世界は淫魔に支配されましたが、聖女の息子は屈せない

池家乃あひる

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第一章

4-8.お遊びはまだ

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「――ぁ」

 指が、声が、赤が。与えられる全てが、クラロを貫く。
 本当に立ち向かいたいのなら、そうするべきはクラロではなく彼らだったはずだと。泣く子どもをあやす指は、どこまでも柔らかなまま。

「僕らのことを君に教えるよりも、村の外がどうであるかを伝えるよりも先に。まだ幼い君に、僕らに対抗できる方法を教え込む以前に。危険を顧みず、君と一緒に立ち向かうべき人間を集めるべきだった。まだ幼い救世主と共に戦ってくれる大人を、他でもないその大人たちが」

 聞いてはいけない。伝えられるのは全部、クラロを諦めさせるための戯言。
 勇者と聖女でさえ敵わなかった相手に、ただの人間が勝てるはずがない。逃げるのは卑怯ではなく正しいことだと、クラロは理解している。分かっている。納得している。
 それは、仕方のなかったことだと。

「彼らも無駄だって分かってた。でも、諦めきれずに全部君に押しつけた。だって自分たちはただのか弱い人間。勇者や聖女のような選ばれた存在ではない。そんな自分たちが行動したって、なんの意味もないんだって」

 それなのに、そうではないと否定する声が、突き立てられる言葉が、クラロの暗い感情を引き摺り出そうとする。
 優しく、甘く、柔らかく。それはまさしく、快楽に堕とそうとする化け物。
 組み敷いた獲物を喰らわんとする牙は、まだ笑む唇の中に隠されたまま。

「捕まりたくない。奴隷になんてされたくない。だからあの場所に留まり続けた。どこよりも安全な場所で、無条件に自分たちを守ってくれる存在のそばで。本当なら自分たちが守らなくてはならない子どもに、彼らは全部押しつけたんだよ」

 ひどいよね、と。同情する声までもがクラロの熱を押し上げる。もはや、どれで快楽を拾い、何でこんなに苦しいのかさえわからない。
 ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられて、訳がわからなくて。それでも、辛うじて残った正気がクラロを繋ぎ止める。聞いてはいけないと。その言葉を受け入れては、駄目なのだと。
 そう抗い、呻くクラロに向けられる赤さえも、今は彼を苛むものでしかない。

「もし彼らが犠牲を覚悟で行動していれば、君はここに来ることだってなかった。もし連絡だけでもとれていたなら、集まることはできなくても、君と共に立ち向かうだけの土台を作ることはできたはずだ」

 そうだろうと、頬を撫でる手に漏れるのは呻きか、喘ぎか。
 そうでもなく、ただ否定したかっただけなのか。それすらも、否定しなければならないという焦燥感にかられたものだったのか。

「そうすれば、君が一人で戦うことだってなかった。たった一人きりでここに来て、真実を知ることだってなく。何も知らなければ僕らを憎むだけで済んだのに、それだって許されない。……せめて、ここに来る前に、誰かに出会えていたらよかったのにね」

 違うと、お前のたちのせいだと。全部、お前が悪いのだと。そう叫びたかった。叫ぶべきだった。
 憎い。だけど、彼ら以上に許せないのが誰かを、クラロはもう知ってしまった。
 考えないようにしていた。思い出さないようにしていた。だって、それらはもう無意味なものなのだ。
 復讐は既に、クラロの手から離れた場所で済まされた。その最期を知っただけでは、その胸の内が癒やされることはない。
 燻り続けた怒りは、まだその胸の奥。深い場所で眠っていたそれは、今は男の手の中に曝け出されて、弄ばれている。
 全部知っていると。もはや、隠す必要はないのだと。

「無駄だってわかってるのに立ち向かうのは怖かったよね。嫌なことを強いられるのは辛かったね。助けてほしいのに、縋られるばかりは苦しかったよね。聖女の息子ってだけで、全部押しつけてくるなんて、みんなひどかったね」

 いい子、いい子。かわいそうな子。
 泣き叫びたかった。駄目だと、止めてくれと、それ以上なにも言わないでくれと。これ以上、なにも暴かないでと。
 それこそ子どものように。なりふり構わず、その毒を止められるのなら何だって。
 どうして、どうして。……どうして。
 ずっと求めていた言葉を、よりにもよって、この男が投げかけてくるのか。
 肯定されたかった。ずっと、ずっと。諦めでも、逃避でもなく。淫魔に敵わないことは事実なのだと。
 クラロ一人で。一人きりで立ち向かえるはずがないのだと、ずっと。

