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59.温泉旅館の異音①(怖さレベル:★★☆)

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(怖さレベル:★★☆:ふつうに怖い話)
『20代女性 菊池さん(仮)』

あれはそう、三月の半ばくらいだったでしょうか。

うちの妹の短大の卒業が決まり、来月からの就職も決まって、
残る春休みをダラダラと消化しているのを見かねて、
姉である私と卒業旅行に行こう、という話になってのです。

場所は有名な観光地のある温泉街で、
姉妹二人で二泊三日、ゆっくり休んでこようという計画でした。

しかし三月というとやはり卒業旅行や、
学生の休みと被るせいか、思い立った頃には宿はどこも埋まっていて、
残念ではあるけれど、ビジネスホテルにでも宿泊して、
温泉自体は現地の日帰りのものをはしごしようか、と諦めていたのですが、

「お姉ちゃん! 見てこれ、ラッキーだよ! 空いてるっ」
「えっ、ホント!」

偶然、キャンセルでも入ったのか、
妹がネットで探し出したその宿には、確かに『空き室』表記があります。

「オッケー、予約おねがい!」
「うん、バッチリ」

上機嫌の妹にそのまま手配をお願いし、
私は会社へ提出する休暇届の準備を始めたのでした。



「……ここ、その宿、だよね」

当日、予約していた宿の場所へ向かうと、
ネット写真の八割増しでうらびれた旅館が鎮座していました。

「ほんとに……ここ?」
「うん……名前も合ってるし……」

あまりの外観に、私が疑問の声を上げると、
妹のナツが携帯の画像と看板とを念入りに見比べています。

建物は一見、どこの廃旅館か、と言いたくなるような薄汚れ具合ですが、
なにせ観光地の宿ですし、きちんと商売として成り立っているからには、
そこまで悪質なところではなかろうと、私たちは少し警戒しつつも、
旅館の中へと足を踏み入れました。

「……いらっしゃいまし」
「わ、っ」

スッと柱の脇から現れた影に私は思わずたたらを踏みました。

「ご予約の方でいらっしゃいますか」
「は……はい、あの、菊池、で予約を……」
「菊池様。……二名でお越しのご予定でしたね」

その老婆はジロジロとぶしつけにこちらを眺めまわし、
後ろに引っ付く妹の姿を見つけて、ニタリと笑いました。

「私がこの宿の女将をしております。
 まずはお部屋へ案内致しますので、どうぞ、お履物はこちらへ」
「は……はい……」

ナツもすっかり委縮してしまい、
目前の女将の後ろを私がついていっても、
影に隠れるかのようにびくびくと腕にしがみついています。

キィ、ギシッ

木造の廊下が、体重の重みでか、
ぎしぎしときしんだ音を立てました。

(これ……重量のある人が通ったらアウトなんじゃないの……)

そんなある種失礼な感想が浮かぶほど、
床の木材は不穏な異音を上げています。

「お待たせいたしました。……こちらでございます」

連れて来られたのは、この屋敷の中でもかなり奥まった場所。
宿の一番奥、そしてその端の部屋です。

プレート部分には、旅館らしく「桔梗の間」と記されていました。

「ご夕食は夕刻六時にお持ち致します。外出の際にはお声がけ下さいませ。
 ……それまで、どうぞごゆるりと」

女将は意外なほど丁寧にお辞儀したかと思うと、
スススッと音もなく部屋から退出していきました。

「ま、まぁ、良かったじゃん! こんな繁忙期に旅館泊まれてさ」

妹は空元気とわかるほど声のトーンを上げ、
荷物を抱えてスタスタと部屋の中へ上がっていきました。

「あ、ち、ちょっと」

追いかけるようにして中へ入ると、

「わーっ、案外綺麗だよ、お姉ちゃん」

意外、と言ったら失礼ですが、確かに室内は、
ハッと気分が高揚するような、落ち着いた内装でした。

畳の敷かれた居間を挟んで、
桔梗の模様が描かれた障子で仕切られた寝室。

中央にあるちゃぶ台には和菓子とお湯の入ったポット、
そしてその向こうのベランダ部分からは、温泉街を一望でき、
薄く開いた窓からは、冬と春の狭間の空気が静かに流れ込んできています。

そんな穏やかな風景に鬱々としていた気分など、
あっという間に吹き飛んでしまいました。

「……どんな部屋が出てくるかと思ったけど、ホッとしたよ」

私が心からの感想を呻くと、妹はケラケラと声を上げて笑い、

「とりこし苦労で良かったね。さぁ、醍醐味の温泉、さっそく行こーよ!」

と、意気揚々と支度を始めたのでした。



「ほー……年季入ってるなぁ」

大浴場、とペンキで殴り書きされたような
古びた木製看板の案内に導かれるがままたどり着いたそこは、
今まで銭湯などロクに行ったことのない身からすると、
逆に新鮮味を感じるほどに年月を感じさせる佇まいでした。

脱衣所には薄緑色のペンキの剥がれかけたロッカーが立ち並び、
カギは壊れているのか半開きのものばかり。

衣類用の網カゴはささくれがあちこち飛び出ていて、
手にチクチクと刺さってくる始末です。

時間帯か、他の客らしき姿は一つもありませんでした。

「ま、まぁ、お湯はまちがいなく源泉かけ流しってあったし」
「まーね。ちょっと古いくらいの方が、趣もあるってモンかもね」

これ以上文句を言っても仕方ないと、さっさと服を畳んでカゴに押し込んでいると。

「……ん?」

フッ、と。

脱衣所の奥にある洗面台。
大きな鏡が立ち並ぶその場所に、何かが映りました。

一瞬、ほんの一瞬。

どこか灰色がかった、人影のような小さな何かが――。

「お姉ちゃん、どしたの?」
「……い、いや」

見間違い、とも思えるわずかな間。

しかし、くっきりと網膜に焼きついたその姿は、
小さな子どもの姿に見えたのです。

(……か、勘違いだよね)

うすら寒い予感が湧き上がったものの、せっかくの楽しい旅行。
妙に騒ぎ立てて雰囲気を壊すのははばかられます。

「……ご、ごめんごめん、なんでもないよ。早くお風呂の方、行こ」
「? うん」

キョトンと小首を傾げる妹をぐいぐいと浴場の方へ押し出し、
私は何も見なかったことにしよう、と心のうちで決めていました。



「なんだかんだ、良いお風呂に食事だったね~」

ホワホワと湯気を出しつつ、妹は笑顔で寝転がりました。

あの後、風呂から上がって食事をとり、
また再び風呂へ入って、今。

敷いた布団は幸いカビくさいこともなく、
ナツはすっかり安らいでゴロゴロと休暇を満喫しています。

そんな妹を苦笑しつつ見守り、
私はフッ、とあの風呂場で見た影のことを思い返しました。

ほんの一瞬であったけれど、
鏡に映り込んだ子どものような影。

今までオカルト染みた出来事になど遭遇したこともないけれど、
あれは、どう考えても現実の人間じゃなく――、

「……お姉ちゃん?」
「あ……ああ、ごめん。ボーッとしてた」

ぼんやりとしていたのを見とがめたか、
ナツが不安げに顔を覗き込んできます。

「もー、疲れが出てるんだよ、きっと。ね、早く寝ちゃおっ」
「ん……そーだね」

確かに、せっかくの旅行です。

明日は観光も兼ねて、一日ゆっくりする予定ですし、
見間違いかもしれないそれに気を取られていては、休まるものも休まりません。

妹に促されるがまま、私も床につくことにしました。

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