるが、夢とは夢であるからこそ美しいもの。
実際は番なのだからと執拗に交際を迫り、付き纏ったり家まで押しかけたりするのはまだ可愛らしい方。
出会った運命の番が婚姻しているにも関わらず誘拐、監禁。相手の伴侶に危害をくわえ、殺害にまで発展した事例も少なくはない。
一昔前は、運命の番なのだから仕方ないと擁護する声もあったが、少なくともセリカの国では減刑の理由にはならず、等しく裁かれるようになっている。
というよりも、運命の番に関する事例が多すぎるために、ルガリア国には関与しないという決定が出されていた。
獣人の入国も制限され、現在国内にいるのはすでに番が見つかっている者か、身元の確かな保証人がいるなど、正統な許可がある者に限られている。
例外はあるし、運命の番に関係する事件が起きないわけではないが……以前よりも治安が良くなったのは言うまでもない。
話が逸れたが、要するに獣人にとって運命の番は人生を左右する重要な存在であり、唯一無二の存在なのだ。
喜ばしいことに王太子は幼い頃から身分に不足のない相手が番と判明しているし、仲も良好という。相手の女性も非常に優秀で、王太子妃教育も滞りなく終了しているとかなんとか。
だが、今回の問題もまた、その相手絡みである。
そもそも、どうやって番と認識するかといえば、互いのフェロモン――すなわち体臭にて判断することは、セリカが研究する以前から判明していた。
件の番殿は、そのフェロモンが他の獣人に比べても少ない体質らしい。
本来は問題ないし、これまで何もなかった。
だが、全く感じなくなってしまったとなれば話は別。
番関係が解消されたとしてもフェロモンが消える、あるいは感じなくなる例はない。
対外的な方法で一時的に軽減できたとしても、完全に消すことは不可能。ましてや、人間の数倍も嗅覚が鋭い獣人を誤魔化すだけの技術は、まだ存在していない。
どれだけ上塗りしようと、どんな悪臭に紛れ込ませようと、番であればその僅かな匂いを嗅ぎつけてしまうのが獣人だ。
となれば、原因として考えられるのは王太子側の不調。
匂いが感じられないと判明した日の荒れようは、とても見られるものではなかったとは、獣国側の話。
ありとあらゆる治療を試したが、一向に回復する兆しはなし。
単に匂いがしないだけ。番と判明しているなら問題ないが、当人らにとっては世界が終わるほどの絶望である。
目の前にいる存在が番と頭では理解しているのに、匂いがしないせいで身体が拒絶しているという矛盾。番に触れているはずなのに、感じるはずの幸福感も充足感も与えられない。
擬似的に番を失ったのと同じ状況に陥っているといえば、その絶望も理解できるだろう。
番がいるのに番と認識できない。その乖離に耐えきれず、いよいよ王太子は寝台で倒れたままになってしまったという。
このままでは国の存続が危うい――といったところで、番研究者であるセリカが派遣されるに至ったのだ。
もちろん、すんなりとはいかない。これまで獣人によって引き起こされた問題、これまでの獣国の対応を考えても大分渋ったという。
しかし、相手は大国。そして、もし王太子を助けられたなら大きな恩を売る格好の機会。
あらゆる条件によって、渋々セリカたち研究者を遣わせた、ということだ。
もっとも、渋っていたのは国のお偉い方であり、打診された当の本人は貴重な症例だとウキウキでやってきたわけだ。
……とはいえ、そのご機嫌もレオナルトが現れるまでだったが。
「それにしても、ここまで妨害されるとは……国王の命令があるのに、なぜ止めようとしないんでしょうか。明らかに甘やかされている感じはしますけど」
「だからといって、王太子殿下がこれ以上悪化しないように要請したのはこの国では? むしろ進んであの人を通しているとしか思えません」
「まぁ、狙っているのは間違いないな」
向けられる視線など気にも留めていないのか、作業に戻るセリカは大したことがないように続けている。実際、彼女にとって、なんてことはないのだろう。
国があり、兄弟がいれば、当然勢力争いも野心もある。
