世界は淫魔に支配されましたが、聖女の息子は屈せない

池家乃あひる

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第一章

3-2.予想外の訪問者

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 先ほどまでの喧騒が嘘のように静まりかえる空間。水音さえ聞こえず、静寂は耳を貫かんばかり。
 クラロの位置からその姿は見えない。それでも、ここに来るべき存在ではないと分かったのは、その声に聞き覚えがあったからだ。
 この特徴的な語尾、高いテンションで紡がれる声。
 間違いない。あの日、あの男を迎えに来たメイドだ。

「あれっ、聞こえなかったッスか? ペーターって子、ここの持ち場って聞いたんッスけど」

 あれあれ、おかしいなぁ。なんて首を傾げる幻覚が見える。実際、クラロと彼を隔てている布の向こうでは、その通りの光景が見えるだろう。
 確かめる気がないのは、嫌な予感しかしないからだ。あろうことか上級メイドの淫魔サマが、こんな最下層へわざわざ、自分を探しに来ている。
 他の奴隷なら戸惑いながらも喜んで飛び込んでいくところだ。
 いよいよ自分にも春が来たと目を輝かせ、一時の戯れであろうと尻尾ならぬ腰やら尻やらを振って後ろをついていくだろう。
 だから、クラロも本来ならそうしなければならない。疑われないように、怪しまれないように。
 だが、未だその身体は影から出られず。むしろ、視線は逃げ道を探す。どう足掻いても姿を隠しながら出口まで向かうのは不可能だ。
 一度は姿を見られているし、なんなら他の同僚たちが誘導するまである。

「い、いいい、淫魔様っ……!?」
「ねぇ、いないんッスか?」
「い、います! そこの奥……おいペーター! ペーター!」

 思った端からこれだ。聞こえているだろうと声を張り上げられ、いよいよ誤魔化すのは難しい。
 素直に出るべきだ。そう分かっているのに足が動かない。
 いつか接触するとは思っていたが、よもや直接呼びに来るなどどうして想定できたというのか!
 出て行かなくても疑われる。だが、出ればそれこそ終わり。クラロに救いはない。
 いや、まだ数える程しか会っていないが、あの手の男が簡単に玩具を手放すとは考えにくい。
 今回も遊びの延長だろう。防衛こそ不十分だが、貞操帯がある以上最後までするのは不可能。
 前回の布とは違って、下半身を守るこれは付け焼き刃の防具ではない。
 文字通り、最後の防壁だ。いくらあの男がどれだけ優れた力を持っていたとしても、この数日で破壊できる手段を見つけたとは考えられない。
 そう信じたいだけかもしれないが、ともかく……今はそれに賭けるしかないだろう。

「ペーター! ペーター早く!」
「ペーターくーん? おーい? ……うーん、こっちの名前じゃだめなのかなぁ」

 気持ちの整理も付けさせてくれないのか、呼び声は二重になって追い詰めてくる。
 覚悟を決めるしかないと、その一歩を踏み出す前に不穏な言葉が耳を擽る。
 まだ視界は布に覆われ、その姿は見えない。
 見えないはずなのに、ニマリと歪む唇が見えたのは……それこそ、気のせいではなく。

「ク~~~ラ~~~……」
「はぁいぃ! ペーターでぇす! ペーターはここにいますですぅ!」

 イントネーションがおかしいとか、返事がうるさいとか、突っ込まれても知ったことではない。
 布を引きちぎらん勢いで飛び出し、床に散らばっていた道具を蹴飛ばしてしまう。
 つんのめりながらも体勢を整え、辿り着いた中央で満足そうに笑う金に対し舌を打たなかった己を褒めたいところ。
 ……この男、やはり最初から分かってここに来たらしい。
 数日前に見た通りの姿だ。高い位置で結ばれた短いツインテール。褐色の肌に、煌びやかな銀髪。そして、こちらを見つめる大きく丸い金の瞳。
 やはり、あの時男を迎えにきたメイドに間違いない。

