93 / 100
第二章
11-13.迎えた朝
しおりを挟む
……その目覚めを一言で表すなら『最悪』と称しただろう。
真っ先に感じたのは、喉の違和感。それから倦怠感と、節々の痛みも。悪寒か熱感があれば、ひどい風邪だと誤認していただろう。
ついでに言うなら目だって腫れぼったくて、指先一つ動かせる気がしない。
いよいよここで死ぬのか、なんて迫る悲壮感は、手に当たる柔らかな感触によって引き戻されていく。
ゆっくりと開いていく目蓋。差し込む光は、太陽の自然光ではなく部屋の照明。
瞬く度に焦点が合う視界で、目に入るのは見覚えのある家具たち。
朽ちかけていた机や椅子ではなく、煌びやかな装飾の施された物。手足を伸ばしても広々としたベッド。
ここがどこかを思い出して、自分が何をしていたか考えるよりも先に、影が動く。
「……起きた?」
近すぎて認識できなかったもの。ベッドに腰掛け、クラロを見つめていた深紅と視線が絡む。
逃げなければならなかった相手。逃げたくなかった存在。捨てられたくないからこそ、自分から手放して……それでも、本当は戻りたいと願った場所。
電撃のように駆け巡る記憶に肩が跳ねたクラロを、待ち続けていた男が柔らかく微笑む。
「おはよう、クラロ」
指の背が頬を撫で、泣きはらして赤くなった目元を辿っていく。
まるで壊れ物に触るように優しく、擽るようにそっと。たったそれだけで肌が粟立ち、呼び起こされる感覚に息を吐く。
心地良さと、気持ちよさと。何度も気を失いながら、それでも終わらなかった行為の名残を呼び起こされ。きゅう、と疼いた奥から鈍い重みと甘い痺れが襲いかかる。
泣き叫び、喚き。それでもしがみ付いて、何度も何度も求めて。ただ満たされていく幸福感が蘇り、クラロの肌を赤く染めていく。
もし身体が動けば、シーツの中に潜り込んでいただろう。思い出す痴態を振り払う気力もなく、頬を手に擦りつけたのも甘える仕草にしか見えない。
クスクスと笑う声に追い立てられ、定まっていたはずの視界がまた涙でにじみそうになる。
「っ……げほっ……ぅ……」
「さて、体調は……よくはなさそうだ」
有言実行とはいえ、無理をさせた自覚はあるのか。痛みに狭めた眉間が、労る指でゆっくりとほどけていく。
触れられるのも、見つめられるのも嬉しくて。嘘ではないのに、どこか満ち足りない。与えられれば与えられるほどに、胸の奥が掴まれたように痛む。
まるで底に穴が空いているようだ。どれだけ注がれてもこぼれ落ちてしまう。それを塞ぐだけの術を、クラロはまだ持っていない。
「喉痛いでしょ? 水を持ってくるから、ちょっと待ってて」
「――ぁ、」
手が離れれば、与えられた温度が途端に冷めて、向けられた背を見た瞬間に手を伸ばす。
動かないと思っていた指は辛うじて引っ掛かった服を掴み、剥がされないように、しがみ付く。
く、と引かれる感覚。違和感に気付き、振り返ったウェルゼイが再び自分を見た事への安堵と、この一瞬でも怯えてしまった事実。
どちらも呑みこみきれずに、噛み締めた唇を見つめる男が呼びかける。
「クラロ?」
たった三文字。それだけで、こんなにも簡単に嬉しくなって、それ以上に苦しい。
クラロ自身、この感情が依存か愛か、区別はついていない。愛していると囁かれ続け、刷り込まれた結果かもしれない。
あまりにも些細なことを褒められ続け、懐いただけと言われたって否定できない。
それでも、この男から離れたくないと認めてしまったから。そう伝えてしまったから、逃げることも抑えることも、もうクラロにはできない。
「……や、だ」
無意識の抑制から解放されても、正気のままその言葉を紡ぐのはあまりに重い。
自分の弱さを曝け出しているような、無防備にされていくような、そんな錯覚を抱いてしまう。
もう全て知られていて、隠しようもないとわかっているのに。
「はなれ、ないって……言った……」
それでも、離したくないから引き寄せようとして。近付けることも、近づくこともままならず、シーツに落ちた頭を撫でられる感覚が目を滲ませる。
「大丈夫、お水を取りに行くだけだよ」
「……や」
埋めたままの首を動かし、精一杯の否定を示す。
離れる理由も分かっている。すぐに戻ってくることだって、理解している。それでも、込み上げてくる喪失感に耐えられなくて、子どものように駄々を捏ねてしまう。
