テスター

西羽咲 花月

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原因~テスターサイド~

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私がこの雅高校にやってきたのは1年前のこと。


両親とも教師をしていることで、私自身も同じ教師になることは当たり前だと思っていた。


子供といっても高校生はもう十分大人だし、25歳の私にとっては会話をしていても年齢差をそれほど感じることがない。


この高校に赴任してきた私はまず1年生のクラスの副担任として働くことになった。


15歳の少年少女を前にして少し緊張したけれど、両親に教えてもらったとおり真面目に、実直に仕事をこなした。


「谷津先生は真面目でいい先生だから安心です」


保護者の人からそんな風に言われたこともある。


あたしがしてきたこと、今していることは間違いじゃなかったのだと感じられた瞬間だった。


その日、家に戻って両親に保護者からの感謝の言葉を伝えると2人ともともて喜んでくれた。


いつまでもこんな生活が続いていくのだろうと思っていたが、ある日を境になにかが変化し始めた。


それは先輩教師の何気ない一言から始まった。


「谷津先生はまだ25歳なんでしたっけ?」


50台半ばになるその先輩教師は、薄くなった頭をハンカチでぬぐいながらそう声をかけてきた。


昼休憩の時間だったし、何気ない会話のつもりだったんだろう。


私はお弁当から視線を外して「はい」と、うなづいた。


毎日のお弁当も自分で準備している。


卵焼きにウインナーに、昨日の晩御飯の残りのおひたし。


体に悪いから脂っこいものはあまり入れないようにしている。


これも両親が私に教えてくれたことだった。


体が元気ならどんな仕事でもこなせるんだから、食べ物には気を使いなさいと。


私はそれを疑うこともなく、素直に実行している。


「だったら、もう少しおしゃれをしてもいいんじゃないですか?」


男性教師は相変わらずハンカチで頭を拭きながら言った。


「おしゃれ……ですか?」


普段あまり聞きなれていない言葉に私は端を止めて聞き返した。


「えぇ。全然化粧もしてないでしょう?」


聞かれて私は自分の頬に手を当てた。


言われたとおりだった。


私は化粧をしないところか、まともに化粧品すら持っていないのだ。


就職活動中に少しファンデーションをつけていたことがあるけれど、就職が決まると同時にやめてしまった。


「おしゃれ、しないとまずいでしょうか?」


「まずいっていうか、若いのにもったいないなぁと思いますけどね。俺なんかはほら、もう終わってるから」


そう言って禿げた頭を佐々とペチペチと叩いてみせた。


そういうものだろうか。


若い内に化粧をしていたほうがいいのだろうか。


その辺のことを両親から学んだことのない私はなにもわからなかった。


ただ、意識して回りを確認してみると同い年の女性教師はみんなおしゃれだということがわかる。


私はいつもスーツ姿だけれど、中には動きやすくラフな格好の先生も多い。


普段着であんなものは持っていない私は、スーツで出勤するしかないのだ。


男性教師だって、ヒゲが伸びていたり不潔だったりする先生はいない。


生徒たちの前に出る存在だからこそ、見た目にもちゃんと気を使っているのがわかった。

更に学校内を歩いてみると、生徒たちのほうがバッチリメークをしている子が多いことに気がついた。


新作のメーク道具だったり、ファッションにすごく敏感だ。


こんな中で私はメークもせずに働いていたのかと思うと、急に焦燥感が生まれた。


私も少しくらい綺麗にしなきゃいけない。


そう思い、学校が終わると同時にメーク道具を買いに走った。


どんなものがいいのかわからないから、お店の人に聞いてオススメされたものをそのまま購入した。


使い方もわからないものがあったので、念入りに店員さんから話を聞いてから帰宅をした。


いつもより遅い時間に帰宅した私に「なにかあったの?」と、声をかけてくる母親。


私は「なんでもない」と簡単に返事をして自室へ向かった。


すぐに紙袋の中から化粧品を取り出してみた。


初めて使ってみるものも沢山あって、触れるだけで心が高鳴るのを感じた。


みんなこんなものをつけて仕事をしているんだ。


化粧が崩れていないかどうかずっと気にしていないといけないんじゃないだろうか?