「あはっ、元気いいっスね! うんうん、いいことっスよ!」
「いんやあすみません、まさが淫魔サマがこったどごろに来るなんて思わねがったもんで……」

 嘘ではない。本当に淫魔サマ……それも、本来なら上級国民でもおかしくない相手が、わざわざこんな所まで自分を探しに来るなんて誰が想像したことか。
 用があったって来ようとは思わないはずなのに自ら来るなんて、想定外にも程がある。

「他の子はそうッスよね。あ、オイラはベゼ様専用メイドのアモルって言うッス。これからよろしくッス!」

 なにがこれからか、なにがよろしくなのか。有無を言わさず手を握られ、ぶんぶんと上下に振る勢いに翻弄される。
 いくら洗濯場とはいえ、今日も魔除けのオイルはしっかり仕込んでいるのだから、クラロからは匂いがしているはずだが……。
 いや、それよりも、専属メイドという点が引っ掛かる。
 これだけなら、ただの上級メイドだ。あの男がベゼと名乗っていて、それなりの地位にいることも推測できる。
 だが、それは本当の名を知らなければの話だ。既にクラロは本名を聞いているし、今さらなかったことにはできない。
 ヴェルゼイ。ヴェルゼイ様。そうとも、忘れるはずがない。
 その名前は、この城で勤めているのなら誰もが知っている。
 先日迎えに来た際、本名を口走ったのが無意識だろうとわざとだろうと、既にクラロが知っていることはアモルも分かっているはずだ。
 その上で、この男は専属メイドと名乗っている。この時点で位が違いすぎるし、嫌な予感しかない。
 偶然を装って会えないのなら、向こうから来てもらえばいいと。つまりは、そういうことなのか。

「あのぉ……そったすげぇ御方が、オラに何の用で?」

 分かっていても、とぼけなければならないのが、この立場の悲しいところ。
 ここは素直についていき、早々に用事を終わらせてもらって、そうして解放されることを祈るしかない。

「用なんてないッスよ! ただ遊びに来ただけッス!」

 ……そう考えていたのだが、どうやら事情が変わってしまったようだ。

「洗い場なんて滅多に来ることないんッスけど、中々興味深いッスね!」

 左右を見渡し、うんうんと頷く姿は本当に楽しそうだが、一体なにがそんなに面白いというのか。
 右を見ても、左を見てもシーツの山。その他石けんや洗濯板、それから下級奴隷は前後にもれなく。
 物珍しさはあっても、見ていて楽しい場所ではない。数分もすれば興味も薄れるだろう。そうしてお互い仕事に戻れば万事解決というわけだが……。

「あー……こったつまんねぇ所さ来るなんて、淫魔サマも物好きで」
「ん? ……ああ! ふふっ、ベゼの言う通り面白い子ッスね! それに、すっごく可愛い」

 一瞬浮かんだ疑問符もどこに飛んだやら。すぐにニコニコ笑顔に戻り、眺める対象は周囲からクラロへ。
 仮にもご主人様を呼び捨てにしてもいいのだろうか、なんて突っ込みは喉の奥へ押しやる。
 色々と聞き捨てならない台詞が聞こえたが、反応するのは周囲ばかり。
 面白い? あいつが? なんて呟きに同意したいのは他でもない本人だ。面白くも可愛くもなくて構わない。とにかく、この状況を今すぐにでも終わらせたい。

「それ、わざとッスか? それとも素で?」

『す』を掛け合わせた冗談かと聞き流したのは、余計な体力を使いたくなかったからではなく。見上げるその金が強い光を放ったから。
 魅了魔法だと認識し、無意識に身体が強張る。表情こそ変わらずとも、上位者である淫魔にはその変化などお見通し。
 ニマリ、小さな唇が弧を描く。

「もちろん、遊びに来たのはここにじゃなくてぇ……君とッスよ♡」

 甘ったるい語尾に、マズいと認識した時には既に遅く――気付けば足が宙を浮いていた。
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