そんな我が儘に降り注ぐ声は呆れたものではなく、漏れる息はクラロに与えているものと同じ柔らかく、温かいもの。
「ふ、ふふ……しょうがないなぁ」
困ったような言葉を紡ぐのは、嬉しさの勝る声。甘く、蕩ける音色で囁いて、ベッドが緩やかに沈む。
クラロの身体を乗り越えて、反対側。中央に移る間に指が剥がれても、撫でる手は添えられたまま。
「ほら、おいで」
抱き寄せられて、腕の中。胡座の中で横抱きにされたクラロに差し出される一杯の水。
独りでに浮かんだそれを受け止めれば下から支えられ、傾けられるままに喉を潤す。
程よく冷えた水は微かに苦く、馴染み深い味に薬草が入っていると気付いて、さりげない配慮に胸の中が温かい。
「一杯で足りる? もっと?」
あっという間にグラスは空に。末端にまで染み渡る感覚に息を吐けば、おかわりを促され、考えるまでもなく腕はウェルゼイの背中に回される。
ギュウギュウと隙間無く触れ合って。それでも、まだ足りない。……まだ、満たされない。
「ふふっ……そっち?」
グラスは独りでに浮かび、テーブルの上に。空いた手がクラロの身体を包み込んで、同じだけの力で頭を撫でる。
指先に髪を絡ませ、耳を撫で、首を掠めて。戯れながら、触れ合いながら、笑う声は途切れない。
「困ったなぁ。こんなに可愛かったら、なんでも言うこと聞いちゃいそう」
つむじに与えられる口付け。落とされる甘い囁きに、じわじわと呼び起こされる欲。
歯止めは既に失われ、求めるのは空虚感を満たすだけの何か。
どうすればそこが埋まるのか、クラロは知らない。
……でも、ウェルゼイにしか埋められないことを、クラロは、分かっている。
「……みるく、らむ」
「うん?」
「ミルクラム。……食べさせてくれるって、言った」
もう、そうやって勧誘されたことが、何年も昔に思える。
あの時も、クラロが危険に冒されなければ待つつもりだったのだろう。
それこそ、何ヶ月でも、何年でも。クラロが受け入れるまで、ずっと。
「そんなに気に入ってたの? いいよ。食べたいならいつだって用意してあげるし、他の美味しい物も食べさせてあげる」
脈略のない我が儘に対し、思い出す素振りもないのは覚えているからだ。
別に本当に食べたいわけじゃない。ただ、埋める手段を探しているだけ。
「前食べたクッキーも欲しい」
「執務室に常備しておくよ。他の焼き菓子も一緒に置いてあげる」
「服も、細工のないやつがいい」
「うーん、便利だったけど仕方ないなぁ。新しいのを作るまでは、普通のシャツでいい?」
「……貞操帯も、直してくれるって言った」
「それならもう直ってるよ。付けるかは君の気分次第だけど」
最後に至っては、約束もしていないうえに、ウェルゼイにとっては邪魔でしかない。
だが、クラロがそれに依存していたと知っていたからこそ。大切にしていたと理解していたからこそ、直してくれた。
自分を守るための、唯一の盾。これまでクラロの正気を保ち続けていた防具。……今はもう、必要のないもの。
「……ふふっ」
首を振り、否定し。より強く身体に抱きつけば、笑う息が鼓膜を擽る。本当に嬉しいときの、少し癖のある笑い方。
それに気付いたのはもうずっと前。ただ、それすらも目を逸らしていただけ。
「お揃いの指輪、作るって、言った」
「もちろん。君の色に合わせた、僕の恋人だって見せつける為の指輪をね。できあがったら僕の分は君に嵌めてもらうつもりだよ」
腕に軽く触れられ、手を取られて。捨てることのできなかった指輪に口付けられれば、それ以上言葉は出ない。
これだけ言っても埋まりきらず、不安で、苦しくて。嬉しいのに、幸せなのに、辛い。
「ねぇ、クラロ。他は何が欲しい? どうすれば安心できる?」
だが、声に出せなくても男は分かっている。どれだけ深く身体を繋げても、抑止という呪いがとけた今も、クラロがまだ怯えていることを。不安だと感じていることを、理解している。
ずっと見守っていたから。ずっと、クラロだけを見続けていたから。
「このまま、君が満足できるまでこの部屋で一緒に過ごそうか。それとも、もっといっぱい気持ちいいことをする? 話したいことも、聞きたいこともいっぱいあるし、してあげたいことも数え切れないぐらいあるんだ。時間なんて、どれだけあっても足りないぐらいにね」
