世界は淫魔に支配されましたが、聖女の息子は屈せない

池家乃あひる

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第二章

8-2.帰郷

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「おい、そこのお前! 名前は!」

 真っ先に抱いたのは面倒事の気配ではなく、違和感。
 ありふれた城の廊下。掃除道具も書類も持たぬ、ただ移動するだけの奴隷の名を、偉大な淫魔サマが知らぬは当然のこと。
 だが、続けて名を尋ねられたのは、クラロがこの城に勤めてから数える程もあっただろうか。
 寄せた眉は分厚い前髪に遮られ、呼び止めた淫魔の目には映らず。馬鹿のように笑う口だけが目立っていることだろう。
 相手がペーターを知らないのは当然としても、ペーターの記憶に掠らないのはやや問題だ。
 服装こそ他の淫魔と同じ。それなら多少なりとも見覚えがあるはずなのに、どれだけ頭を漁ろうとも影も形も重ならず。
 くわえて、睨み付ける瞳の奥。抑え気味でも隠せぬ魔力の強さに警戒しつつも、ペーターとして取れる行動は一つだけ。

「ペーターと申します、淫魔サマ。……オラがなにか?」
「人手がいる。ついてこい」

 端的な命令だ。それ自体にも、何の問題はない。
 名乗った直後の硬直と、観察するような目の動き。若干強張る表情も、クラロの勘違いと言えばそこまでだろう。
 ただ使いたいだけなら名を聞く必要はなく、そもそも場所を移すことだってない。それ以前に、魔物除けの香油で性欲は失せるはずだ。
 それでも呼びつける理由を問うことはできず、ただの下級奴隷であるペーターは後ろをついていくだけ。
 進むにつれて人影は少なく、音も静かになっていく。適当な部屋でいいなら、到底歩かぬ距離。
 詳細な場所こそ不明だが、向かっている方向がどこかはさすがに分かる。
 今や、週に一度は通っている別館。……通常の業務では、使わないはずの場所。

「あのぉ……もしかして別館に向かってるんですかね? そっちは今は使ってないって……」
「いいから黙ってついてこい」

 早歩きでなければ置いていかれそうになるのは、純粋な歩幅の関係だ。まるで人目を避けるように忙しない。否、実際に急いでいるのだろう。
 さりげない問いかけも容赦なく叩き落とされ、いよいよ足音に軋む音が混じり始めれば、別館まではもうすぐそこ。
 何かされると分かっていながらここまで着いてきたが、では一体何をされるのか。
 数日前のベゼとの会話が頭によぎり、無意識に指輪を撫でている事に気付いて手を払う。
 どうやら、面倒な奴が、馬鹿なことをしでかそうとしているようだ。
 直接危害を与えることはないにしても、ある程度の被害は覚悟しておくべきだろう。とはいえ、殺害に準ずる行為は階級に関係なく重罪。
 いくらあの男に一矢報いるためとはいえ、ただの奴隷にそこまでするとは思えない。
 そもそも、淫魔は実力主義。こんなだまし討ちなど卑怯者と蔑まれることとなる。
 奴隷相手ならともかく、淫魔同士の戦いにはそれなりの流儀があるはずだが……。どうであれ、助けを呼ぶほどではないだろう。
 魔除けの香油はいつも通り。貞操帯も装備し、最悪は魔術で切り抜けられる。
 今までも似たようなことは何度もあった。事前にそうだと分かっているだけマシなもの。

「入れ」

 だからこそ。明らかに罠と知りながらも、クラロは扉に手をかけたのだ。
 ……とはいえ、扉の先が一面の闇であれば、さすがに怯むというもの。
 一切の光を通さぬ黒。それはクラロの視界がまだ慣れていないのを含めても、あまりに暗すぎる世界。
 ここで見えるとすれば淫魔だけ。踏み止まった一瞬では、中に潜む音を聞き分けることはできず。本能に従い、足は止まる。
 建前ではない。……これは、これまでと傾向が違う。