そんな不安がふとよぎった。


学生たちが授業中でも手鏡を取り出して自分の顔を確認しているのを思い出す。


私もあんな風になったらどうしよう?


そう思って、左右に首を振った。


まさか、私があんな風に化粧お化けになるハズがない。


今日はたまたま先輩教師に言われたから、気になっているだけだ。


「ご飯ができたわよ」


母親の声に私は慌てて部屋を出たのだった。


☆☆☆

私はもう25歳だ。


お酒もタバコも解禁されているし、化粧をしたって問題ない。


わかっているのだけれど、両親に化粧後の顔を見られるのが恥ずかしい気がして、私は出勤前ギリギリの時間で化粧をして、外へ飛び出した。


なにも悪いことはしていないのになんだか悪いことをした気になって心臓がドクドクと早鐘を打っている。


これで今日はなにも言われないはずだ。


そう思い、軽い気持ちで学校へ向かったのだった。


☆☆☆

「おはようございます」


職員室へ入った瞬間、周囲がざわめいた。


教員たちがいっせいにこちらを見ている。


どうしたんだろう?


髪の毛がはねているだろうか?


手串で髪を整えながら自分の席へ向かう。


「おはようございます」


昨日化粧の話をしてきた先生へ向けて声をかけると、プリントの採点をしていた先生が顔をあげた。


「あぁ、おはよう――」


そこまで言ってビクリと体をはねさせると、机の上のコーヒーをこぼしてしまった。


白いプリントが茶色く染まっていき、慌ててハンカチでぬぐい始めた。


「た、谷津先生、化粧をしたんですね」


コーヒーを拭きながら先輩教師が言う。


「はい。少しだけですけど」


「そ、そうですか、いやぁビックリして、つい」


そう言って苦笑いを浮かべている。


私が化粧しただけでそんなに驚くことなのかな?


疑問に感じて首をかしげる。


心なしか他の先生たちが必死に笑いをかみ殺しているようにも感じられた。


でも、私はこのときなにも気がついていなかったのだった。


☆☆☆

授業が始まる前に職員会議が行われる。


その最中、教頭の視線がチラチラとこちらを向くことに気がついた。


やっぱり今日の私はなにかおかしいんだろうか?


そう思って自分の服装を確認する。


するとそれを見たほかの教師たちから含み笑いの声が漏れて聞こえてきた。


特に変なところはないみたいだけれど……。


そう思っていると教頭が軽く咳払いをした。


「最後に、谷津先生」


「は、はい」


途端に名前を呼ばれて背筋が伸びる。


先生に名前を呼ばれて緊張するなんて、学生のときとあまり変わっていないかもしれない。


「その化粧は落としてから授業へ向かってくださいね」


そう言われ、私は瞬きを繰り返した。


どうして化粧を落とさないといけないんだろう?