「仮に回復しなければ、あの男が次の王太子になる。番への興奮状態を除いても、地頭が良くないことは判明済みだ。癇癪持ちで成績も今一つ、気に入らない進言をする者は追いやり、今では耳に優しい者に囲まれているという。野心を持つ者にとっては、これ以上ない傀儡だろう」
馬鹿とナイフは使いようとは言うが、最も面倒なのは権力を持った馬鹿――とまでは口にはしないものの、そう言うことだ。
国を健全に存続させたい王太子派と、この好機に自分らの利を得ようと勢いづく第二王子派。優勢は、時間と共に後者へ傾きかけている。
「国王も相応の年だ。他の候補がいたとして、それまで病気にかからない保証はない。実際、あの男に鞍替えしている者も多いらしいからな。しかも、今なら番という名の正統な伴侶も見つかっている。あとは邪魔者が消えるだけだな」
「やっぱ貴族って怖ぇ~……」
「この国がどうなろうと構わないが、あの男が国王となるのは問題だ。やれ番を返せだの監禁だので戦争をふっかけられる可能性はある」
誰も否定しないのは、獣人の番に対する執着を知っているからだ。
それこそ、冗談だと笑い飛ばせる余地はない。無事に帰れたとしても、後を追ってくるのは想定していた。
彼らにとって、番の奪還は正当な理由となる。
「で、ですが、ミリアは……!」
「説明したところで本能だから仕方ないと開き直っていれば聞き入れん。理解したとて、別の理由で侵略してくるのには変わらない」
見やったミリアの顔は青ざめ、哀れなほどに震えている。
日々求婚を迫られ、番ではないと否定しても聞く耳を持たれず。最悪は戦争になると聞いて平然としていられるほうが稀であろう。
獣人にとって番とは、何においても優先すべき存在。まともな理性があっても、その本能には逆らえないのだ。
ならば、本能のままに動いているあの男であれば……そして、これを機に侵略しようというのであれば、血が流れることは避けられない。
「ど、どうすれば……」
「そう怯えるな、我々のやるべきことは変わらん。王太子殿下には一刻も早く回復していただき、さっさと国を継いでもらうのが最善だ」
「ですが、薬も対症療法も効果はありませんでした。新しく取り寄せている薬草もいつ届くか……」
「どうせそれも妨害されている。もう一つの検証も進めておきたかったが、やむを得ん。あちらが手段を選ばないのなら、こちらにも考えがある」
セリカは根っからの研究者だ。運命の番、という神聖視された概念を解明することに魅入られた、自他認める変わり者。
彼女の発明により運命の番に関連する事件は減少し、大国相手でも対等に渉れるだけの成果も生み出した。
溜め息の長さは、滅多にない症例についての惜しさと比例する。
番と別れたいと願う者。どうしても番に出会いたいと懇願する者。番と思っていた相手が本当は違うと判明した者。あらゆる事例に遭遇し、全てを糧としてきた。
そんな彼女だからこそ、これだけの条件が揃った事例が今後二度と現れないことを理解している。
強引に解決することもできたが、それなりのリスクも伴う。より安全な回復のために、と理由をつけて観察を続けていたのも否定はしない。
レオナルトが喚くだけなら、この決断は下さなかっただろう。
セリカは、自他認める変わり者だ。運命の番という、この世界で神聖化された概念を理屈で解き明かそうとした冒涜者だ。
気が狂っていると言われたことも数えられない。獣人への、非人道的な実験だって、許可さえ降りれば躊躇なくやれるだろう。
……だが自分の可愛い助手がこれ以上被害に遭うことを許容できるほど、セリカは冷酷な人間ではないのだ。
「全員荷物を纏めておけ。明日の朝には発つぞ」
「所長? 一体なにを……」
助手に問われ、振り返ったセリカが笑う。
虚勢でもなく、無理に作られたものでもない。ただ、確信を纏わせ、彼らを安心させる笑みで。
「奥の手、というやつだ」
◇ ◇ ◇
結論から言えば、奥の手の効果は覿面であった。
このまま衰弱していくと思われた王太子は瞬く間に回復し、知らせを受けた婚約者との一時を楽しめるほどだったという。
それが前日の夕方のこと。強硬手段における対償はこの国で解決すべきだと夜通し荷造りを済ませ、なんなら国王への報告も済ませ、宴やら褒賞やらも辞退し、あとは馬車に乗り込むだけだったはずだ。