一つずつ、言われた順に考えて。どうすれば胸の痛みがなくなるか、当て嵌めてみて。
結局、根本に残る願いだけが、より浮き彫りになっただけ。
「……ずっと、一緒にいて」
満足できるまで、ではない。そんな日はきっとこないだろう。
これだけ近くにいても、抱きしめても、もう怯えることはないと分かっているのに、満たされない。
疑っている。彼をではない。いつか訪れる未来を。今はそうでも、いつか、来るかもしれない結末を。
やっぱりもう飽きたと、笑って紡がれる別れを。今はどれだけ夢中でも、淫魔と人間である限りその感覚は埋まらない。
人間である自分が、淫魔である彼を理解しきることは。その性質を納得することは、きっと、できないのだから。
「まだ捨てられると思ってる?」
引き摺り出された本音に、横に首を振る。嘘ではなくて、でも本音でもない。信じているけど、信じられない。
「……こわ、い」
信じるのが、怖い。これが不変と思うほど愚かにはなれない。
どれだけしがみ付いても、抱きしめても、離れたくないと思ったって。いつかは、来てしまう。
そうだとクラロは知っている。その予感が嘘ではないと、分かっている。
クラロが人間である限り、いつか、絶対に。
「うーん……そうだなぁ……」
ここまでしても、まだ信じてくれないのかと。そんな怒りは欠片もなく、それこそ本当に困ったように呟き、考える声に混ざる若干の喜び。
「ねえ、クラロ」
離れたくないと苦しむクラロを。それだけ自分と一緒にいたいと望んでいる恋人を、どうやったら救えるのかと考えて……もうその答えはあるのだと、髪を撫でる男が顎をすくう。
導かれた先。見上げた赤は蕩け、輝き。少しだけ困った顔で、それでも笑いながら。
「これはお願いじゃなくて提案なんだけど……ちょっと人間やめてみない?」
問いかけた男の笑みは、瞬く水色を見て深まった。
真っ先に感じたのは、喉の違和感。それから倦怠感と、節々の痛みも。悪寒か熱感があれば、ひどい風邪だと誤認していただろう。
ついでに言うなら目だって腫れぼったくて、指先一つ動かせる気がしない。
いよいよここで死ぬのか、なんて迫る悲壮感は、手に当たる柔らかな感触によって引き戻されていく。
ゆっくりと開いていく目蓋。差し込む光は、太陽の自然光ではなく部屋の照明。
瞬く度に焦点が合う視界で、目に入るのは見覚えのある家具たち。
朽ちかけていた机や椅子ではなく、煌びやかな装飾の施された物。手足を伸ばしても広々としたベッド。
ここがどこかを思い出して、自分が何をしていたか考えるよりも先に、影が動く。
「……起きた?」
近すぎて認識できなかったもの。ベッドに腰掛け、クラロを見つめていた深紅と視線が絡む。
逃げなければならなかった相手。逃げたくなかった存在。捨てられたくないからこそ、自分から手放して……それでも、本当は戻りたいと願った場所。
電撃のように駆け巡る記憶に肩が跳ねたクラロを、待ち続けていた男が柔らかく微笑む。
「おはよう、クラロ」
指の背が頬を撫で、泣きはらして赤くなった目元を辿っていく。
まるで壊れ物に触るように優しく、擽るようにそっと。たったそれだけで肌が粟立ち、呼び起こされる感覚に息を吐く。
心地良さと、気持ちよさと。何度も気を失いながら、それでも終わらなかった行為の名残を呼び起こされ。きゅう、と疼いた奥から鈍い重みと甘い痺れが襲いかかる。
泣き叫び、喚き。それでもしがみ付いて、何度も何度も求めて。ただ満たされていく幸福感が蘇り、クラロの肌を赤く染めていく。
もし身体が動けば、シーツの中に潜り込んでいただろう。思い出す痴態を振り払う気力もなく、頬を手に擦りつけたのも甘える仕草にしか見えない。
クスクスと笑う声に追い立てられ、定まっていたはずの視界がまた涙でにじみそうになる。
「っ……げほっ……ぅ……」
「さて、体調は……よくはなさそうだ」
有言実行とはいえ、無理をさせた自覚はあるのか。痛みに狭めた眉間が、労る指でゆっくりとほどけていく。
触れられるのも、見つめられるのも嬉しくて。嘘ではないのに、どこか満ち足りない。与えられれば与えられるほどに、胸の奥が掴まれたように痛む。
まるで底に穴が空いているようだ。どれだけ注がれてもこぼれ落ちてしまう。それを塞ぐだけの術を、クラロはまだ持っていない。