疑問に感じていると、隣の先輩教師が突然大きな声で笑いだした。


それは我慢の限界に達したという雰囲気の笑い方だ。


私が驚いていると、他の先生たちにも笑いが伝染していき、職員室の中はあっという間に笑い声に包まれてしまった。


私はひとり、なにがおかしいのかわからなくて立ち尽くす。


「谷津先生、その顔……まるで化け物ですよ」


先輩教師は笑いで涙を浮かべて、そう言ったのだった。


☆☆☆

私は職員室から駆け出してトイレに入った。


鏡で自分の顔を確認する。


化粧になれていないくせに朝慌てて化粧をしてきたせいか、鏡の中に移ったその顔は自分のものではなかった。


濃いアイシャドーに濃い口紅。


ファンデーションはムラになっているし、マスカラは間の周りまで真っ黒になっている。


「嘘でしょ、こんな顔で学校まで来たなんて」


呟き、慌てて化粧を落とす。


ジャバジャバと水で洗い流そうとすると、化粧が溶けて余計に汚くなっていく。


せっかく化粧をしてきたのに。


あれだけ頑張ったのに。


化粧品を見たときの胸の高鳴りはとうに消えうせて、今では惨めさで胸が押しつぶされてしまいそうだった。


職員室へ入った瞬間感じたみんなの視線は、私の顔を見て驚いていたからだったんだ。


そう理解すると悔しくて涙が滲んできた。


今までおしゃれなんて興味もなくて、どうでもいいと思っていた。


真面目に生きていくこと意外でこんな風に悔しい気持ちになるなんて、初めての経験だ。


その時廊下から足音が聞こえてきて慌てて個室に入って鍵をかけた。


ハンカチを取り出して顔を拭くと、みるみる化粧の色に染まっていく。


「谷津先生、今日はどうしたんだろうね?」


それは教員の声で、私は思わず耳を澄ませた。


「化粧のこと? びっくりしたよねぇ、普段は化粧っけないのにさぁ」


「きっと誰かに言われたんだろうね。少しはおしゃれしろって」


図星だった。


その結果がこれだ。


誰かに話を聞いてほしくて個室から出ようとしたときだった。


「でも、あの化粧はないよねぇ!」


女性教師はそう言って笑いはじめたのだ。


「だよね! どうやったらあんな化粧になるの?」


「初めての化粧にしても、ちょっとひどかったよね」


ケラケラと声を上げて笑う。


「普段から真面目だけがとりえなんだから、無理しなくていいのにね」


「わかる! ああいう地味な人がいてくれると、自然と仕事がそっちに流れていって私たちが楽できるんだし、谷津先生には当初のままでいてもらわないと!」


その言葉は胸に突き刺さるものがあった。


真面目だけがとりえ。


そんなの自分が一番よくわかっていたし、私が望んでそうなってものでもあった。


でも、それがそんな風に言われているなんて思ってもいなかった。


「今夜どこに飲みに行く?」


「この前おしゃれなお店見つけたんだぁ」


女性教師たちは急に興味を失ったように話題を変えて、トイレから出て行ったのだった。


その日からだった。


「谷津さん、メークやめたの?」


化粧を落として職員室へ戻ると、そう声をかけられた。


「は、はい」


「なんだぁ面白かったのにねぇ」


面白かった?


その言葉がひっかかったけれど、なにも言えなかった。


「でもま、谷津さんはそのままがいいよ。パッとしないけどね」


「そう、ですか」


今のもきっとほめ言葉じゃないよね?


