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92.鬼除け③(怖さレベル:★☆☆)
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ズンッ……ザッ……フシュー……
時折耳に入ってくる風のような音は、鬼の息遣いか。
「…………っ!!」
小屋のほのかな明かりに照らされた鬼の顔に、
オレは悲鳴がこぼれぬように必死で口を覆いました。
おとぎ話に伝え聞く悪鬼より、なお凶悪な、地獄の使者かくや。
人間がどれほど罪を犯してもなお、
これほどの顔にはならないと断言できるほどの、人ならざる顔。
巨体、黄緑色の肌、角。
そのすべてを凌駕する、これぞ悪鬼と言わんばかりの、顔。
金縛り状態に陥ったオレは、牛舎の影で
おじと二人、もはや身じろぎすらとれません。
ザッ……ザッ……フシュー……
ついに、鬼が。
牛舎の、あの鬼除けヒモを挟んだ、真向かいに。
「…………ッ!」
ギロリ、と不躾なまでの目つき。
低く武骨な鼻が、クンクンと臭いをかぐようにヒクついています。
ブルブルと身体を震わせつつ、鬼の視線から
逃れようと、さらに物陰に身を潜めた時。
(えっ……お、おじさんが、いない)
ついさっきまで、共に身を潜めていたはずの彼の姿が見えません。
足音だってしなかったし、声かけ一つ、なにも。
(ま……さか)
恐ろしい想像にいきつき、さきほどまでとは違う恐怖に、
血の気が引いていくのを感じました。
(おとりに……生け贄に、された……?!)
鬼はすぐ目前。
例の鬼除けとやらはそのまま設置されていますが、
『効力はずっと続かない』と言っていた――。
ギョロギョロと大きな目がなにかを探るように小屋を見下ろしています。
圧倒的な強者による、命を握られているという恐怖。
少しでも動いたら、このままあの巨大な腕に縊り殺される。
そんな妄想とも、この後起こる未来ともいえぬ光景が、脳内に浮かび上がりました。
(にっ、逃げない、と)
しかし、このまま身を隠していても、
おそらく食い物にされてしまうだけ。
オレが意を決して、反対方向へ全力で逃げ去ろうと、靴紐を結び直した、その時。
――ブモオォォオ
「えっ……」
大気を切り裂くような、牛の大絶叫が響き渡りました。
ブモオォ、モッ、グッ
アルバイト中には、おおよそ耳にしたことのない、異常な鳴き声。
まるで助けを乞うかのようなそのいななきは、まさに――断末魔そのもの。
「あ、あぁ……」
その声にいざなわれるように視線を上げたその向こう。
赤いヒモの先に、無残な光景が目に入りました。
バリッ……バリッ……
暴れまわる四肢が激しくもがき、鼻や口からは
ダラダラと涎と血液をたれ流すその獣。
生きたままの牛をむさぼり食らう、鬼の姿がありました。
内臓はまろび出て、折れた角ごと首が激しく揺さぶられ、
牛の身体からは、その度に液体と固形物がはじけ飛びます。
うつろな眼窩からは、まだ少しだけ生命の光も見えて、それと目が合った――ような気がしました。
「――ッ! う、ぐ……っ」
この二週間世話してきた、愛着のある牛たち。
そのうちの一頭が、むごたらしく食い散らかされている光景に、
オレは吐き気をこらえるのが精一杯でした。
ブモッ……バキッ、ボリッ……
やがてか細い鳴き声すら聞こえなくなり、
骨の砕ける音や、肉のつぶれる音が残響のようにひたすら静かな夜を揺らしています。
「……オイ! 隠れていなきゃダメだろう!」
と、姿をくらましていたおじが、中腰のまま
呆然と立ちすくむオレの背を叩きました。
「ぅぐ……だって……っ」
「……まぁ、仕方ないか。……行くぞ」
「えっ……ど、どこへ」
肩を貸してくれたおじは、さきほどまでのコソコソした素振りと違い、
足音を隠すことなく歩き始めました。