「喉痛いでしょ? 水を持ってくるから、ちょっと待ってて」
「――ぁ、」
手が離れれば、与えられた温度が途端に冷めて、向けられた背を見た瞬間に手を伸ばす。
動かないと思っていた指は辛うじて引っ掛かった服を掴み、剥がされないように、しがみ付く。
く、と引かれる感覚。違和感に気付き、振り返ったウェルゼイが再び自分を見た事への安堵と、この一瞬でも怯えてしまった事実。
どちらも呑みこみきれずに、噛み締めた唇を見つめる男が呼びかける。
「クラロ?」
たった三文字。それだけで、こんなにも簡単に嬉しくなって、それ以上に苦しい。
クラロ自身、この感情が依存か愛か、区別はついていない。愛していると囁かれ続け、刷り込まれた結果かもしれない。
あまりにも些細なことを褒められ続け、懐いただけと言われたって否定できない。
それでも、この男から離れたくないと認めてしまったから。そう伝えてしまったから、逃げることも抑えることも、もうクラロにはできない。
「……や、だ」
無意識の抑制から解放されても、正気のままその言葉を紡ぐのはあまりに重い。
自分の弱さを曝け出しているような、無防備にされていくような、そんな錯覚を抱いてしまう。
もう全て知られていて、隠しようもないとわかっているのに。
「はなれ、ないって……言った……」
それでも、離したくないから引き寄せようとして。近付けることも、近づくこともままならず、シーツに落ちた頭を撫でられる感覚が目を滲ませる。
「大丈夫、お水を取りに行くだけだよ」
「……や」
埋めたままの首を動かし、精一杯の否定を示す。
離れる理由も分かっている。すぐに戻ってくることだって、理解している。それでも、込み上げてくる喪失感に耐えられなくて、子どものように駄々を捏ねてしまう。
そんな我が儘に降り注ぐ声は呆れたものではなく、漏れる息はクラロに与えているものと同じ柔らかく、温かいもの。
「ふ、ふふ……しょうがないなぁ」
困ったような言葉を紡ぐのは、嬉しさの勝る声。甘く、蕩ける音色で囁いて、ベッドが緩やかに沈む。
クラロの身体を乗り越えて、反対側。中央に移る間に指が剥がれても、撫でる手は添えられたまま。
「ほら、おいで」
抱き寄せられて、腕の中。胡座の中で横抱きにされたクラロに差し出される一杯の水。
独りでに浮かんだそれを受け止めれば下から支えられ、傾けられるままに喉を潤す。
程よく冷えた水は微かに苦く、馴染み深い味に薬草が入っていると気付いて、さりげない配慮に胸の中が温かい。
「一杯で足りる? もっと?」
あっという間にグラスは空に。末端にまで染み渡る感覚に息を吐けば、おかわりを促され、考えるまでもなく腕はウェルゼイの背中に回される。
ギュウギュウと隙間無く触れ合って。それでも、まだ足りない。……まだ、満たされない。
「ふふっ……そっち?」
グラスは独りでに浮かび、テーブルの上に。空いた手がクラロの身体を包み込んで、同じだけの力で頭を撫でる。
指先に髪を絡ませ、耳を撫で、首を掠めて。戯れながら、触れ合いながら、笑う声は途切れない。
「困ったなぁ。こんなに可愛かったら、なんでも言うこと聞いちゃいそう」
つむじに与えられる口付け。落とされる甘い囁きに、じわじわと呼び起こされる欲。
歯止めは既に失われ、求めるのは空虚感を満たすだけの何か。
どうすればそこが埋まるのか、クラロは知らない。
……でも、ウェルゼイにしか埋められないことを、クラロは、分かっている。
「……みるく、らむ」
「うん?」
「ミルクラム。……食べさせてくれるって、言った」
もう、そうやって勧誘されたことが、何年も昔に思える。
あの時も、クラロが危険に冒されなければ待つつもりだったのだろう。
それこそ、何ヶ月でも、何年でも。クラロが受け入れるまで、ずっと。
「そんなに気に入ってたの? いいよ。食べたいならいつだって用意してあげるし、他の美味しい物も食べさせてあげる」
脈略のない我が儘に対し、思い出す素振りもないのは覚えているからだ。
別に本当に食べたいわけじゃない。ただ、埋める手段を探しているだけ。
「前食べたクッキーも欲しい」
「執務室に常備しておくよ。他の焼き菓子も一緒に置いてあげる」
「服も、細工のないやつがいい」
「うーん、便利だったけど仕方ないなぁ。新しいのを作るまでは、普通のシャツでいい?」