だけど私はなにも言うことなく、自分のデスクへと向かったのだった。


教師たちの間で密かにささやかれ始めた私の噂は、簡単に生徒たちにも伝染して言った。


「谷津先生って彼氏いない暦イコール年齢って本当ですか?」


最初にそう聞かれたのは授業中のことだった。


普段おとなしく授業を聞いている生徒にそんなことを言われて、言葉を失ってしまった。


「あれ? 無言ってことは肯定ってこと? じゃあ先生ってまだ処女なんですかぁ?」


いかにも子供っぽい質問だ。


そんなことで動揺しちゃいけない。


無視するなり、軽くあしらうなりして授業を続けないといけない。


頭ではわかっているのに、行動に移すことができなかった。


私はただ呆然としてその男子生徒を見つめている。


「ちょっとやめなよ」


女子生徒の一人が声を上げてくれてホッと胸をなでおろす。


そうだ、ボーッとしている場合じゃない。


軽く咳払いをして授業を再開させようとした、そのときだった。


「谷津先生は今日メークに失敗して落ち込んでるんだからさ!」


女子生徒が笑いながらそう言い、スマホを取り出したのだ。


「スマホをしまいなさい!」


条件反射のように注意したが、効果はなかった。


あっという間に女子生徒周りに生徒たちが集まり、騒ぎはじめたのだ。


こんなことは初めてだった。


どうしよう。


こんなに真面目にしてきた私の授業が聞いてもらえないなんて、そんなことあるはずがないのに。


対処法がわからなくて混乱していたときだった。


不意にクラス内が爆笑の渦に包まれたのだ。


男子生徒たちはお腹を抱えて笑い、女子生徒たちも目に涙を浮かべている。


「なにをしているの!?」


笑っている生徒たちを押しのけて、中心へと向かう。


「これだよ、これ」


そう言って見せられたのは……化粧をしている私の姿だったのだ。


私は車から降りたところのようで、そこを激写されているのだ。


「なんなのこれは!」


思わず声が荒くなる。


いつの間にこんな写真を撮られていたのか、全く気がつかなかった。


すぐに女子生徒からスマホを取り上げようとしたが、背中に隠されてしまった。


「びっくりしたよぉ。先生が降りてきた途端こんな顔をしてるんだもん、思わず写真撮っちゃった」


そう言ってペロッと舌を出す。


その様子は全く悪びれておらず、体に寒気が走った。


人に隠し撮りをしておいて罪悪感を抱かない人間なんているのだと、初めて知った。


「お化け化粧女!」


「地味なくせに頑張るからこうなるんだよ」


「先生かわいそぉ。あたしならもう生きていけないなぁ」


そんな言葉が飛び交い、メマイを感じた。


これはなに?


一体どうなっているの?


真面目にしていれば絶対に訪れることはないと思っていた現実が目の前にある。


授業を進めることができない、学級崩壊という現実が。


いや、まだそこまで行っていないかもしれない。


何日も授業が進んでいないわけじゃない。


今日たまたまトラブルが発生してしまっただけだ。


私は気を取り直して教卓の前に立った。


そして生徒ひとりひとりを見つめる。


大丈夫。


この子たちは根はいい子たちだ。


面白い話題に食いついただけ。


ただ、それだけだ。


「それでは授業を再開します」


私の言葉に反論する生徒はいない。


ほら、大丈夫。


みんな私の授業を聞いてくれている。


だって私は少しも道を踏み外すことなく、真面目に生きてきたんだから。


チョ-クを持ち、黒板に向かう。


気持ちを落ち着けて板書しようとしたときだった。


「処女」


どこからか声が聞こてきて振り向いた。


しかし、生徒たちはみんな黒板を見ていたり、ノートをとっていたりする。


気のせい?


