世界は淫魔に支配されましたが、聖女の息子は屈せない

池家乃あひる

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第二章

11-1.どちらが悪夢か

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「クラロ」

 目を開ける。もう何度も、何度も。何度も見続けてきた夢だ。そう、夢と分かっている。
 いつもの夢。かつての光景。もう戻ることのない場所。
 橙色の光に照らされる教会の中、掴まれる肩の痛みに呻く。いつもは耐えられるはずなのに。いつもと同じ夢のはずなのに。

「クラロ、お前だけが私たちの希望なんだ」

 いつもと同じ言葉。もう十何年言い続けられてきた懇願。実際に淫魔の脅威を目にした者だからこそ植え付けられてきた恐怖。
 勇者も聖女もいなくなり、対抗し得る存在がいなくなった今。クラロだけが、唯一の希望なのだと。
 そう縋らなければ生きていけないとしがみ付く大人から、幼い子どもがどうやって逃げられたというのか。
 この狭い村こそがクラロのとっての全てで、逃げ場なんてなかったのに。
 どこに行っても、何をしようと、日常の隙間に捻じ込まれる期待と懇願。生への渇望と、ただ平和を取り戻したいという、純粋なまでの願い。
 そうでなければ、彼らは生きていけなかった。いつ見つかるかもわからない恐怖の中、クラロを守り、守られることが唯一の光だったのだから。
 たとえクラロがその期待に応えられないとしても、その真実から目を逸らさなければ、本当に終わってしまうから。

「勇者と聖女の息子であるお前だけが、あいつらから世界を取り返すことができる」

 一緒に戦うなんて、無力な人間には無理だ。
 クラロ一人のためだけに魔物のはびこる森を抜け、協力者を探すために街に向かうなんて誰ができただろう。
 それは死に逝くのと同じことだ。いつか、クラロが成長し、相応の力を付けるまでは誰も出られないのだと。
 今なら理解できる。あの村を出て、この夢を見るようになって。これを、他人事のように眺められるようになってからは、仕方のなかったことなのだと。
 諦め、受け入れ。そうして、もう二度と会わないのだからと、怒りさえも忘れようとして。
 忘れたくて、忘れられなくて。自分自身にずっと言い聞かせて。
 ただ、衝動に任されるままに逃げて、逃げ続けて。逃げられないと分かっていても、止められなくて。

『……どうして』

 口から零れたのは、今よりもずっと幼い自分の声。それは、いつもの夢にはなかったことだ。

『どうして、僕だけなの』
「奴らこそ、あなたの両親の仇だからよ」

 答えるように、されどそれは真実ではなく。夢はクラロの問いを無視して進む。
 そう。あの時だって声に出すことはなかった。どれだけ思おうと、そう考えようと、口に出すことだけはできなかった。
 何度も何度も口にしようとして、その度に、掴まれる身体の痛みに引き止められてしまったから。
 否。痛かったのではない。怖かったのだ。
 向けられる視線が。その期待が。そうして、自分がそれに応えられないと知られた後に何が起こるか。
 わからないからこそ、クラロはずっと、その疑問を口にすることは許されなかったのだ。
 だって、皆がクラロに願ったのだ。
 仇を取ってほしいと。自分たちを救ってほしいと。両親はそのためにクラロを逃がし、戦い、そうして奴らに捕まったのだと。
 クラロが。クラロだけが彼らを、自分たちを、人間を助けられると疑いもせず。それだけを生きる糧としたのだ。
 繰り返し告げられる両親の死。日夜終わる事のない嘆願。一人一人の頻度は些細なものでも、それが全員となれば休みもなく。
 自分がこの村にいる意味は、彼らを助けるためと気付くのには十分過ぎるだけのもの。