「うちに……母屋に戻るぞ」
「えっ……お、鬼は……?」
「棒げモンを食ったから、今日はもう心配ねぇ」
おじは眉をギュッと歪ませて、呻くように続けました。
「……アレはうちの乳牛のうちの、もう年とって乳が出にくくなった子だ。
……可哀そうだが、貢げモノになってもらうほか、なかった」
おじがいなくなっていたのは、どうやら
牛を鬼の元へ誘導するためだったようでした。
(……人間じゃ、なかったのか)
オレがおじを疑った申し訳なさと、あの牛の最期の有様に
なんの返答もできずに黙り込んでいると、
「……アレは食い終わったら満足して帰る。今のうちに戻らんと」
未だバリバリと耳に刺さる咀嚼音に苛まれながら、
オレとおじの二人は、そっと牛舎から家の中へと避難したのでした。
翌朝。眠れぬまま夜を明かしたオレが牛舎で目にしたものは、
あの赤いヒモの張られた場所の前に残る、血だまりだけでした。
骨も肉も内蔵も、ひとかけらとしてそこに残ってはいません。
ただ、昨日の現象の証拠として、
唯一、血痕だけが散らばっていました。
魂が抜けたように佇むオレに対し、おじは淡々と、
「昔からこの牧場には鬼がやってくる」こと、
「生け贄を一体でも捧げればしばらく害をなさない」こと。
そしてなによりも、
「鬼は福をもたらす」ことを話してくれました。
なんでも、この襲来する鬼は神としての側面も持っているらしく、
昨日のように捧げものを与えると、礼を返してくれるというのです。
たしかにおじ一家は、さほど設備の充実していない酪農家であっても、
わりと裕福な暮らしをしているようでした。
オレに支払う給料もだいぶ気前がよく、
そうふるまえるのも、その鬼の恩恵なのだとか。
……え? あぁ、もちろん聞きましたよ。
生け贄を忘れてしまったら、どうなるのかって。
んー……いやぁね。これはちょっと……
オレの口からは言えません。
ですが、実はオレ……おじに、牧場を継いでくれないか、って誘われているんです。
仕事も見込みがあって、若くて、
鬼の存在もすでに知っているから、って。
就職難の昨今、おじ一家の年収を聞いてしまい、
オレの心は正直揺らいでいて……。
でももしそうなったら、あの鬼とは、
ずっとつきあっていかなきゃならないわけで。
それにもし貢物を忘れてしまったら。
おじの牧場と仲の良かった別の酪農家さん家みたいに、
一家すべて没落……っと、これは失言でしたね。
そんなわけで、ここ一か月二か月、ずーっと悩んでいるんです。
莫大な収入と、鬼への恐怖。
……あなただったら、どちらを取りますか?
時折耳に入ってくる風のような音は、鬼の息遣いか。
「…………っ!!」
小屋のほのかな明かりに照らされた鬼の顔に、
オレは悲鳴がこぼれぬように必死で口を覆いました。
おとぎ話に伝え聞く悪鬼より、なお凶悪な、地獄の使者かくや。
人間がどれほど罪を犯してもなお、
これほどの顔にはならないと断言できるほどの、人ならざる顔。
巨体、黄緑色の肌、角。
そのすべてを凌駕する、これぞ悪鬼と言わんばかりの、顔。
金縛り状態に陥ったオレは、牛舎の影で
おじと二人、もはや身じろぎすらとれません。
ザッ……ザッ……フシュー……
ついに、鬼が。
牛舎の、あの鬼除けヒモを挟んだ、真向かいに。
「…………ッ!」
ギロリ、と不躾なまでの目つき。
低く武骨な鼻が、クンクンと臭いをかぐようにヒクついています。
ブルブルと身体を震わせつつ、鬼の視線から
逃れようと、さらに物陰に身を潜めた時。
(えっ……お、おじさんが、いない)
ついさっきまで、共に身を潜めていたはずの彼の姿が見えません。
足音だってしなかったし、声かけ一つ、なにも。
(ま……さか)
恐ろしい想像にいきつき、さきほどまでとは違う恐怖に、
血の気が引いていくのを感じました。
(おとりに……生け贄に、された……?!)