そう思って再び黒板を向き直る。


すると今度は背中に何かが当たった。


足元に落ちたそれを拾うと消しゴムのカスを丸めたものだった。


「これ、誰が投げたの?」


質問しても誰も答えない。


みんな無表情に黒板を見つめているだけ。


その目が私を笑っているように見えて、また背筋が寒くなった。


私は消しゴムのカスを強く握り締めて、ゴミ箱へ投げ捨てた。


その時、クスクスッと笑い声が聞こえてきた。


すぐに生徒たちを見る。


みんな真面目な顔をして黒板をうつしている。


得体の知れない気持ち悪さがこみ上げてくる。


私はもうなにをされても無視をすると決めて、教卓に立ったのだった。


☆☆☆

化粧だって練習をすればできるようになるはずだった。


今までがそうだったように、どんなことでも諦めなければ叶うはずだった。


私はそうやって努力をして、教師になったんだから。


私は自分の部屋の中で化粧品と向き合っていた。


いっそこのまま捨ててしまって、元の自分に戻るほうが楽かもしれない。


化粧の練習をする時間があれば、明日の授業の準備をしたほうがずっと有意義な時間をすごすことができる。


そうわかっているけれど、頭の中に浮かんでくるのはトイレで聞いた会話だった。


私が真面目でいてくれれば、その分仕事がはかどる。


その言葉が離れてくれなかった。


仕事は好きだから苦じゃないけれど、他の先生の仕事まで回ってきていたのだとわかるとさすがに不満を感じた。


私がみんなの分の仕事をしている間に、彼女たちは飲み歩いているのだ。


それは不公平だ。


不真面目だ。


私が生きてきた道を踏み外す行為でもある。


私は彼女たちを見返すためにももう少し化粧をしてみようと思ったのだ。


まずはファンデーション。


ムラにならないよう、しっかりと鏡を見ながら丁寧に塗っていく。


朝のあわただしい時間にこっそりと行う化粧とは違い、今度はうまく行った。


口紅も唇からはみ出さないように細心の注意を払う。


そうやってゆっくり時間をかけてやっていけば、私でもそこそこ綺麗だと思える顔になっていた。


鏡でそれを確認してホッと安堵のため息を吐き出す。


これなら明日先生や生徒たちに笑われることもなさそうだ。


「ちょっとなにしてるの?」


その声に驚いて振り向くと、いつの間にか母親が部屋の中に入ってきていた。


ノックがないのはいつものことだけど、メーク中だったので心臓がドクンッとはねた。


「あ、メークの練習中だよ」


私はできるだけ自然に見えるようにそう答えた。


この年齢でメークをすることは別に特別なことじゃないからだ。


それでも心臓がこれほど早鐘を打っているのは、両親の性格を把握していたからだった。


「そんなものしなくていいの!」


案の定、母親はしかめっ面を浮かべてそう言った。


「で、でも、少しくらメークしておかないと、私人前に出る仕事なんだし」


他の女性教師たちを見返したいという気持ちは押し殺した。


「なにを言ってるの? 教師が綺麗である必要なんてどこにあるの?」


母親は腕組みをして私を見下ろしている。


その威圧的な態度に言葉が喉に引っかかりそうになる。


今まで両親の言うとおりに生きてきたから、私は教師になれた。


その思いが反論を拒否している。


「それは、そうかもしれないけど……」


「もしかして、好きな人でもできたんじゃないでしょうね」


「そ、それは違うから!」


慌てて左右に首を振って反論する。


しかし、母親はジトッとした粘っこい視線を私へ向けた。


「どうかしらね? 恋愛なんて無駄なことする必要はないの。あんたもお母さんと同じようにお見合い結婚で十分よ。お母さんはそれで成功しているんだから」


胸を張って言う母親に私の胸の中に違和感が広がっていく。


思えばこの人はなんでもかんでも自分が生きてきたのと同じ道を私にも歩ませようとしている。


それは私にとって安全で安心する道だからだと思っていた。


でも、違う。


今私を見下ろしているその表情は、私を幸せにしたいと考えている母親の顔とは別物だった。


まるで、私だけ幸せになるなんて許さない。


そう言われているような気がして、背中が寒くなった。


「……本当は恋愛結婚したかったの?」


聞くと母親はあからさまに同様を見せた。


目が泳ぎ、たじろいで後ずさりをしたのだ。


「な、なにバカなことを言ってるの。とにかく化粧なんて無駄なことする必要ないからね!」


母親は自分の意見を一方的に私に押し付けると、乱暴に部屋から出て行ったのだった。


☆☆☆

母親からメーク禁止を言い渡された私は、仕方なく毎朝15分早く家を出てコンビニのトイレでメークをするようになった。


「あれ、谷津先生今日は化粧いい感じですね」


先輩教師にそう言ってもらえたときは心底安堵した。


これで私へのイジリは終わるだろう。


そう思っていた。


「谷津先生、最近調子に乗ってない?」


その言葉を聞いたのは校内の廊下でだった。


今まさに曲がり角を曲がろうとしていて、その先から聞こえてきた言葉だった。


それが先日、トイレで私のことを話題にしていた教師の声だとすぐに気がついた。


「私も思ってた。ちょっとメークしただけで人が変わったみたいになってるよね」


そうだろうか?


確かにメークははじめたけれど、いつもと変わらない仕事をしていたつもりだけど。


精神的に安心したことで、それが態度にも出ていたのかもしれない。


「ちょっとうっとおしいよね」


悪意のある言葉に一瞬心臓が止まってしまいそうだった。


普段イジメはダメ。


差別はダメと生徒に伝えている立場の人間でも、こうして影で悪質なことをする人は沢山いる。


立場がどうであれ、それがバレなければそれでいいと思っているのだ。


「あれ、やっちゃおうか」


「そうだね」


そんな会話をしながら遠ざかっていく足音。


あれってなんのことだろう?


