運命に花束を

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二人の王子

ツイてない一日 ①

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 僕は戸惑っていた。僕がランティスに行くと告げた直後、ツキノは声を荒げ、泣き出しそうな顔をして僕の前から逃げ出したのだ。ツキノは元々とてもドライな性格をしていて、僕に対する執着もそれほど見えはしない。
 ツキノはどちらかといえば僕がツキノの事を「好き好き」言っているのに仕方なく付き合っているという感じの態度を取っている事が多く、まさかあんな風に傷付いた顔をされるとは想像もしていなかった。
 確かにあの事件からこっち、ツキノは以前と比べて僕に好意を示してくれるようになった、けれど、それでもツキノはツキノで何も変わっていないと思っていた僕はそれにとても驚いてしまったのだ。
 だけど、ツキノのそんな姿を見て『悪い気はしないな』と思っている僕は、やっぱり叔父さん達の言うようにどこかおかしくなっているのだろうか? 僕も僕で基本的なスタンスは何も変わっていないのだけど、あの事件をきっかけにやはり僕達の関係はどこか変わってしまったのかもしれない。どこがどう変わったのか僕にはよく分からないけれど……

「カイ兄、おはよ! 今日は仕事? ツキ兄は?」

 いつもの如く元気な声で僕に飛び付いてきたのは第三騎士団長の1人息子、ウィル・レイトナーだ。

「ウィル、おはよう。ウィルは今日も元気だな」
「元気だよ! だから遊んで!」
「生憎だけど僕は今から仕事、ツキノはちょっと体調不良だから今日はウィルとは遊んでくれないよ」
「えぇ? ツキ兄どうしたの? この間は久しぶりに会ったけど、最近街で全然姿も見かけないし、どっか悪いの? 病気?」
「そういう訳じゃないんだけどね……」

 ウィルはツキノが襲われたあの事件の事を何も知らないはずだ。だからツキノが引き籠っている理由も当然知らない。
 あの事件は人が1人死んでいるにも関わらず、まるで何の事件もなかったかのように綺麗に隠蔽された。
 元々、死んだ騎士団員アイクは天涯孤独の身の上だった、そんな彼の存在を隠蔽するのにはそれほどの労力もかからなかったらしい。
 孤児院で生まれ育ったΩの彼が騎士団にいたのは騎士団の稼ぎならば若くして1人で生きていく事もできる程度の給金が支払われるからだ。けれど守りのいないΩは身を守る術が少ない、貧しい暮らし、先の見えない未来、そこに現われた裕福な家庭のαに彼は身勝手な要求を付きつけたのだ。
 追い詰められたΩはそうやってαを誑しこむ事がままある、それは場末の娼婦に多い手口だったが、彼もまた生活に追い詰められていたのだろう。
 同情する気はさらさらない、しかし、同じ男性Ω同士、話してみれば分かり合えた部分もあるのではないかと思う気持ちもなくはないのだ。それでもツキノにした事を僕は許す事はできないのだけど……

「カイ兄、どうしたの? なんか難しい顔してるね?」
「え? あぁ、別に何でもない。それよりウィル坊、学校は? お前は遊んでばっかりで大丈夫なのか?」
「えぇ? 別に勉強なんか義務じゃないし、どうせオレも15になったら騎士団員になるんだから、勉強なんてどうでもよくない?」
「お前騎士団長の息子だろ? 上に立つのは馬鹿じゃ務まらないって知ってるだろ?」
「うちの父ちゃん勉強なんて程々でいいっていつも言ってるぞ?」

 きょとん顔のウィルはけろっとそんな事を言う。それが親の教育方針ならば仕方がないか、と思いはするが、それでも将来を嘱望されている子供がこれでいいのか? と思わずにはいられない僕は苦笑した。

「ホント馬鹿でも間抜けでも、親が偉けりゃ出世できるもんなぁ、いいご身分の奴等が朝から目障りだな」

 ふいに聞こえた声に僕達は声の主を振り返る。そこにいたのはまだ歳若い騎士団員だ。たぶん僕が入団した頃か、それより少し前に入った奴等だと思うのだが、数人の少年はにやにやと嫌な笑みでこちらを見ていた。

「うちの騎士団、そういうのないの知らないの? 父ちゃんが騎士団長だからって出世できるなら、武闘会なんて必要ないじゃん」
「あんなの出来レースに決まってんだろ、所詮金持ちやお前みたいな奴等が出世するように最初から仕組まれてんだよ。俺等みたいな一般人は参加してるだけで、どうせ出世なんてできやしない。年功序列で出世してく方がまだ平等だっての。俺達みたいなのは一生平の兵卒で飼い殺されるんだ」
「だったら騎士団なんて辞めたらよくない? そういう風に思ってるなら兄ちゃん達騎士団には向いてないよ」

 ウィルはやはりけろりと言ってのける、僕は彼等に喧嘩を売られているのを理解しているのだが、ウィルは果たしてそれを理解して受け答えしているのかよく分からない。

「ウィル坊、もう止めときな。貴方達も行かないとそろそろ遅刻ですよね」

 僕はウィルと彼等の間に割って入ってそう言うのだが、彼等は、今度は僕を見やりにやにやと嫌な笑みを見せた。

「Ωが騎士団員とか、ホント止めて欲しいよな。番相手を探すならよそでやれっての。どのみちΩなんてβにも劣る人間の癖に偉そうな顔してんな」

 これ見よがしな中傷に僕は傷付くより先に驚いた。今僕達に絡んできている少年達はたぶん間違いなくβだと思う、βの人間はほとんどの場合バース性そのものを知りはしないはずなのだ、ましてやαやΩの区別が付く訳もない。

「君はなんでそんな事を言うんだろう? バース性を知っているって事は君には親族にバース性の人間がいるって事だよね? だったらΩがβより劣っているだなんて思わないはずだろ? Ωはαの子供を唯一宿せる存在なだけで、人として劣っているわけじゃない」
「は? Ωには動物みたいな発情期があるじゃないか、それが人として劣ってないなんてよく言えたもんだな。Ωは家畜と同じだ、αの子を生むだけの家畜」

 嘲笑を浮かべて彼は言った。

「君の身近にいるΩの人は可哀相だね、ううん、君はΩという存在が本当はどんな人間か知らないんじゃないの? Ωって言うのは選ぶ側の人間なんだよ? 強いαを選んで子作りする、唯一絶対の存在。αに顧みられる事もないβの妄言は聞き飽きてるんだ、αに選ばれる事も対等に扱われる事もないβなんて家畜以下じゃないか」
「な……」
「それに、僕、Ωだからって特別扱いで育てられたりしてないから、たぶん君達より劣ってる所なんてひとつもないよ、なんならやってみる? 体力勝負でも試合でも、知恵比べでも何でもいいよ?」

 にっこり笑って言ってやる。確かに僕はウィルやツキノに比べて多少力は劣っている、けれど彼等は選ばれた存在『α』だ、そんな彼等の中で揉まれて育った僕がβの彼等に負けるなど考えられない。見くびられては困る。
 徒党を組んでしか弱い相手だと思っている人間に絡めもしないような輩に負ける気など全くしない。

「Ωの癖に偉そうにっ!」
「その言葉そのまま兄ちゃん達に返すよ、βの癖に偉そうに! オレはαだしね、カイ兄をバース性で貶すなら同じように返すだけだから! Ωがβより格下だって言うんならβはαより格下だって認めてるんだろ? だったら兄ちゃん達オレより全然格下じゃん、馬~鹿、馬~鹿」

 彼等はウィルの言葉にぐっと言葉を詰まらせた。

「ガキが偉そうにっ! 俺は……!」
「次は年齢でそういう事言うんだ? なんならオレも相手になるよ? 年下のオレなんかにぼこぼこにされて恥じ掻きたいならいくらでも相手になってやる。格下扱いのΩと年下のガキ相手に負けるとかホント格好悪いし、絡むのもその辺にしといた方が兄ちゃん達の為だと思うけど?」