「いいんだよ、クラロ」

 葛藤も、混乱も、悲しみも、怒りも。全てがふわりと浮かんで、沈むのはその言葉だけ。

「もう頑張らなくていい。助けて、なんて無責任な言葉に苦しまなくていい。もう知られることを怖がることだってないんだ」

 だって、もう全部分かっている。もう全て知っている。だから、あとは諦めるだけでいいのだと。甘く、低く、揺さぶる声がそのまま快楽となる。
 問いかける声こそ音にならず。そもそも、聞く必要すらなかったのかもしれない。
 滲む世界の中で赤だけが鮮明で、溺れる水色に添えられる手は、更にクラロを沈めていくもの。
 迫る赤に、それまで抱いていた焦燥感はどこにもない。
 ふわふわと心地よい微睡の中。囁かれた許しの言葉が何度もこだまして、それ以外には何も考えられない。考えたくない。
 だって、本当じゃないか。今までのことも、隠してきたことも、全部。いつかこうなるって、自分でも分かっていたじゃないか。
 どれだけ抵抗したって、自分では敵わないと。だけど、それを認めることは、許されなかったから、だから、

「クラロ」

 それ以上は考えなくていいのだと。自分への言い訳もしなくていいんだと。
 唇は目から頬へ、慰めるように、慈しむように、これまで耐え続けていた子どもを褒めるように。柔らかく落とされる。
 ついばまれ、撫でられ、くすぐられ。それは、大人が子に与えるにはあまりにも優しく、そして深いもの。
 そうして吐息が触れ合うことさえも心地よく、泣き出したくなるほどの幸福感に堪らず手を伸ばし、
 ――そこで、クラロは正気に戻った。

 乾いた音はすぐ目の前。重なる寸前だった口の間、差し込んだ手によって。
 甲高い耳鳴りにも似た、不快な音。微睡から引き上げる高音はクラロの耳にしか届かずとも、その変化は明らかであった。
 晒された水色、熱で潤んでいた瞳に宿るのは微睡んだ光ではなく正気。
 靄がかっていた頭の中は今、まるで風が吹いたかのように鮮明だ。
 怠さも、熱も、息が当たるだけで反応してしまっていた過敏さもない。
 クラロが自分の身を守るための最終手段。クラロ自身の意思では出せない、本当の、奥の手。
 胸に湧き上がるのは幸福ではなく、露見してしまったことへの苛立ち。
 与えられた毒が一定量を超えた際に、無意識でかけられる回復魔法。
 本来ならクラロには扱えないはずのそれは、生まれ持った体質。邪なものに対する防衛本能。
 それこそ、母親と。聖女と同じ体質を受け継いだ、聖女の息子である何よりの証拠。

「何度も申し上げておりますが」

 息は乱れず、声に焦りもなく。強制的に戻された精神は、むしろ落ち着きすぎて異常にも思える。
 だが、今のクラロはそれを疑問に抱くことはなく。ただ、真っ直ぐに自分の敵を見上げ、訂正するだけ。

「オラの名前はペーターですよ。……ベゼ様」

 だから違うのだと。
 押し倒され、肌を露わにされ。それでも、まだ、堕ちるわけにはいかないのだと。
 もう与えられていた快楽はどこにも残っていないはずなのに、疼くような感覚を振り払うように睨み付けた先。押さえた手に与えられたのは、歪む唇の感触。

「……ふ、ふふ、」

 漏れた息は指を舐め、そうしてゆっくりと離れていく。唇を押さえる手はクラロから男自身のものに。
 吐息は治まりきらない笑いへ代わり、やがて明確にクラロの鼓膜を叩く物になった。

「くくっ……あはははは!」

 身体を曲げ、腹を抱え。そうして子どものように笑う男を、クラロはただただ見つめ続ける。
 感情の起伏が乏しくなった瞳は、より男の神経を撫でる物なのだったのだろう。落ち着くどころか涙さえ浮かびはじめ、とても情事が始まる前だったとは思えぬほどの賑やかさ。
 いつになったら落ち着くのかと。そう思いはじめてようやく、男の呼吸が大きく伸びたものへと変わる。

「あははは……はーっ……ほんっと、君って最高だね」

 嫌味でも、苦し紛れでもない。想定外の抵抗を為したクラロに与えられる、心の底からの賞賛。
 楽しくて仕方がないと、満面の笑みを浮かべる男にあるのは怒りではなく歓喜。

「いいよ、まだ見逃してあげる。まだ君のお遊びに付き合ってあげるよ。……だから、」

 まだクラロで楽しめるのだと。そう確信する男が、腕を掴み、引き上げる。
 抵抗する気もない弛緩した身体を抱きしめる力は、温かく、そして強く。

「――また遊ぼうね、ペーター」

 鼓膜を舐める声。低い響きに、忘れていた痺れが腰から上がってきて、呻きは音にならぬまま。
 解放された身体は机の上に。遠ざかる男は、呆気なく扉の向こうへ。
 ここに連れてきたアモルの姿もなく。一人、取り残されたクラロが吐き出す息は震えたもの。
 嵐のように押し寄せていた感情。魔法によって強制的に押さえ込まれていたそれらが、ゆっくりと解き放たれていく衝動に、途方もない空虚感。
 唇を噛み、本当に耐えたかったのは何だったのか。答えは出ず、落ち着くこともなく。
 そして、静かに流れる涙を掬い取る手は、もうここにはなかった。
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