2人の間だけでわかる言葉らしく、詳細を知る琴葉できなかった。


とりあえず注意しておいたほうがいいかもしれない。


そうして、私はまた日常に戻ったはずだった。


それなのに……。


「谷津先生が突然メークをはじめたのって、男性教師との寿退社を狙ったからだって本当ですかー?」


授業開始と同時に生徒にそんな風に質問をされて、私は動きを止めた。


「違います。少しくらいメークすることがマナーだと教えてもらったからです」


説明しながらも、心臓が早鐘を打つのがきこえてくる。


誰が生徒たちにそんなことを吹き込んだのか。


一瞬にしてあの2人の女性教師の顔が浮かんできた。


「嘘つき! 本当は男のためなんでしょう?」


「まじで? じゃあ先生退社すんの?」


「別にいいじゃん。教師がひとりいなくなるくらい」


口々に好き勝手言い始める生徒たち。


「静かにしなさい! 授業を始めますよ!」


私は教卓を叩いて声を張り上げた。


一瞬、教室内が静かになる。


「ムキになって。図星なんだ」


どこからか、そんな声が聞こえてきた。


それから毎日のように生徒から私へのイジリは続いた。


あの女性教師たちがどこかで生徒たちに噂を吹き込んでいることは明白だったが、なんの証拠もない。


「先生って地味なくせにメークだけ派手だよね」


「そのスーツ似合ってないですよ」


「おとなしいくせに、本当は男癖が悪いんですよね?」


そんなことを毎日のように言われた。


その都度否定することも疲れてきた時、生徒たちは私の授業をまともに聞かなくなっていた。


どれだけ「静かに」と注意しても。


どれだけ授業の説明をしても。


生徒たちは私の言葉を聞いてくれない。


「そんなに授業がしたいなら、ひとりでしてください。私たち、淫乱女の谷津先生から教わることなんてなにもないので」


クラス委員からそんなことを言われたときはさすがに愕然としてしまった。


生徒たちはただ楽しんで遊んでいるだけだと思っていた。


でも違うんだ。


女性教師たちの言葉を鵜呑みにして、本当に私のことを軽蔑している。


そう理解したときは頭の中が真っ白になった。


私は真面目に生きてきた。


だからこうして教卓に立つことができるようになった。


それが、たかがメークひとつでここまで崩壊するなんて……。


母親が言っていた通り、メークなんてする必要はなかったんだ。


私は私のままでいれば、それで幸せな人生を送ることができた。


見合い結婚だろうがなんだろうが、普通の家庭を築くことができるならそれでよかったんだ。


そう思っても、もう遅い。


メークをやめて出勤した日、教室内がざわめいた。


同時に「振られたんだ」と、声が聞こえて笑われた。


そうじゃないと説明しても、もう生徒たちが聞いてくれないことはわかっていた。


メークをやめても一度崩壊してしまった教室を立て直すのは安易じゃない。


生徒たちは今度は「ブス」とか「ババァ」という幼稚な言葉を投げかけてくるようになった。


それは教師たちの間でも知れ渡ることになり、職員会議にまで持ち出されてしまった。


「生徒にバカにされているようじゃ、この先やっていけませんよ。しっかりしてください」


それが、最終的な判断だった。


つまり、自分でなんとかしろということだ。


その結果を聞いて女性教師たちが含み笑いを浮かべていることに気がついた。


それから先は、私にとってのろいの時間だった。


「ブス」


「ババァ」


「地味」


「ダサイ」


生徒たちからその言葉を投げかけられるたびに、自分の心の中の何かがひとつ死んでいくようだった。


かわりに「可愛い」「綺麗」「素敵」と言う言葉を聞くのがいやになった。


それは自分とはかけ離れたものだから。


私が手に入れようとして、手に入れられなかったものだから。


やがって、社会のしくみにも気がついていく。


どれだけ性格が悪くても、外面と見た目がいい女性教師たちには本当に仕事が回ってこないことがわかった。


他の先生たちは「あの二人は仕事が遅いから」と言う。


それなら怒ればいいのに、怒ることもなく仕事は私に回ってくる。


それはすべて、彼女たちが綺麗で可愛いからだ。


私はそう思い込んでしまった。