『どうして、僕が救わないといけないの』
「あいつらのせいでこの世界はおかしくなってしまった!」

 それでも問いかけは止まず、そして答えは与えられない。
 そうしなければならないから、魔術だって必死に覚えた。
 薬草も、淫魔に関することも、魔物に対抗できるだけの方法も。聖女がどんな力を持っていて、自分は何を受け継いでいたのかも。
 だって、そう望まれたから。そうしなければいけなかったから。それが、一人きりだったクラロが生きていくための唯一の方法だったから。
 わかっている。今のクラロならわかっている。皆が救いを求めていたのだ。誰もが助けてほしかったのだ。
 怖くて、恐ろしくて、いつ見つかるかもわからないのに身を守る手段さえもなくて。いつか、この存在が自分たちを救ってくれると思わなければ、生きていけなかったことだって。
 だから、実際に淫魔があの村を襲撃した時だって、クラロを差し出すしかなかったことも全部。
 ……それでも、本当は。本当はずっと、ずっと、

「――クラロ」

 世界を照らす光が消え、柔らかい声に導かれるまま振り返る。見つめる赤い光に伸ばした手は、無意識だった。
 縋り付く無数の腕の代わりに、男の腕だけに掴まれる。抱きしめられ、頭を撫でられて、もう馴染んでしまったその温度に、込み上げてくる何かをダメだと押し潰す。
 そう、ダメだ。ダメだったのに。この手に慣れてしまっては。この柔らかさを受け入れてしまっては、ダメだったのに。

「いい子。いい子だね、クラロ」

 変わらない響きがクラロを甘く溶かしていく。そう、彼は最初から何も変わっていない。
 見つめる瞳も、撫でる手つきも、呼びかける声も。ウェルゼイは、最初からずっと同じだった。
 気付きたくなかった。気付きたくなかったから、ダメだったのに。
 ベゼ、と呼びかけた名前が、肩を掴まれて遮られる。骨が軋むほどに握られて、呻き声さえも出ない。
 見てはいけないと理解していたはずなのに、顔は自然と上を向いて。そこにあるはずだった男の顔に、息を呑む。
 まるで波紋のようにぐちゃぐちゃで、不鮮明で、なのに笑っていると分かる歪なナニか。形のいい唇さえも歪んでわからないはずなのに、それでも、嗤っていることだけは、間違いない。
 違う。見えないんじゃない。想像できないんだ。
 一歩、後退った足が空を切り、咄嗟に伸ばした手は、縋る前に逆に掴まれた。
 ぷらり、地に着かない足。崩れ落ちる足場。唯一の救いは、手首を捉えた男の手だけ。

「でもね、クラロ」

 これは夢。だから、腕の痛みがないことも、彼の足元だけ無事なことも、当然のこと。
 それなのに痛い。胸が、胸の奥が。怖い。その先を知ることが。その続きを聞きたくないのに、耳を塞げない。
 見上げた先。男はわらっている。ダメだと知りながら、ここまで堕ちてきた哀れなクラロを、嗤って、