「……貞操帯も、直してくれるって言った」
「それならもう直ってるよ。付けるかは君の気分次第だけど」
最後に至っては、約束もしていないうえに、ウェルゼイにとっては邪魔でしかない。
だが、クラロがそれに依存していたと知っていたからこそ。大切にしていたと理解していたからこそ、直してくれた。
自分を守るための、唯一の盾。これまでクラロの正気を保ち続けていた防具。……今はもう、必要のないもの。
「……ふふっ」
首を振り、否定し。より強く身体に抱きつけば、笑う息が鼓膜を擽る。本当に嬉しいときの、少し癖のある笑い方。
それに気付いたのはもうずっと前。ただ、それすらも目を逸らしていただけ。
「お揃いの指輪、作るって、言った」
「もちろん。君の色に合わせた、僕の恋人だって見せつける為の指輪をね。できあがったら僕の分は君に嵌めてもらうつもりだよ」
腕に軽く触れられ、手を取られて。捨てることのできなかった指輪に口付けられれば、それ以上言葉は出ない。
これだけ言っても埋まりきらず、不安で、苦しくて。嬉しいのに、幸せなのに、辛い。
「ねぇ、クラロ。他は何が欲しい? どうすれば安心できる?」
だが、声に出せなくても男は分かっている。どれだけ深く身体を繋げても、抑止という呪いがとけた今も、クラロがまだ怯えていることを。不安だと感じていることを、理解している。
ずっと見守っていたから。ずっと、クラロだけを見続けていたから。
「このまま、君が満足できるまでこの部屋で一緒に過ごそうか。それとも、もっといっぱい気持ちいいことをする? 話したいことも、聞きたいこともいっぱいあるし、してあげたいことも数え切れないぐらいあるんだ。時間なんて、どれだけあっても足りないぐらいにね」
一つずつ、言われた順に考えて。どうすれば胸の痛みがなくなるか、当て嵌めてみて。
結局、根本に残る願いだけが、より浮き彫りになっただけ。
「……ずっと、一緒にいて」
満足できるまで、ではない。そんな日はきっとこないだろう。
これだけ近くにいても、抱きしめても、もう怯えることはないと分かっているのに、満たされない。
疑っている。彼をではない。いつか訪れる未来を。今はそうでも、いつか、来るかもしれない結末を。
やっぱりもう飽きたと、笑って紡がれる別れを。今はどれだけ夢中でも、淫魔と人間である限りその感覚は埋まらない。
人間である自分が、淫魔である彼を理解しきることは。その性質を納得することは、きっと、できないのだから。
「まだ捨てられると思ってる?」
引き摺り出された本音に、横に首を振る。嘘ではなくて、でも本音でもない。信じているけど、信じられない。
「……こわ、い」
信じるのが、怖い。これが不変と思うほど愚かにはなれない。
どれだけしがみ付いても、抱きしめても、離れたくないと思ったって。いつかは、来てしまう。
そうだとクラロは知っている。その予感が嘘ではないと、分かっている。
クラロが人間である限り、いつか、絶対に。
「うーん……そうだなぁ……」
ここまでしても、まだ信じてくれないのかと。そんな怒りは欠片もなく、それこそ本当に困ったように呟き、考える声に混ざる若干の喜び。
「ねえ、クラロ」
離れたくないと苦しむクラロを。それだけ自分と一緒にいたいと望んでいる恋人を、どうやったら救えるのかと考えて……もうその答えはあるのだと、髪を撫でる男が顎をすくう。
導かれた先。見上げた赤は蕩け、輝き。少しだけ困った顔で、それでも笑いながら。
「これはお願いじゃなくて提案なんだけど……ちょっと人間やめてみない?」
問いかけた男の笑みは、瞬く水色を見て深まった。
15
あなたにおすすめの小説
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。
伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい
マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。
最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡)
世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる