あなたと過ごせた日々は幸せでした

蒸しケーキ

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※8.

「シューン!入るよ!!」

 扉の向こうからからアインスの声が聞こえたかと思うと、僕の返事を待つことなく、勢いよく扉が開けられた。手には、くしゃくしゃになった紙を持っていて、瞳には隠しきれない怒りが宿っていた。

「一方的に押しかけてきて、離婚届を渡して、そのまま姿を消す......。随分なことをしてくれたじゃないか、シューン。」

「り、離婚!?一体どういうことなのですか!?シューン様!」

 マーシュが困惑した様子で、僕に必死に問いかける。そうなるのも無理はない。

 ーーだって僕たちは周囲から見れば、円満で、幸せそのものの夫夫だったのだから。

「......そのままの意味だよ。」

 僕は覚悟を決めて、アインスを見つめた。

「離婚してほしいんだ。」

「理由を聞かせてくれ。」

 アインスは僕の言葉を聞いても、一歩も引かなかった。

「何が不満だった?何が、シューンをこんなことに追い込んだ?」

「......アインスは何も悪くないよ。」

 喉がきゅっと締まるような感じがして、声が震えないように話すので精一杯だった。

「これは僕の、僕自身の問題なんだ。」

「......どういうこと?」

 アインスの視線は微塵も逸れなかった。

「シューン自身に問題って、なにがあるの?浮気はありえない。病気だって特にはなかったはず。......まさか、誰かに唆されたのか?」

 その言葉に、身体がほんのわずか、反応してしまった。

 その一瞬で、アインスの疑念は確信へと変わった。

「......どこのどいつだ?いつからだ?」

「それは......言えないかな。」

「だったら、離婚なんてする必要はないだろ......。」

「僕、明日にはもう、ここを出て行くから。」

「......は?」

 アインスの顔から、さーっと血の気が引いていく。

「今、なんて言った?じょ、冗談でしょ......?シューン、これは何かの作戦か?俺を試すための......」

 僕は静かに首を横に振った。

「冗談でも試しでもないよ。アインスのお義父様も......了承してくださったからね。」

「っ!」

「もう、覆ることはないよ。」

「俺は......俺は認めない。」

 絞り出すような声だった。

「アインスが認めなくても......これは、僕が決めたことだから」

 僕の心はもう限界寸前だった。心が、悲鳴をあげる。

「......諦めて。」

 僕は精一杯、冷たい言葉を選ぶ。僕の言葉を聞くたびに、苦しそうにするアインスの顔を僕はこれ以上見たくない。そうしなければ、崩れてしまいそうだった。

「今日の夜......またここに来る。」

 アインスは、低く言った。

「それまで絶対にここで待ってて。」

「......分かった。それは守るよ。」

 僕は小さく頷いて、アインスの言葉を呑んだ。

「ありがとう。でもこれは受け取れないからここに置いておく。」

 アインスは、ほんの一瞬、安堵したような表情を浮かべた。そしてぐしゃぐしゃになった離婚届を机の上に置き、何も言わず、部屋を出て行った。

 扉が閉まる音が、やけに耳に響いた。

「......シューン様。......ここを、出て行かれるのですか。」

 マーシュは恐る恐る言葉を選ぶように、僕に問いかけた。

「うん、ごめんね。今まで隠してて。」

「いえ......それほどまでの葛藤が、シューン様の中におありだったのでしょう。」

 マーシュは必死に笑顔を取り繕いながら、それ以上聞いてくることはなかった。

「......ごめん。今は、少し一人になりたい。」

「......承知いたしました。何かあれば、いつも通りお呼びくださいね。」

 目に浮かんだ涙をこぼさぬまま、マーシュは静かに一礼し、部屋を出て行った。

 ーーごめんね、マーシュ。裏切る形になっちゃって。

 それから、僕はアインスを待っている間に、手紙を書いた。アインスへ。マーシュへ。それから屋敷の使用人た
ち一人一人に宛てて。

 どれだけ文字を重ねても、謝罪と感謝ばかりの言葉で溢れてしまい、何度も何度も書き直した。

***

 太陽が沈み、月が夜空を照らす頃。仕事を終えたアインスが、夕食を持って僕の部屋を訪ねてきた。

「今日はいつもの場所で食べないの?」

「うん。今日は......ここで一緒に食べたい。」

 それ以上、アインスは何も言わなかった。問い詰められることも、責められることもないまま、僕たちは穏やかな時間を過ごした。

 ーーだからこそ、この時間が少し苦しかった。

「なぁ、シューン考えは変わらなーー」

 その言葉を遮るように、僕はアインスにキスをした。今は、その話をしたくない。せっかく二人きりで過ごせる、最後の時間なのだから。

 ーーせめて、忘れないでほしい。アインスの記憶の中に、僕という存在を、深く刻みつけたかった。

 言葉の代わりに、身体を寄せた。逃げるように、縋るように、ただアインスを求めた。

 僕はキスをしながら、アインスのものにそっと手を置くと、すでにそこは固く張り詰めていた。僕はそのままアインスの下着を下ろし、アインスの熱塊に向かって舌を這わせ、先端を舐めたり、喉の奥でぎゅっと閉めたりを繰り返した。

「っ!シューン待って!は、話っ、を!」

 僕はその声に応えられなかった。きっと応えてしまえば僕はアインスに絆されてしまう。だから強引にアインスを襲うかのように、ただひたすらアインスの上に跨って、快楽に溺れたかった。

 困惑していたはずのアインスも、やがて強く必死に僕を抱き返してきた。エメラルドのような美しい瞳に自分が映し出される。

「......いなくならないでよ。」

 その悲痛な声が、願いが何度も耳元で囁かれる。

「......」

「いなくならないで、シューン」

「......うん」

 曖昧にそう返すことしかできなかった。それでも僕は、アインスを最後まで求め続けた。

***

 翌朝。隣を見ると、アインスはまだ眠っていた。

 ーーよかった。もともと錬金術科だったアインスに睡眠薬を盛るなんて、通用するかなと思っていたけど、どうやらうまくいったらしい。

 ほっ、と僕は一息ついた。

 自分からアインスを求めるなんて、普段慣れないことをしたせいか、身体には鈍い痛みが残っていたが、それを気にしている余裕はなかった。

 アインスを起こさないように、静かにベッドを抜け出し、乱雑に散らかった衣服を拾い集める。クローゼットから、用意しておいた綺麗な装いに着替えた。

 指輪も外そうとしたけどーー指先が止まった。これだけはどうしても外すことができなかった。

 僕は静かに眠っているアインスの額に、そっと口づける。

「......アインスと出会えて、僕は幸せだったよ。ありがとう。」

「......バイバイ。」

 僕は小さく息を吸って、アインスに別れを告げた。

 あらかじめ準備していた荷物を手に、僕は部屋を出た。屋敷の前には、すでにお義父様が用意した馬車が待っていた。

(......これに乗れってことか)

 行先は、僕の要望通りになってるならダリアに向かってくれるはず。

 ーーアインス、マーシュ、屋敷の皆。どうか元気でね。

 馬車に乗り込み、扉が閉まる。ダリアに向けて動き出した馬車の中で、僕は声を殺して泣いた。

 もうここには戻れないーーその事実が僕の心を苦しめた。
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