「ウェル、ゼ――」
「もう満足したから」

 理由はそれだけで十分だと、指が剥がれる。見下ろす赤が遠ざかって、わらって、落ちて、

「っ――ぁ、」

 叫びは、吐息に。襲いかかった落下感は、息苦しさに取って代わる。身体が跳ね、されど飛び上がることはなく。見開いた瞳が映すのは、もう見慣れてしまった天井。
 肌に張り付くシャツの不快感。どれだけ息を吸っても楽にならない呼吸。朝の光が徐々に滲んで、頬を伝うよりも先に目を押さえる。
 ああ。……ああ、なんてひどい夢だ。
 夢だと分かっているのに、掴まれた手の痛みが引かない。嗤うあの顔が、頭から剥がれない。
 分かっている。分かっていることだ。あれは夢で……だけど、いつか起こることだと。
 あの男の言う呪いがとけて、受け入れて。クラロの全てが思い通りになれば、あの男だって飽きるということを。そうして、捨てられることだって。
 わかっている。わかっているのだ。だから、違う。分かっていても抑えられないのは、震えが止まらないのは……そうだと、突きつけられてしまったからだ。
 目を逸らし続けていた。自分が恐れているのは、その先に待ち構えている自分の最期だと。それまでの全ては辿り着くまでの過程であり、だからこそ恐れていたのだと。
 逃げられないと思い知らされて、捻じ伏せられて。それなのに理解されて、絆されて。
 最期を迎えたくないから捨てられたくないのだと、生きたいからこそ依存しているのだと、そう思っていた。思い続けていたかった。
 だけど、恐れたのは。クラロが夢でも怖いと思ってしまったのは、その先の結末ではなくて。
 ああ、気付きたくなかった。ずっと目を逸らしていたかった。諦めることなく逃げ続けていたら、知らないままで済んだのに。
 これが男ではなく、自分自身で気付いてしまうなんて。本当に、なんて酷すぎる夢。
 だけど、それは現実で。いつか来ることで。

「クラロ」

 ノックの音に息を呑む。込み上げる衝動に駆られるまま背を向け、頭の上までシーツを被る。
 無意味だ。分かっている。会いたくないと思っても、今は顔を見せたくないと思っても、そういう願いだけはいつも叶えてくれなかったから。
 遠ざかれば、遠ざかるだけ距離を詰めてくる。逃げようとすればするほどに、この男はクラロを捕まえようとする。
 今までも。そして、今も。

「あれ、まだ寝てる?」

 扉が開く音。近づいてくる足音。ベッドが軋んで、覗き込む気配。
 シーツに手をかけられて、握り締めた布は取り上げられずに済んでも、時間の問題。

「クラロ?」

 呼ぶ声が夢の中と重なる。飽きたと告げる声が、もういらないと捨てる声が、頭の中で木霊している。
 だって、同じだ。クラロを呼ぶ声はいつだって同じだった。それがペーターの時でも、下級にいたときも、今も。全部、同じ響き。
 変わっているのはクラロだけ。……気付いてしまった、クラロだけが。

「珍しいね、お寝坊さんだ」

 シーツにかけられた圧が弱まって、比例して声の柔らかさが増していく。耳を塞ぐには手が足りなくて、唇を噛み締めたところで音を遮ることはできない。

「まだ眠い? それとも、調子が悪い? ……悪い夢でも見た?」

 最後の一つに、肩が跳ねる。背を丸めても誤魔化せず、むしろ、一連の動きは肯定したと同じ。
 そっか、と落ちる言葉に眉を寄せて。枕に押しつけた呼吸も、きっと聞こえてしまっている。
 夢だけど、夢ではない。それはいつか、必ず訪れる未来だ。避けられない現実だ。
 今まではその結末が来ること自体諦めていたのに。それでも生きたいからと足掻いて、逃げて、逃げ続けて。でも、逃げられなくて。
 ……でも、今は。違うと知ってしまった今は、どうすればいいのか。

「じゃあ、今日はここでゆっくりしよう。僕は一緒にいられないけど、ご飯は用意するから安心してね」
「……連れて、いかないのか」

 浮かんだ疑問を呟いたことを、すぐに後悔する。これではまるで強請っているようだ。
 顔を見せたくないのに。今は彼と離れていたいのに、矛盾している。
 もうすぐ手に入ると分かっているから、自由にさせてもいいと思っているのか。そう確信できるほどに、自分は……彼に、依存していると、気付かれているのか。
 鼓膜を擽る笑い声は、まるで肯定するかのよう。なのに弾んで、柔らかくて、心地が良くて。胸の奥がぐるり、混ざる。