……とはいえ、そう簡単に終わるわけがない。
「待て! 大罪人め!」
重々しい鎧の音が響いた時には、すでに周囲を取り囲まれていた。
抜剣こそしていないが、到底お見送りとは思えない重装備。咄嗟にミリアを隠したのは、この数日で刷り込まれた習慣のせいか。
動揺していないセリカだけが進み出て、睨み付けるレオナルトと対峙する。
「これは第二王子殿。わざわざ不要と述べたにも関わらず、お見送りいただけるとは。して、あなたの兄君を助けた我々が大罪人とは?」
「黙れ! 我が番と知りながら妨害し、王族への不敬な発言。さらには、我が番を誘拐するとは!」
「ミリアは番ではないと否定しております。また、我々のあらゆる行動は――」
悲鳴は周囲からのみ。胸倉を掴まれた本人は冷静に男を見上げたまま。
「……これが、貴国の、女性に対する態度であると? これでは番が否定したくなるのも当然でしょう」
「貴様の減らず口もここまでだ。貴様には王太子殺害の容疑もかかっている」
あからさまに禍々しい小瓶を突きつけられ、部下の否定は兵士らに押さえられる。
「貴様に貸し与えた部屋から見つかった。使われている薬草は、貴国にしか生息していない猛毒。くわえて、王太子の悪化は貴様らが来たのと同時期。何を言おうとも、貴様の罪は明らか。散々主張していた約定とやらの効力は既になし!」
冤罪なのは明らか。そんな分かりきった怪しい小瓶など知らないと、主張するのは無駄なこと。
理解しているからこそ、セリカの目は細まり、口から否定は出ない。諦めたと認識したレオナルトが鼻で笑い、勝利を確定して兵士らに命じる。
否、命じたはずだった。番と主張するミリア以外は全員、容赦なく。
「――ふはっ、はははっ! あーっははははははっ!」
その高笑いに遮られなければ、だったが。
「しょ、所長……?」
「きっ、聞いたか皆! まさか、こんな馬鹿馬鹿しい手で来るとは! これはさすがに私でもっ、ふっ、よ、予想しなかっ……あはははは! だ、だめだ、面白すぎて笑いが止まらん!」
掴まれていなければ、手を叩いていたか腹を抱えていたか。
誰もが呆気に取られ、場違いな笑いを聞くしかできず。誰よりも先に我に返ったのは、馬鹿馬鹿しいと称された当の男。
「道化の真似ごとか? 無駄だ! 貴様は真っ先に処刑して、」
「急ごしらえの作戦にしてもあまりに杜撰! くくっ……ど、どうせ隔離している間に助手を手籠めにし、子を成したとしてそのまま監禁するつもりだろうが、もっとマシな理由があっただろう? こんな見え見えの嘘! むしろ道化はそちらではないか!」
あー駄目だ苦しいと、斬首よりも先に酸欠で息絶えかねない。
ひぃひぃと喘ぐセリカの顔も赤いが、直球に侮辱されたレオナルトの顔はそれ以上。
この期に及んでまだ暴言を吐かれた怒りか、思考を見透かされた動揺か。はたまた、その両方であるのか。
「はーっ、笑った笑った……馬鹿ついでに繰り返すが、どれだけ主張しようとミリアはあなたの番ではない。絶対にな」
笑いの反動か、響く声は静かだ。まるで子どもに言い聞かせるようで、しかし断言する言葉。
誤解の余地も含ませない。言葉通りなのだと。
「仮に私があなたの番であっても、己の立場を理解せずに本能を言い訳に理性を溶かす馬鹿など御免こうむる。特に、番と主張しながら本物も分からずに喚く馬鹿はな」
「このっ……どこまでも俺を愚弄するか!」
その口に笑みはなく、鼻で笑う音もない。突き刺さる視線だけが、彼女が本気で呆れていると示している。
一層首が絞まろうとも、彼女の理性は崩れない。
それを無謀と呼ぶか、愚かと呼ぶか。目の前の男にとっては、後者でしかなく。
「下等な人間がっ! 番の研究などっ馬鹿馬鹿しい! その地位も所詮は偽りのもの。人間ごときが我らの番を理解するなど、傲慢にもほどがある!」
「いいや、お前より私の方が理解している。何度でも言ってやろう。ミリアは貴様の番ではない!」
「黙れぇっ!」
地面に突き飛ばされ、喉元に剣先が突きつけられる。されど、彼女の瞳は揺るがない。
「所長っ!」
「もういい! この場で切り捨ててやる! 我が番を弄した罪でな!」