「明かりを、」

 入り口から離れようとしたのが先か、ひとまずの言い訳を紡いだが先か。
 ――否。背中からの衝撃を受け、受け身と同時に障壁を張ったのが何よりも早かっただろう。
 一連の全ては無意識によって。何が起きたか理解するよりも早く扉は閉ざされ、全ての視界が閉ざされる。
 痛みと衝撃の理由を認識するよりも先に、機能しない視覚に焦りから障壁を展開させたまま。ただの奴隷にはできない行為だと理解していても、そんな理性が働く状況ではなく。
 だからこそ、真下からの強烈な光に身構えることもできず――それが魔方陣だと気付いた時には、全てが終わっていた。
 一瞬の内に襲いかかる前後不覚。遠ざかった意識が無理矢理引き戻され、船をこいだように揺さぶられる感覚。
 鈍い頭痛に呻き、蹲った手が触れる温度に眉を寄せる。
 冷たく、湿った感触。木ではない。僅かな凹凸は小さな石。指先を汚すソレは、紛うことなく土の感触。

 頬を撫でる風は生温く、湿った空気に混ざるのは植物と言い知れぬ不快な匂い。
 日中のはずなのに薄暗く感じるのは、幾重にも重なった木の葉に覆い隠されているからだろう。
 どう考えても外なのに、理解が追いつかない。
 幻でも見ているのか。あるいは、幻覚をかけられているのか。
 そう疑ったところで蹴り飛ばされた痛みは薄れず、幻覚醒ましの術をかけても景色は変わらない。
 立ち上がり、周囲を見渡し。やはり、見覚えのない場所に、少しでも落ち着こうと息を整える。
 これが幻でないなら、自分は転移させられたのだろう。
 手酷く犯すか、嬲るか、殺すまでは至らずとも痛めつけられるか。
 想定していたどの展開とも異なることに動揺が隠せない。
 間違いなく、ここは城の敷地外。あの場所からどれだけ離れているかは、今の段階では不明。
 転移魔術など、淫魔にとっては容易なこと。だが、わざわざその労力を割いたという事実を受け入れられない。
 遠ざけるだけなら過剰だが、ただ痛めつけるだけでも、嬲るだけでもなく。消しにかかっているのなら、話は別だ。
 確かに淫魔が奴隷……人間を意図的に殺傷することは重罪だが、不慮の事故であれば、その限りではない。
 他の淫魔だって、わざわざ魔方陣を用意して転移させたなんて考えないだろう。
 運悪く魔術書を開いた奴隷が、運悪く外に転移した結果であれば、誰も咎められることはない。
 あまりに回りくどい。だが、保身を優先させ、かつ目的を果たすなら――本当にクラロを殺そうと考えているのなら、最も現実的。
 滲む汗を拭い、落ち着こうと足掻いても、忍び寄る死の恐怖に指先が震えてしまう。
 川があれば町や村に下りられる目処も立ったが、水音もしない。仮に村に出たとしても淫魔がいれば救いはない。