「だって、逃げたいわけじゃないんでしょう? それに、君がここに慣れて、気が緩んできたのも間違ってはないだろうし」

 逃げたいわけではない。だって、逃げても無意味だと分かっている。
 ……以前ならそう誤魔化せていたのに。それも答えではあるはずなのに。

「だから今日はゆっくり――」
「逃げたい」

 呟きはあまりに小さく。なのに、男の耳には届いてしまったのだろう。
 僅かな動揺は、まだ足掻こうとするクラロへの呆れか、怒りか。あるいは、まだ楽しめるという期待なのか。
 どれでもいい。どれだっていい。認めたくない。考えたくない。これ以上、気付きたくない。

「……今だって、逃げている」

 ずっと、ずっと逃げ続けている。身体はどこにもいけなくても、ずっと。気付いてしまったから、逃げなければいけない。
 認めてしまえば、諦めてしまえば、本当に終わってしまう。それが真実だと思い知らされてしまう。
 だから、逃げたい。逃げていたい。このままずっと、気付かないままでいたいのに。どうしたって逃げられないと分かっているのに。
 それでも、もう、どうすればいいかなんて、わからなくて。

「逃げてもいいよ」

 そうしたくないと抱いていたはずの恐怖さえ忘れるほどに、あまりにも優しい響きだった。
 見上げた視界が滲んで、拭うことを忘れていたのに気付き。焦りは、涙を拭っていく指と一緒に消えていく。

「どれだけ逃げても、どれだけ遠くに行っても、ちゃんと見つけてあげる。……だって、僕が君を逃がしたこと、ないだろう?」

 呆れているのでもない。怒っているのでもない。それがクラロの性なのだろうと、そうせずにはいられないのだろうと、理解しているからこそ受け入れるように。
 その先で、本当はクラロがどうなりたいのかまで分かっているのだと、示すように。
 だから逃げてもいいと笑う赤が眩しくて、温かくて。なのに淀んで、深くて。また滲みそうになった目を、何度も何度も拭われる。

「でも、そうだね。もう逃げ疲れたんだとしたら……もうちょっとで、君も楽になれるよ」
「……なんで、言いきれるんだ」
「分かるよ。ずっと見てきたからね」

 分からないはずがないと、男が答える。ずっと、ずっと昔から。クラロが城に来る前から、あの村にいた時から。それよりもっとずっと前から。きっと、最初から。
 まだ予想でしかない可能性。聞いてしまえば、肯定されるという確信。

「あんた、は」

 問いたくないのに紡いだ言葉は、蕩けるような赤を見た瞬間に詰まってしまった。
 背が震えるほどに赤く、強く。なのに柔らかくて。愛おしいと語りかけてくるような光に、薄く吐いた息すらも止まるよう、唇を噛み締める。
 ……ダメだ。これ以上は。この先を聞いては、いけない。
 支えを失い、崩れた身体はシーツに受け止められる。
 枕に埋もれる顔を追いかけるよう、触れられる頭から与えられる温かさに、また視界が滲んでしまう。
 クスクス。笑う声が木霊して、心地良くて、辛い。

「ねぇ、キスしてもいい?」

 降り注ぐ声が近くて、明るくて、ぐちゃぐちゃにされていく。これ以上乱されたくないのに、これ以上、近づきたくないのに。
 気付きたくない。気付いていると、認めたく、ない。

「……勝手に、してるだろ、いつも」
「君が奴隷という立場に拘っていた時はね。……これは、恋人へのお願いだよ」

 囁く声がまるで不安がる子どものように聞こえて、騙されたフリをして目を向ける。
 寄せられた眉、揺れる赤。されど、そこに込められた熱は、やはり引かないまま。

「行ってくるね」

 影が近づいて、自然と目を伏せてしまう。触れ合う柔らかな唇。少しだけチクチクする髭。男の匂いと、ちゅ、と鳴るリップ音。
 舌は触れず、唇が重なるだけの、子ども騙しのようなキス。淫魔にとっては意味のない接触なのに、見上げた顔はあまりに満たされていて。
 見間違いだと思いたくて埋もれたシーツの中。笑う声は遠ざかって、最後に扉の閉まる音が響いた。
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