「自分が馬鹿にされた腹いせの間違いだろう? あなたの番など、存在しないのだからな!」
「貴様が何と言おうと、ミリアは我が半身! 我が番! 我が唯一! 我が番はミリアただ一人! 他の誰でもないっ!」
振り上げられる剣。誰かの悲鳴。何かが切れる音。
頭の奥、繋がっていた何かがフッと途切れるような。張りつめていた糸が千切れたような。無くなったことで初めて意識した、不可解な感覚。
僅かな喪失感の後に湧き上がるのは、途方もない開放感だ。
僅かに目を見開いたのは二人。そして、この感覚を得たのも同じく、二人のみ。
「――あ、?」
気の抜けた声。揺れる瞳。滑り落ちた剣に続いて、崩れ落ちる身体。
情けなくへたり込んだ男を横目に立ち上がるセリカの顔は、むしろ晴れやかなものだ。
駆け寄る部下に声をかけるのも程ほどに、詳細を書き留める目も眩しいほどに輝いている。
「無茶しすぎですよ所長……!」
「すまんな。だが見ろ、仮説は合っていたぞ! 精査する必要はあるが、これだけ元は取れたようなものだ!」
先ほどまで首を落とされかけていたとは思えないほどに高揚し、惜しみなく笑う様は少女のように無邪気。
大半は呆れ、呆気に取られている。どちらでもないのは、その笑顔を見上げ、崩れ落ちたままのレオナルト。
「な……なぜ……」
口にしながら、理解はしている。単に、受け入れたくないだけだ。
自分を馬鹿にし、番を奪おうとしたこの女が。先ほどまであんなにも憎かったはずの存在が、どうして。
自分の番は確かに、と。まだミリアに縋る目を向ける男を、セリカが見下ろす。
そこに笑みはなく。先ほどと変わらない冷たさがある。違うのは、その視線に男の心臓が抉られるように痛み、悲鳴をあげること。
「確かに、人間である私に番の真髄とやらは理解できんし、残念なことに実際できなかった。理性を手放すほどに求める存在がいることも、この先わからんままだろう。だが、事実を突き止めていけば、いずれ解明はできる」
「そんなはずがない……なぜ、お前が……」
「番なのか、だろう?」
睨み付けたのは、理解しながらも沸く憎悪か。その後に歪む困惑は、己の本能とやらに矛盾した衝動にか。
先ほどまで殺したいほどだった存在を愛おしく思うのと、求めながら反応できないこと。頭と身体の反応が噛み合わない様は、先の王太子と同じ。だが、こちらに至っては、もう治療法はない。
その手段は、レオナルト自ら切り捨てたのだから。
「何度も言っただろう、ミリアは番ではないと。あなたが否定しようと事実は変わらない。それだけの話だ」
「そんなはずがない! 彼女からは番の匂いがっ……!」
何度否定されてもレオナルトが納得しなかったのは、まさにその理由からだ。
番からしか感じないフェロモン。唯一無二の匂い。明らかにミリアから香っていた、甘く香しい、一度嗅げば二度と忘れられない。何者にも勝る幸福感。
なのに、今はその匂いがセリカからしているのに、どれだけ嗅いでも感じない。
番と認識しているのに、番でしか得られない幸せを、感じられない。
「今回の要請にあたって、約定以外にも対策をいくつか施してあった。これも、その一つでな」
「それは……っ……」
「ああ、この距離からでもわかるのか。これは私の匂いを元に作ったモノでな。我々には無臭だが、獣人には嗅ぎ分けられる濃度に調整してある。私に同行した者は全員、これを纏うよう指示してあった」
ポケットから取り出したのは、飾り気のないシンプルな香水瓶だ。揺れる中身を見るよりも先に、レオナルトの目が見開かれる。
この距離からでも分かるのだろう。濃縮された番の香り。番を持つ獣人にとって、毒にも匹敵する魅惑の品。だが、やはり、得られるべき幸福感がない。
こんなにも強く香っているのに。頭では、理解しているのに。
「本来は番がいる者に協力してもらう予定だったが、それはさておき。約定にも関わらず番だと騒がれた場合を想定し、私に矛先が向かうようにする為だったが……まさか、本人を差し置いて別人を番と誤認するとは」
「待て! それではやはり、ミリアが我が番であろう! 貴様の匂いだろうと、私の鼻は真に番をっ!」
「ミリアには既に番がいる。出会ってもう二年目だ」
「……はぇ?」