 状況は詰んでいるが、留まっているよりはマシなはずだと。進めようとした足が、物音によって止まる。
 人の可能性は無い。こんな森の中で、普通の者が生きているはずがない。
 それは獣の餌になるだけではなく、もっと最悪な存在がいるからこそ。
 息を潜め、音の方角を凝視する。そうする間にも不快な、甘ったるい匂いが強くなり、嫌な予感が的中する。
 そう、獣ならまだ対処ができる。魔除けの香油だって効くし、最悪は魔術でなんとかなるだろう。
 だが、香油で牽制できるのはあくまでも生き物だけ。
 本来の生態系を捻じ曲げられたのはスライムだけではない。
 昔は人食いとされた植物も、今では精液を啜るのに特化した搾精植物になってしまった。
 クラロが森に隠れようと思わなかったのは、こいつらの存在があったから。植物に嗅覚はなく、燃やす以外の対応策はない。
 捕まってしまえば最後。いずれは搾り取られ、殺されてしまう。
 だからこそ、暗がりから極彩色が見えた瞬間。それが巨大な花弁だと認識するよりも早く、クラロは駆けだしていたのだ。
 実際、振り下ろされた蔓を避けたのは間一髪のこと。
 元いた場所の惨状を確認する間もなく、植物が追いかけているとは思えぬ轟音に迫られながら、必死に足を動かし続ける。
 蔓がある以上、高所に逃げたところで無駄。あの大きさではクラロの魔術で燃やし尽くせるとは限らない。
 木々の陰に隠れながら撒こうとしても、風切り音とへし折られる音に悲鳴さえも詰まる。
 あんなの生身で受ければ間違いなく即死だ。障壁など張れる余裕はない。張ったところで包囲され、逃げ場を失うのがオチだ。
 違う、今だってもう逃げ場はない。いずれ他の魔物にも気付かれ、囲まれてしまう。
 それでも足を止めることはできず、蔓を奮う音はますます近づいてくる。
 ただ愚直に逃げるだけでは駄目だと分かっているのに、打開策は見つからず。やがて、体力の限界が訪れる。
 縺れた足が地に躓き、無様に転がる身体。頭上を掠める蔓。メキメキと音を立てて軋む木。迫る、死。
 襲い来る衝撃に咄嗟に顔を庇い、視界に映った赤にあの男を思い出して――甲高い音に、身を縮めた。
 だが、痛みはない。締めつけられる苦しさも、そもそも触れる感触さえも。
 強く閉じた目蓋を開けば、数歩本離れた位置にまで迫っている魔物。だが、叩きつけようとした蔓は何かに阻まれ、クラロの元に届かず。
 弾かれる度に甲高い音と半透明の壁が映り、それが結界であると気付く。
 考えるよりも先に足が動き、逃げ出したクラロを追いかける音はもう聞こえることはない。

 どれだけ走ったか。今度こそ迎えた限界に、気に身を預けて咳き込む。
 吸い込む空気に甘い匂いはなく、肺が落ち着くにつれて思考が戻り始める。
 一瞬だが、見えたのは間違いなく魔除けの結界だった、それも普通の村や町に設置されているものではない。
 淫魔の持っている施設ならなおのこと。奴らは本能的に避けるはずだし、そもそもそんな手間を払うとは思えない。
 旧時代のが残っているとしたって、稼働するには魔力が必要だ。
 浮かぶ可能性に、それだけはあり得ないと首を振る。違う。そんな都合のいいことがあるはずない。
 偶然飛ばされた先が、あの場所の近くなんて。クラロと関係があると知っているのはあの男だけだ。
 考えたくはない。だが、本当にそうなら……クラロを転移させたのは。
 殺そうと、したのは――。
 答えが音で遮られる。匂いはない。先ほどよりは小さく、だが確かな物音。
 野生の獣なら対処できる。否、また魔物という可能性もまだ残っている。
 姿が見えなければ動けず、硬直したまま。

「……く、らろ?」

 揺れる木陰の向こうから、己の名を呼ぶ声に息を呑む。それは人であるという事実よりも先に、聞き覚えのある声だったからだ。
 赤に近い茶色。一つ括りにされた髪の跳ねた毛先。同色の瞳は驚愕に開かれ、真っ直ぐクラロを見つめる。
 記憶に違わぬ姿。もう二度と会わないはずの相手。かつては友と呼んでいた男の姿に、締めつけられたのは喉か、胸か。
 幾度となく見せられた悪夢の中。木霊する声が頭の中を埋め尽くす。
 彼は、だから自分たちは、あいつはここには、聖女の息子の名は、

「クラロ、だよな? 本当に……?」

 互いに目の前の光景を信じられず、されど先に踏み出したのは男の方。
 その内に込み上げているのは再会の喜びか、あるいは……告げられると思っていた、後悔なのか。
 呼ばれ、手を伸ばされ。逃げることはできず。

「……トー、プ」

 囁くその名に込められていたのは、自分がこの地に――かつての故郷に飛ばされてきた事実への、諦めだった。
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