 ウィルは煽っているのか諌めているのか、よく分からない。怒らせようとしているのかな?
 少年達の手が腰に差した剣へと伸びた。剣は騎士団員の基本アイテムだけど、私闘は堅く禁じられている、それを使って喧嘩をすれば処罰は免れないのに、本気で馬鹿なのだろうか?
 しかも騎士団員同士の私闘はもちろんご法度だけど、何もしていない一般市民に剣を向けるのが駄目な事くらい基本中の基本なのに。

「おい、そこ! 何をやっている!」

 睨み合いを続けていた僕達の間に割って入ってきたのは、通りがかりの第一騎士団副団長キース・グレンジャーだった。

「お前達何をやっている! 騎士団員の私闘が禁じられているのは知っているだろう! 喧嘩なら勤務時間外でやれ。その制服を着ているという事は、お前達は騎士団という看板をしょって歩いているのと同じだ、見苦しいマネはするな!」

 叱責を受けたウィルが「オレ達は絡まれただけで何もしてない!」と反論すると、彼は「なんだウィル坊か……」と苦笑する。

「しかもカイトまで、ツキノと一緒にいる時ならともかく、お前が単独でこんな事になっているのは珍しいな」
「だから、絡まれたんですよ。僕達は何もしていない」

 「分かった、分かった」とそう言って、キース副団長は少年達を仕事に行けと手で追い払った。僕も出勤時間は迫っている、もう行こうと足を向けたら「お前は待て」と止められた。

「何ですか? 僕、仕事あるんですけど」

 幼い頃から遊んでもらったり、面倒を見てもらっているキース副団長と僕は気安い仲だが、こういう気安さがああいう輩を呼び寄せるというのを僕は分かっていた。何故ならこんな風に絡まれる事は初めてではないからだ。
 特に騎士団に入ってからそれは顕著で、第一騎士団に配属された僕を構い倒すナダールおじさんの配下の人達はこぞって皆上の人達で、無条件に上司に可愛がられている僕を気に入らないと思っている人間はどうやらたくさんいるようなのだ。

「話聞いたぞ、お前メルクードに行くんだって?」
「え……なんで知ってんの?」
「昨日お嬢が団長に報告に来た時、俺もそこにいたから」

 どうやらルイ姉さんがナダールおじさんに、僕のランティス行きの報告をした時、彼はその場にいたらしい。ホント身内は情報回るの早いよね。

「ねぇ、カイ兄メルクードって何処!? カイ兄何処行っちゃうの!?」
「メルクードはランティスの首都、そのくらいは覚えとかないと駄目だぞ、ウィル坊」

 キースの言葉に「えぇ……」とウィルは一瞬不満顔を見せたのだが、すぐに気を取り直したように「でも何で!? 何でメルクード行っちゃうの!?」と僕を見やる。

「う~んと、一言で言うなら人助け?」
「何それ? 誰を助けるの?」
「これって言っていい話?」

 僕がキース副団長を見上げると、彼も少しだけ困ったような顔をしている。

「助ける相手はランティス王国の要人、騎士団員からも何人か出す事になるんじゃないかな、対外的には交換留学の形を取るらしいから」
「交換留学?」

 ウィルは首を傾げる。

「ファルスから何人か人を送って、ランティスからは何人か送られてくる。それで他国について勉強するのが交換留学」
「そんな事、オレだって分かるよ! カイ兄はそれでメルクードに行くの? ツキ兄も?」
「ツキノは行かない。たぶんツキノはルーンに行く事になるんじゃないかな」
「なんでルーン? ルーンってノエルが住んでる所だよね?」
「ルーンにはツキノの伯父さんも暮らしてるからね」
「伯父さん? ……あぁ! この前の! エドワード・ラング!」

 エドワードおじさんをフルネームで呼び捨てて、ウィルは叫んだ。

「こら、ウィル坊、年上の人間を呼び捨てにするもんじゃない。ちゃんとエドワードさんと呼びなさい」

 キース副団長の言葉に「あぁ、そうだった」とウィルは悪びれもせずに笑顔を見せる。

「そっかぁ~いいなぁ、ツキ兄はエドワードさんの所なんだ。ルーンはノエルもいるしオレも行きたいなぁ」

 ウィルとノエルは何故か武闘会のあの短期間で意気投合して一緒につるんでいた、ウィルもノエルに会いたいのだろう「いいな、いいな」を繰り返す。

「ウィル坊はそんな事より、まずは自分の勉強だろ? ランティスの首都の名前も知らないようじゃ騎士団員としてやっていけないぞ」
「えぇ、そんなの知らなくても良くね? 場所なんて任務の時に覚えれば平気だよ」
「細かい地名はそうでも、基本的な事を何も知らないんじゃお話にならないだろ。因みにランティスの隣の国の名前ちゃんと覚えてるか?」
「え? ファルス?」
「もうひとつ」

 キースの言葉に、ウィルは「えへ」と笑顔を見せて誤魔化した。まさか、そんな事も知らないのか? と僕は呆れてしまう。

「ランティスの隣国の名前はメリア、ランティスとメリアは仲が悪い、それくらいまでは本当に社会常識だから知らないで済ませられる問題じゃないぞ。剣術体術を磨くのも結構だが、頭の中まで筋肉付けたら目も当てられない、そのくらいは覚えておけ」

 「はぁい」と気のない返事をして「オレってば、どっちかと言うと体で覚える派だから、実際に行かないとそういうの覚えられないんだよなぁ……」とぶつぶつと零す。

「ん? でも待てよ、カイ兄は今度ランティスに行くんだよね? 他にも行く人いるんだよね? だったらオレも付いて行ってもよくね?」
「な……お前は何を突然……」
「机に向かって勉強するのは好きじゃないんだ、でもよその国に行くってちょっと楽しそう。カイ兄のそれって交換留学なんだろ? 留学って言うからには勉強もするんだろ? オレ、そういうのの方がいいなぁ。うん、そうだよ! カイ兄、オレも連れてけ!」
「ちょっとウィル坊、何言い出してんの? そんなの出来る訳ないじゃん」

 ウィルの突然の言葉に僕は呆れて言葉も出ない。

「ウィル、遊びに行くんじゃないんだぞ」
「だから勉強するならそういうのの方がいいってオレも言ってんじゃん。決めた、決めた、オレもカイ兄に付いてく!」

 そうとなったら、とウィルは満面の笑みで踵を返した。

「オレ、父ちゃんにこの話してくる!」

 そんな言葉を残してウィルは駆けて行ってしまい、僕とキース副団長はそんなウィルの背中を唖然と見送った。

「まさか本気で付いて来るって事ないですよね……?」
「いや、さすがにこの話しには背後関係も色々あるし、人選は慎重にすると思うぞ。だけどアイン団長親馬鹿だから……普通の親なら止めるだろうけど、あそこも普通じゃないからなぁ」

 キースさんの言葉に僕は不安しかないのだけど大丈夫だろうか? そもそも魔窟と言われたランティスにあんな能天気な子供を連れて行っていいものか? いや、駄目だろう?

「アイン団長がまともに親らしく止めてくれる事を祈るしかないな」

 そんな風にキース団長はどこか投げやりに溜息を吐くので、僕の不安はますます募るばかりだった。




 キース副団長と別れ、今日の勤務先に向かうと、また先程の少年達に遭遇した。今日はとことんツイてない、朝っぱらからツキノの機嫌を損ねた時点で今日の僕の不運は確定したようなものかと、僕は心の中で溜息を吐いた。

「お、カイトじゃん、久しぶり」

 そんな時に気軽に声をかけてきたのはユリウス兄さんの友人のイグサル・トールマンさんだ。
 イグサルさんは実力のある人なのに極度の面倒くさがりで「人の上に立つのは面倒くさい」と武闘会ではわざと負け越しユリウス兄さんの下に付いていた変わり者だ。

「こんにちは、イグサルさん。イグサルさんも今日はここなんですか?」
「あぁ、今日は若い兵卒集めて合同訓練みたいだな。正直面倒くさいが、あんまりサボるとミヅキに怒られるからな」

 ミヅキさんというのはイグサルさんの幼馴染の女騎士だ、見た目は小柄な少年にも見えるのだが、歳はユリウス兄さんやイグサルさんと変わらない。体力勝負のこの騎士団で、彼女はどちらかといえば参謀タイプ。体力馬鹿のイグサルさんを上手く使って、要領よく仕事をこなしていく知能派として定評がある。

「でも、そう言う割にはミヅキさんの姿が見えませんけど?」
「あぁ、今日は他にもたくさん女騎士が来てるからな、ミヅキはそっちだ。『女同士の付き合いは、面倒くさいがきっちりこなしておかないと更に面倒くさい』って言ってな、そう思うなら付き合わなきゃいいのに、女同士は何であぁもつるみたがるかねぇ」

 呆れたようにイグサルさんは言うのだが、どちらかと言うと女子のコミュニティに籍を置いている事が多かった僕には、ミヅキさんの言う事も何となく分かってしまう。
 女の子達はともかく何でも一緒を好むのだ、逸脱すれば陰口を叩かれる事も多い。身内と認定されれば心強い味方になるが、一端敵に回したら非常に厄介なのが女子のコミュニティだ、そんな所もそつなくこなすミヅキさんはさすがに分かっているな、と僕は思った。
 何組かに分かれてばらばらと稽古が始まる。組み合わせ的には誰とやってもいいようだったので、僕はイグサルさんに相手を頼む。

「お前は相変わらず筋はいいのに、少しばかり力が足りないな。もう少し腕に筋肉付けろ」
「イグサルさんだって僕がΩだって事知ってるでしょ? 筋肉付きにくいんですよ。Ωの割に小さくて可愛い訳でもないし、ホント中途半端で困ってるんですよ」

 「あぁ、そういえばそうだったか?」とイグサルさんは笑う。そんなイグサルさんは限りなくα寄りのβと言える。というのも、イグサルさんの家系はほとんどがバース性の人間で、その中でβとして生まれた、少し不運な人だからだ。
 家族全員αかΩという中での唯一のβ、家族は彼を差別したりはしなかったが、やはり劣等感はあったらしい。βはどうしてもαに劣る、そういう無意識な家族の価値観に嫌気がさしていた彼の前に現れたのがデルクマン一家だった。
 デルクマン家もイグサルさんと同じバース性家系だが、彼等家族にはそういう価値観は一切存在しない。人の価値はバース性によって決まるものではない、それがデルクマン家の基本姿勢なのだ。
 その当時、第一騎士団の副団長はスタール第五騎士団長で彼もやはりβだったのだが、ナダールおじさんが一番重宝して頼りにしていたのがスタール団長だった事も大きい。
 スタール団長はデルクマン家の中に何故か家族のように馴染んでいた。
 そこには変な主従関係もなく、信頼できる仲間としてだけ彼はそこにいた。そしてスタール団長はその信頼に応えるように働き、そして自らを磨いて周りにいるαを差し置いて第五騎士団の騎士団長の座を獲得したのだ。
 βはαに劣る、そんな価値観は覆された。
 イグサルさんはそんな彼等を見ていて、βである事を自分自身で蔑んでいた自分に気付き、そんなだから家族に馬鹿にされるのだと思い至った。
 他人は他人、自分は自分。今自分が精一杯できる事をやればそれでいいと励んだ結果、彼もまたその辺にいるαよりも余程腕っ節の強い男に育ったのだが、一度人の上に立ってみて、それは自分に向かないと自覚したらしい。
 自分は人に使われてこそ本領発揮ができると自覚したイグサルさんが選んだ相棒がミヅキさんだ。幼馴染のミヅキさんはイグサルさんの扱いを心得ていた、知力はミヅキさん、体力はイグサルさん、そんな2人のコンビは最強で彼等はいつも2人でいる。
 一度付き合っているのか? と聞いた事があるのだが、2人は揃って即答で否定した。
 2人の関係は不思議だが、非常に安定感のある2人だ。そんな中に纏め役のユリウス兄さんが入って、3人はスリーマンセル。3人揃えば怖い物なしだと言われている。

「そういえば、今日はユリウス兄さんは?」
「あ? 分団長は会議だぞ。稽古の方がよほどマシってぼやきながら出掛けてった。俺もああいうのはホント嫌いだったから気楽になったな。ユリウスもそんなに嫌なら、兵卒に戻ってくればいいのにな」

 そう言ってイグサルさんは屈託もなく笑った。出世は出来レースだと劣等感丸出しで突っかかってくる人間がいる傍らで、出世なんか面倒くさいと笑っている実力者もいる。
 同じβなのに、この差は一体なんなのだろう?