いい加減否定も飽きたと。吐き捨てるような言葉に漏れた声の、なんと情けない響きか。
それほど想定していなかったのだろう。番がセリカだと本質的に突きつけられた時よりも、よっぽど堪えているように見える。
「言っただろう。この香水は本来は別の者……つまり、ミリアを元に作る予定だった。色々と問題が重なってな。となれば、番がいなくとも責任者である私が身を削るほかあるまい。ああ、ちなみに番を持っていないのは追従した兵士を含めても私だけ。彼女の番は、我が国でも正式に認められた番だ。番が二人いるなら話は別だが……それこそ、あり得ないだろう?」
唯一無二の存在だからこそ、番は特別であり、他に替えはない。
だからこそ求め、欲し、惨事を引き起こす。それが二人いる時点で、番ではない。
「そもそも、何をもって番と認識しているかだが……最も相性のいい存在を本能的に察知していると、我々は暫定している」
「相性、だと?」
「例外こそあるが、男女で番う理由は子孫を次に繋ぐこと。つまり、子作りが最大の目的だ。メスはより強いオスを求め、オスは子を成すメスを求める。人間だと血筋だとか利権だとかも絡むが、本質としては変わらないし、自然の摂理である」
年若い女が、明け透けに性行為を示唆するなど、非難されるだろう。
だが、セリカは当然のように説明を続けるし、それに何の感情も抱いていない。彼女にとって、これは単なる解説以上の意味を持たないのだ。
「だが、身体に個人差があるように子を為しにくい組み合わせも存在する。要するに、本能的に子が生まれやすい最適な相手こそ、運命の番ということだ」
「ふっ、ふざけるな! そんな馬鹿げた理由などっ!」
「ああ、お前たちが神聖視していることについて否定はしないが、魂だとか前世だとか、神に選ばれたよりもよっぽど腑に落ちると思うがね。これまで同性の番が確認されていないことにも説明がつく。本当に魂で定まっているのなら、性別など関係ないはずだからな。……つまり!」
大きく踏み出し、顔を近付け。揺れる瞳を見下ろし、セリカが浮かべるのは満面の笑み。
「本当に魂で繋がっているなら、匂いで誤魔化そうともお前は私が番だと分かったはず。それにも関わらず私の助手を番と誤認したのは、最も顔が好みという俗人間的な理由だということだ! この点では、獣の方がまだ理性的と言えるだろうな!」
「な……っな……!」
「いやいや、しかし理解できるぞ。××××の相手なら、好みの方が望ましいだろうからな。ま、何であれお前が顔で選んだのは事実だし、本来の番との縁も先ほど切れた。全て解決というわけだ!」
「ま、まてっ!」
あっはっは、と清々しい笑いと共に離れようとしたセリカの足を掴むレオナルトだが、引き止めるだけで精一杯なのだろう。
青ざめた顔。滲む脂汗。揺れ続ける瞳。小さな呻きは、込みあげる吐き気を耐えるものだろう。
やはり、獣人と人間ではこれだけの差が生じるのかと、笑顔の裏で考えるのは観察対象に対する思案ばかり。
「番との縁が、切れるはずがない。番とは運命だ! そんなこと、あっていいはずが……!」
「おやおや、下等な人間である私でも分かったのに、番至高主義の獣人が分からんはずがないだろう。ふむ、体温の低下と脈の上昇、頭痛と吐き気もか。ああ、ようやく得た成功例なのに、長期的な観察ができんことが実に惜しい」
さりげなく首に手を添えたのは、脈を測るまでの一瞬。たったそれだけの接触に込みあげる歓喜と、それでも番として反応できない矛盾に内側から掻き混ぜられる不快感。
一層強く香る、セリカ自身の匂い。番だと認識しているのに、どうしても、番から得られる幸福感が感じられない。
「お前は私が来た日からずっとミリアを番だと声にしていた。つまり、その言葉を誰よりも聞いていたのはお前自身だ。人間の頭とは単純でな、何度も繰り返せばそれが真実と思い込むようになる。そして、お前は私が番ではないと自らの口で否定した。その結果、番と認識しているのは間違いだったと認識し、繋がりが切れたというわけだな」
「そんな、そんなこと、あっていいわけ、」
