パリの落書き

碧美安紗奈

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ニコラ side

現在①

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 晴れ渡る空にそびえるエッフェル塔は、パリを突き抜ける勢いだった。
 シャイヨー宮から望む景観は、一年前にニコラが歩みを止めたときから変わっていない。
 いや。パリ万博の昔から、そこは塔を見晴らすのに適した場所であり続けた。絶望と共に変化を止めた彼とは違って。

 二日着て皺だらけになったシャツにズボン、古いジャケットを羽織ったニコラを、ジョギング中の中年男性や買い物中の夫人が訝しげに眺めていく。もっとも、それは傷心の彼の瞳に映る光景だ。
 幸せそうな人々には、煌びやかな花の都が見えるだろう。

 幸福であろう市民に注目されるのは辛かったが、ニコラはなぜか街の放浪をやめられなかった。ちょうどあのときから一年を経たせいかもしれないが、当時のことはよく思い出せない。追想したくもなかった。
 それでも羽織っていたテーラードジャケットに隠れるように、彼はそこへやって来ていた。

 パレ・ロワイアル。その回廊に囲まれた庭園。

 規則的に整列する木々の合間に一定の間隔で配置されたベンチには、恋人たちの姿が目立った。耳元で囁き合ったり、抱擁したり、口付けたり……。

「見飽きた光景だな」

 優しそうな眼差しに不快そうな色を浮かべてニコラが毒づいたのは、縁遠くなって久しい光景だからだ。
「変化はないのかよ。悪いほうじゃなく、いいほうに……」
 小声で口にしながら、傍らのベンチの背もたれに片手を置いたとき。

 彼の心に違和感が生じた。

 正体はわからないが、ニコラはもう悩みたくはなかった。だから不安を振り払おうと首を振ったが、まさにそれによって、彼は答えを発見したのだった。

 ベンチの背もたれに、黒いインクで刻まれた落書きがあった。

 誰が記したかも知れない文章が、視界の端でちらついたのだ。
 だが、ニコラの脳裏では別な閃光が瞬いていた。
 記憶の片隅に長いことしまわれ、鍵をなくしたまま開けることができなくなっていた宝箱。それが開放されたのである。

 彼は、反射的に駆けだしていた。
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