「おい、イグサル。お前にはトールマン家の誇りはないのか? Ωとつるんで剣の稽古なんて遊んでいるのと同じだろ」

 先程僕に絡んできた少年の1人がまた僕達に声をかけてくる。というか、何だろう? この人、イグサルさんの友達?

「あぁ、トーマスまたお前か……別に俺が誰と剣の稽古をしてようと構わないだろう? なんならお前もやってみたらいい、カイトは強いぞ」

 イグサルさんは何事でもないという顔だが、僕は嫌だな……という顔が前面に出てしまい、彼は気を悪くしたのだろう、こちらを睨み付けた。

「何でαの俺がΩなんかと……」

 トーマスと呼ばれた少年が言いかけた言葉に反応して僕は「え……うっそだぁ」と思わず声を上げてしまった。
 だって彼からはαの匂いなど欠片もしない、最近はバース性のフェロモンを抑える薬もたくさん流通しているが、それは基本的にΩ用が多い。
 そもそもαは余程フェロモン過多の人間以外はフェロモンを抑制する必要がない。何故ならそのフェロモンで何か事件が起こるなどという事はないからだ。
 Ωのフェロモンはαを性的に興奮させる作用があるが、αのフェロモンは人を惹きつけはしても、どちらかと言えば崇拝の魅了なのでαが危険に陥る事はまずない。なので基本的にαは抑制剤を飲まないのが普通なのだ。
 唯一例外はΩのフェロモンに当てられないようにする抑制剤。彼等はそれを常備している事がほとんどだが、それはお守りのような物で常に服用している訳ではない。
 デルクマン家の人間は両親含めフェロモン過多の傾向にあり、ルイやユリウスもフェロモン抑制剤を常時服用していたが、それでも彼等からは微かにαのフェロモンが漏れてくる。けれど、今目の前にいる彼からは微かにもそんな匂いは感じられなかったのだ。
 僕の言葉にイグサルさんはよく分からない、という顔で小首を傾げる。

「何が嘘なんだ、カイト?」
「え? だってこの人βだろ? αの匂い全然しないし」
「それを俺に言われても困るんだがな、俺にはそれがどんなモノか分からない。だが、トーマスは俺の従兄弟でαなのは間違いない」

 イグサルさんの言葉に僕はまた「うっそだぁ」と言葉を返してしまうのだが、イグサルさんは「そんな事を言われてもな……」と困惑顔だ。その一方でイグサルさんの従兄弟トーマスは顔を赤く染め、ぷるぷると震えていた。
先程この人はウィルに『βの癖に偉そうに!』と反撃されても、言葉を返さなかったと思うのだけど……? あれ? そういえばこの人、あの時何か言いかけてたっけ?

「黙って聞いていれば嘘だ嘘だと失礼極まりない!」
「えぇ~だって、本当に僕には分からないだから仕方ないでしょう? こんなに匂いがしないαの人になんて初めて会いましたよ、余程抑制剤が体に合ってるんでしょうね? 何処の薬局の抑制剤ですか? 薬剤師の息子としては凄く気になる。言っても抑制剤の合う合わないは体質による所が大きいらしいから、お兄さんに合ってるってだけの話かもしれないですけど」
「俺は抑制剤など飲んではいない!」