「ああ、私も番の解消に関しては仮説でしかなかったし、あくまでも可能性の一つだ。……が、実際に縁が切れた感覚はあったんだ、記録するに値するだろう。こんな好条件での観察など、二度とないだろうしな。その点については感謝している」
とはいえ、色々と精査をしなければならない。再現は難しい。より確実な方法を、と。口にするセリカは、もう這いつくばる男に興味はないのだろう。
これ以上のデータは得られないと、なおもしがみ付く男を見ることもない。
「王太子殿下の治療も済んだし、あとは陛下たちが何とかするだろう。これ以上長引けば、ダーリンが待ちくたびれてしまう」
「だっ、ダーリン!?」
「失敬、夫と言うべきだったな。可愛らしいから、ついいつものように呼んでしまった。可哀想に、今頃は私の帰りを泣いて待っているだろう。池ができるまえに早く祖国に戻らねば」
「お前の番は私だろう!?」
溜め息は甘く、その瞬間だけを切り取れば年相応の乙女にも見える。
たとえ、その夫が身長二メートルは超える大男で、片手でリンゴどころか岩さえも粉砕できる熊の獣人であろうとも、セリカにとっては可愛いダーリンであるし、今回の話には関係のないこと。
「お前もそう言ったじゃないか! 本当の番だと! 俺が、俺がいるのに、なぜっ!」
「おやおや面白い冗談だ。番ではないと散々否定し、自分から断ち切ったのは他でもないあなた自身ではないか。それとも、この国の王族は番に対して処刑を言い渡すのがプロポーズだと? それなら、ここまで来ても謝罪の一つがないのも納得だな。これに関しては文化の違いであり、私の研究には何の実りもないが」
ただでさえ青白かった顔から色さえ失われていく。
事実、レオナルトはセリカが来国した日から彼女を否定し続けた。
神聖である番を研究していることも、年の若い女がその所長であることも、王族である自分に不遜な対応を取ることも。何より、番である彼女を自分から引き剥がし続けていることも、全てが気に入らなかった。
視界に入るだけで腹が煮え、声を聞くだけで感情が制御できなかった。本気で処刑したいと願い、実行に移そうともした。
その全てを指摘されるまで、謝罪していないことにさえ気付いていなかったのだ。
「ま、待ってくれ……違う、私は、そんなつもりじゃっ……す、すまなかった! もう二度としない! 処刑なんて冗談だ!」
「おや、本当に冗談とは。これは根本的に価値観が違うらしい」
「謝るっ、やり直させてくれ! お前は私の番だ! 私の唯一、私の運命! そっ、そうだ! 何が欲しい!? 金か? 宝石か? 私はこの国の王子だ、お前が望むのなら何だって用意できる! 研究所が欲しいなら、最高の設備だって整えてやる!」
「物覚えの悪い男だ。私は言ったはずだぞ」
足から膝へ、往生際悪くしがみ付く男に向けられるのは、怒りでも呆れでもない。
価値のない研究対象に向ける感情など、あるはずがないのだから。
「お前が番など、御免こうむるとな」
◇ ◇ ◇
「まったく、名前も覚えていないのに番とはな。縁が切れても執着まで切れるわけではないと」
しがみ付いて離れないと思われたレオナルトとの決着は、駆けつけた騎士たちによって収束を迎えた。
なおもセリカが番だと喚き、抵抗する姿を横目に馬車に乗り込んだのが半刻前。
それから凄まじい勢いで手記を綴り、区切りがついたことを示す呟きが漏れ、同乗していた部下たちから漏れたのは安堵と呆れの両方。
「ほんっとうに、無茶しすぎですよ所長……」
「今回こそはダメかと……」
「番の関係が切れるかまでは賭けだったが、あの男が連行されるのは時間の問題だったし、斬りかかられた場合の対処もしてあった」
「それでも無茶しすぎですっ!」
もし彼女になにかあれば、ダーリン……もとい、彼女の夫が何をするか。
それこそ考えるだけでも恐ろしいと、涙を浮かべる部下を宥める本人はあっけらかんとしたものだ。
「というか、どうやって王太子を治療したんですか?」
「説明していなかったか?」
「聞いてません。夜明けまでに荷物を纏めろっていうから徹夜で荷造りして、合流した矢先にアレでしたもん」
本当に今まで意識していなかったのは、彼女の中で既に解決している問題だからだ。
驚異的な集中力を持つが、終わってしまえば重要な点以外は早々に忘れてしまう。