最初の頃トイレで聞いたように、仕事は私に回ってくる。


可愛くて綺麗だと、人生が円滑に進んでいく。


そんな風に感じた。


でもそれはあまりにも不公平じゃないか。


私のほうがずっと頑張っているのに、どうしてこんなに苦労をしないといけないんだ。


その感情は綺麗な女性への妬みになった。


道端で綺麗な女性とすれ違うと、それだけで胸が悪くなる。


羨ましい、妬ましい、許せない。


そんな黒い感情があふれ出してしまいそうになる。


そして、一ヶ月前のあの日。


私はひとり残業をしていて、学校を出るのが遅くなった。


綺麗な2人の教師はさっさと帰ってしまったのに、私だけ……。


ひとりで残業をする間にその黒い感情はぶくぶくと膨れ上がっていた。


やっとの思いで仕事を終わらせて車に乗り込み、道を走らせる。


「どうして私だけ。どうして私だけ」


ブツブツと呟きながら運転していると他校の女子生徒たひとりで下校している姿を見つけた。


ラケットを持っているから、部活で遅くなったんだろう。


横を通り過ぎて、何気なくバックミラーで顔を確認する。


その瞬間可愛いと感じた。


整った輪郭、スッと通った鼻筋、大きな目。


私とはまるで正反対な容姿に思わずブレーキを踏んだ。


女子生徒は少し不振そうな表情を浮かべて車の横を通り過ぎていく。


あの子は私とは違うから、きっと円滑な人生を歩んでいることだろう。


部活でも、教室でもちやほやされているのかもしれない。


そしてこれからの人生もきっと……。


そう考えたとき、自然とアクセルを踏んでいた。


ハンドルを握る手に力がこもる。


ライトが少女の姿を浮かび上がらせ、それに向けてハンドルを切る。


私はなにをしてるんだろう?


これは両親から教わったことのないことだ。


真面目ともかけ離れた好意。


それでも途中でやめることはできなかった。


近づいてくる車に驚いて振り返る少女。


その瞬間私は少女の体を引いていたのだ。


確かな衝撃が車に走り、少女の体が横倒しに倒れる。


それを確認して、車を降りた。


それほどスピードを出していたわけじゃないけれど、少女は車の下で気絶していた。


幸い、タイヤで轢いてはいない。


私は少女の体を車の下から引きずり出すと、そのまま後部座席に乗せた。


可愛くて、綺麗な子。


私もこんな顔になれば人生が変わるはず。


きっと今からでも遅くない。


この子から、顔のパーツをひとつもらえばいいだけだから……。


☆☆☆

たどり着いた場所は誰もいない工事現場だった。


気絶している少女の手足を落ちていたロープでくくりつける。


その間に少女が目を覚ましてしまったけれど、民家は遠くてその声は誰にも聞こえない。


「だ、誰ですかあなた!?」


真っ青になって叫ぶ少女に返事をせず、私はその顔をまじまじと見つめた。


整った顔の中でも一番可愛いのは唇かな。


プックリとしていて潤いもある。


「あなたの唇、とても綺麗ね」


思わずそう口にしていた。


瞬間、少女がビクリと体を震わせる。


私は近くに落ちていた工具を握り締めて戻ってきた。


この唇を私につければ、きっと綺麗になれるはず。


そのためには少しの犠牲はつきものよ。


私は少女に近づいて、その唇を切り取った。


少女は悲鳴を上げ、暴れ、もだえ苦しんだ。


その間は少しかわいそうだと思ったけれど、唇を切り取った後はもう夢中だった。


私はそれを自分の唇と付け替えたのだ。


自分の唇を切り取る作業は簡単だった。


暴れないし、絶叫もしない。


ただ痛みを我慢すればそれでよかった。


そして、少女の唇をぬいつけた。


これで完璧だ。


私は綺麗になった。


誰にも笑われない顔になれたんだ。


その後、私は少女を殺害して近くの山に埋めた。


工事現場を選んだことで必要な道具はすべて手に入った。


そして、その日からテスターは生まれたのだった。


学校には交通事故に遭ったためしばらく入院すると伝えた。


両親には泊り込みの仕事があると嘘をついた。


その嘘もそろそろ限界かもしれないと思っていたところだった……。
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