 叫ぶ声と共に周囲に微かな柑橘系の薫りが広がった。それは風が吹けば消し飛んでしまうのではないかというほど微かな物で、僕はようやくこの人はαの中でもフェロモン量の少ない、限りなくβ寄りのαだったのだと気が付いた。
 正直、僕はフェロモンを感じ取る感度はあまり良くないのだ。周りにいたデルクマン一家はフェロモン過多の家系で普通にフェロモンを感じ取る事が出来ていたのだが、僕は匂いの薄い人は分からない。別に困ってもいないのだが、僕のその物言いは酷く彼を傷付けたらしい。
 バース性の中の格付けは割とフェロモン量で決まる事が多い。『フェロモンの量なんて体質の違いみたいなもので、格付け的にはなんの意味もないんだけどね……』とフェロモン過多のユリウス兄さんはいつも苦笑いしていたものだが、こうやって怒りのフェロモンをばら撒いても、こんなに微かにしか感じられないようでは威力も半減するというものだ。
 これだけ匂いがしないとなれば当然僕のように匂いに敏感ではないΩに気付かれる事もなく、Ωとの出会いの機会もあまりないのではないだろうか。

「ごめん、お兄さん。お兄さん、ちゃんとαだった!」
「ようやく分かったか、この出来損ないΩが!」

 出来損ないΩ……僕はちょっとかちんとくる。確かに僕は出来損ないのΩだと思う。Ωの癖に男だし、線も細くはない上に、最近はますます男らしく育っている。けれど、僕はあんたにそんな事を言われる筋合いはない、それで言ったらあんただって充分出来損ないのαじゃないか!
 不機嫌も露に彼を見やると、どこか遠くで、ぱんっ!と何かが弾けるような音が聞こえた。その音に聞き覚えがあった僕は音のした方向を向くと、そこに上がっていたのは数ヶ月前教えて貰った信号弾の煙が上がっていた、色は赤だ。

「ん? あれは……」

 イグサルさんもそれに気付いたのだろう、僅かに眉を顰めその煙を見上げる。
 緊急信号、赤は特別緊急事態だと確か母は言っていた。

「ツキノ……」

 僕はその煙を見て一気に血の気が引いた。それはあの時、あの事件の日に見た緊急信号に他ならない。
 方角は家の方向、まさか家にいるツキノに何かがあった!?

「あ、おい! カイト!」

 僕は無言で駆け出した。背中からイグサルさんの声が聞こえたが、説明している暇はない、あれが上がっているという事はツキノに何か緊急事態が起こっているという事だ、時は一刻を争う。
 その緊急信号に気付いた者は何人もいて皆一様にそれを見上げているが、その意味まで理解している者はいない様子で、彼等はただぼんやりと空を見上げていた。
 自宅までの道程を最短距離で駆け抜ける、騎士団の制服姿で全力疾走で駆け抜ける僕を不審者でも見るように見ている者もいたようだが、僕にはそんな事を気にする心の余裕もなかった。
 自宅に辿り着くと家の鍵は開きっぱなしだ、僕は恐る恐る家の中へと入るのだが、家の中はしんと静まり返り、完全にもぬけの殻だった。
 特に家の中が荒らされた様子もない、けれど少しだけ部屋の敷物がよれていたりと多少の違和感がある。

「ツキノ……?」

 家の中にツキノの気配がしない。全部の部屋を回ってみてもやはりツキノはいなかった。

「ツキノ!」

 何処だ? 何処に行った?! 部屋の中で息を吸い込む、幾つかのフェロモンの匂いが入り混じった匂いがする。こんな時ユリウス兄さんなら、誰がいたかもすぐに感知できるのに、僕にはそれが分からない。
 ツキノの匂いは分かりやすい、あともうひとつ嗅ぎ覚えのあるこの匂いはたぶんエドワードおじさん。それ以外の匂いはもう僕にはよく分からない。
 けれど、エドワードおじさんの匂いがするという事は、たぶんツキノは1人でいた訳ではないのだと思う。
 家の前、もう一度僕は息を吸い込む。室内と違って匂いなんてもうほとんどしない。それでも僕はツキノの微かな匂いを頼りにそちらへと足を向けた。



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過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈ 社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。 もらった能力は“全言語理解”と“回復力”! ……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈ キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん! 出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。 最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈ 攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉ -------------------- ※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!

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