天才故の切り替えと言われれば、納得してしまうだけの才を持っているが、常人からすれば欠点としか言えない。
「嗅覚を壊死させる毒に対し、ひとまずの対処として中和剤を投与していたのは説明したか?」
「聞いてますし知ってます。そうではなくて、どうやって復活させたかですよ」
原因不明と言われた不調は、蓋を開ければただ毒を盛られていただけのこと。
隠し持っていた原液を解明するために研究所で保管していたのも当然のこと。毒による悪化は防いだが、問題は壊死した嗅覚を復活させる方法だ。
長期的な目でみれば、完全とは言わないが日常に支障ない程度には回復しただろう。だが、数ヶ月……下手をすれば数年も拘束されるわけにはいかない。
元の約定では一か月に限られていたが、その間にレオナルトが暴走し、ミリアが犠牲になる可能性もあった。
だが、一時的でも嗅覚を復活させ、番のフェロモンを認識できるようになれば帰国の条件は達成できる。
その最後の関門を、いかにして突破したのか。散々手は尽くしたはずだが……。
「嗅覚は鈍っていたが、完全に死んでいたわけではなかったからな。番としての本能を利用しただけだ」
「……もう少し具体的に」
「ふむ。番としての本能は子作りと言っただろう? だから婚約者殿を呼び出し、彼の目の前で××を××して、その××を――」
「わ゛ぁーーーーーっ!」
誰がそこまで生々しく説明しろと言ったのか。
思わず叫んでしまったルークを誰が責められるだろう。
確かに、本質的に言えば番うのは子作りのため。つまり一番深く結びついているのは性欲とも言える。
その性欲を刺激する意味合いでは、最も合理的で確実ではある。確実ではある、が……!
「具体的にと言っただろう」
「言い方ってもんが! あるじゃないですか!」
「いつまで経っても慣れないな、お前は。そんなに初心では、嫁が来た時に困るぞ」
「余計なお世話ですよっ!」
慣れてたまるかと怒り心頭であるが、理由を聞いたミリアの方は始終涼やかなまま。むしろ納得し、二人のやり取りを眺めているまである。
優秀であることと個人の価値観は、また別の問題なのだ。
「ともかく、本能を刺激された結果、一時的でも仲睦まじい時間を過ごせるほどに回復したんだ。あとは当事者たちで解決するべきだろう」
婚前交渉を誘発し、それにより子どもができたとしても、王太子の命を救うためだったと言い張れば罪には問われない。
それよりも、実際に毒を盛ったレオナルト側の存在を罰する方が重要視されるだろう。
レオナルト本人が関与していたかこそ不明だが、どちらにせよ番を失った獣人は長くはない。
故意的に繋がりを消したのは今回の例が初めてだが、事故や他の要因で番を失い、衰弱してきた者を何人も見てきた。
セリカの見解では、番とは子を成すための効率的な措置だ。
それでも、あんなにも縋り、失ったことを嘆き、やがて死を辿るだろう過程は……子孫を残すだけでは説明できないのも事実。
それに、確かに繋がりが切れる瞬間を、セリカ本人が感じたのだ。
人間側の影響や、無意識下で番との繋がりを示す何かがあったのかもしれない。
まだまだ研究のしがいがあるのは、いいことだ。
「まぁ、今のうちに休むといい。帰ったらやることがたくさんあるからな」
まだ遠い故郷。自分を待ちくたびれているだろう夫を思い浮かべる。
家具の一つや二つの犠牲は覚悟していよう。研究成果に手を出すような躾はしていないから、それ以外ならいくら壊されても買い換えればいい。
それで自分を待っている間の喪失感が少しでも紛らわせるというのなら、ソファーでも椅子でも、よろこんで差し出そうじゃないか。
そうして、自分が帰ってきたと知らせを聞いて。真っ先に駆けつける巨体が、自分を抱きしめながらベソベソと泣く姿が目に浮かぶ。
縋り付き、あなただけだと叫んで。同じ泣き顔でも、本来の番とそうでないはずの夫とを無意識に比べたセリカが笑う。
本当の番に会った、と言えばどんな反応をするのかと。
そんな意地悪を考えるようには見えない、穏やかな笑みで。
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