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第5章
1話 春告月の到来ともうひとつの結末
しおりを挟むエーゼル嬢がニアージュの名を騙ってしたためた手紙に端を発した、レトリー侯爵令息誘拐事件が一応の解決を見てから、数週間が経過した。
あれから、アドラシオンやニアージュの周囲では取り立てて大きな事件や事案は発生していない。やがて外気も徐々に暖かさを増し、今は日本で言う所の3月に当たる、春告月を迎えている。
本日の天候は朝から快晴。
朝晩はまだ冷え込みが強いが、日中の陽気はなかなかに心地よくなってきた。
ついでに言うなら、来月半ばにあるアドラシオンの誕生日に送るべく、鋭意制作中のプレゼント――赤いチューリップを2輪刺繍したハンカチも、順調に形になってきている。
この調子なら、余裕で誕生日までに間に合うだろう。
ニアージュはいつも通り、アナとニーネに朝起こされ、身支度を手伝ってもらい、階下の食堂へ移動する。
そこでいつも通り、アドラシオンと共に朝食を美味しく頂き、食後のお茶をゆっくりと味わう。するとそこにいつも通り、家令のアルマソンが、届いたばかりの新聞をアドラシオンに差し出してくるのだ。
いい意味で代わり映えのない、穏やかな日常の風景がそこにある。
とても喜ばしい事だった。
それから、アドラシオンが新聞を読み終わった後、ニアージュも新聞を読ませてもらい、王都やその近辺で何があったかなどを大まかに把握しておくのも、最近のニアージュの日課になっている。
仮の身分であったとしても、今のニアージュは公爵夫人。
世の中の移ろいや時流を知っておく事も、ある種重要な仕事なのだ。
(それでなくても、新年月になってから少しずつ、領地運営の仕事を手伝わせてもらえるようになったんだし、頑張りたいわよね。旦那様に信頼してもらえてる、何よりの証拠なんだから)
ニアージュは紅茶を口に含みながら小さく笑う。
しばらくから思っていたが、恋情や愛情が生み出す力というのは、本当に凄いものだ。
窮屈な上位貴族家の夫人としての立場も、アドラシオンの為だと思っただけで難なく受け入れてしまえたし、一筋縄ではいかない、難しい仕事という印象があった領地運営も、アドラシオンの役に立てると思えば臆する事なく学び始められた。
何より、かつての自分であれば3日と保たずにプッツン切れて、放り出している事請け合いの刺繍でさえ、アドラシオンが喜んでくれると思うと根性で頑張れる。
以前の自分の性根と照らし合わせて考えれば、まさにミラクルだと言ってよかった。
この先の近い未来に待っている、別離の日の事は敢えて考えていない。
確かに、未来に備えるのは大切な事。
だが、だからといって先にある悲しみにばかり囚われ、その日の訪れに身構えるばかりの日々を送り、今の喜びや楽しみをきちんと受け止めずに流してしまうなんて、あまりに勿体なさ過ぎる話だ。
アドラシオンとの契約期間は、まだあと2年残っている。
いずれ訪れる別れに消沈し、うつむいて項垂れるにはまだ早い。
ニアージュは心の底からそう思っている。
(――そう。今はまだ、自分にやれる事を精一杯やっていればいい。傍らにいてくれる人と、素直に笑い合っていればいいのよ。
物語の結末が完全なハッピーエンドじゃないとしても、そこに辿り着くまでの過程をハッピーなものにする事なら、幾らだってできるんだから……!)
改めて自分自身にそう言い聞かせつつ、チラリとアドラシオンの方へ目を向ければ、新聞を読んでいるその横顔が、明らかに渋いものになっていると気付いた。
そして、新聞を黙読している合間にちょいちょい挟まる、左手の親指の腹で顎をさする仕草。
その仕草は、アドラシオンが何か重大な事を思案している時、無意識によく出る癖だ。
どうやら今日の新聞には、なかなか不穏な話が載っているらしい。
「……。旦那様。新聞に、何か大変な事でも書かれているんですか?」
「……! ……ああ。王都の郊外で、大変な事があったようだ。君も読んでみるといい」
「はい。それでは失礼して……。……っ、これは……!」
ニアージュがアドラシオンから手渡された新聞、その1面に大きく書かれている見出しは、『シャリテ修道院放火さる』というものだった。
途端に心が重くなる。
シャリテ修道院は、罪を犯した貴族女性の更生施設を兼ねている場所だ。
本文には、その更生施設が昨日の未明、何者かの手によって放火の憂き目に遭い、多数の死傷者が出た、と書かれている。
記事によると、放火された箇所は、更生の為に修道院に入った、元貴族女性達が寝泊まりしている宿舎の1階部分。
ゆえに、彼女達とは別の棟で寝泊まりしている、修道院を管理する側の修道女達は全員無事だったが、件の元貴族女性達の大半は、逃げ遅れて亡くなってしまったらしい。
その話だけでも大変憂うべき事だが、それ以上にアドラシオンとニアージュを重い気分にさせたのは、そのシャリテ修道院が、元バラト侯爵令嬢エーゼルが送られた修道院であった事。
そして、今回の放火によって亡くなったとされる、女性達の名を記した一覧の中に、外ならぬエーゼルの名があった事だった。
「……。なんと言いますか……。正直な所、彼女を気の毒に思うより先に、きな臭さを感じてしまう私って、どうかしてるんでしょうか……」
「……。いや。そんな事はないさ。先日聞いた所によると、アルセン殿はあれから重い気の病を患って、特殊な病院の中に隔離され、半ば幽閉されるような状態で暮らしているらしい。社会復帰できる見込みも、現状ほぼゼロだという事だ。
その事実を鑑みれば、今回の修道院の放火は、あまりにタイミングよく発生した事件だと言っていいからな……」
「……ええ。でもきっと……いえ、間違いなく、証拠は皆無なんでしょうね」
「その通りだ。……ニア。一応言っておくが、この放火事件の事は、決して調べてはいけない。分かっているな?」
「分かっています。私は、そこまで好奇心や正義感が強い人間ではありません。それに、彼女の為にそこまでしてあげるような義理もありませんから。――後味は、とても悪いですけどね……」
ニアージュは、小さな嘆息をひとつ吐き、再び紅茶に口をつける。
なんだかさっきより、紅茶の渋みが強まっているような気がした。
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