鬼はすぐ目前。
例の鬼除けとやらはそのまま設置されていますが、
『効力はずっと続かない』と言っていた――。
ギョロギョロと大きな目がなにかを探るように小屋を見下ろしています。
圧倒的な強者による、命を握られているという恐怖。
少しでも動いたら、このままあの巨大な腕に縊り殺される。
そんな妄想とも、この後起こる未来ともいえぬ光景が、脳内に浮かび上がりました。
(にっ、逃げない、と)
しかし、このまま身を隠していても、
おそらく食い物にされてしまうだけ。
オレが意を決して、反対方向へ全力で逃げ去ろうと、靴紐を結び直した、その時。
――ブモオォォオ
「えっ……」
大気を切り裂くような、牛の大絶叫が響き渡りました。
ブモオォ、モッ、グッ
アルバイト中には、おおよそ耳にしたことのない、異常な鳴き声。
まるで助けを乞うかのようなそのいななきは、まさに――断末魔そのもの。
「あ、あぁ……」
その声にいざなわれるように視線を上げたその向こう。
赤いヒモの先に、無残な光景が目に入りました。
バリッ……バリッ……
暴れまわる四肢が激しくもがき、鼻や口からは
ダラダラと涎と血液をたれ流すその獣。
生きたままの牛をむさぼり食らう、鬼の姿がありました。
内臓はまろび出て、折れた角ごと首が激しく揺さぶられ、
牛の身体からは、その度に液体と固形物がはじけ飛びます。
うつろな眼窩からは、まだ少しだけ生命の光も見えて、それと目が合った――ような気がしました。
「――ッ! う、ぐ……っ」
この二週間世話してきた、愛着のある牛たち。
そのうちの一頭が、むごたらしく食い散らかされている光景に、
オレは吐き気をこらえるのが精一杯でした。
ブモッ……バキッ、ボリッ……
やがてか細い鳴き声すら聞こえなくなり、
骨の砕ける音や、肉のつぶれる音が残響のようにひたすら静かな夜を揺らしています。
「……オイ! 隠れていなきゃダメだろう!」
と、姿をくらましていたおじが、中腰のまま
呆然と立ちすくむオレの背を叩きました。
「ぅぐ……だって……っ」
「……まぁ、仕方ないか。……行くぞ」
「えっ……ど、どこへ」
肩を貸してくれたおじは、さきほどまでのコソコソした素振りと違い、
足音を隠すことなく歩き始めました。
「うちに……母屋に戻るぞ」
「えっ……お、鬼は……?」
「棒げモンを食ったから、今日はもう心配ねぇ」
おじは眉をギュッと歪ませて、呻くように続けました。
「……アレはうちの乳牛のうちの、もう年とって乳が出にくくなった子だ。
……可哀そうだが、貢げモノになってもらうほか、なかった」
おじがいなくなっていたのは、どうやら
牛を鬼の元へ誘導するためだったようでした。
(……人間じゃ、なかったのか)
オレがおじを疑った申し訳なさと、あの牛の最期の有様に
なんの返答もできずに黙り込んでいると、
「……アレは食い終わったら満足して帰る。今のうちに戻らんと」
未だバリバリと耳に刺さる咀嚼音に苛まれながら、
オレとおじの二人は、そっと牛舎から家の中へと避難したのでした。
翌朝。眠れぬまま夜を明かしたオレが牛舎で目にしたものは、
あの赤いヒモの張られた場所の前に残る、血だまりだけでした。
骨も肉も内蔵も、ひとかけらとしてそこに残ってはいません。
ただ、昨日の現象の証拠として、
唯一、血痕だけが散らばっていました。
魂が抜けたように佇むオレに対し、おじは淡々と、
「昔からこの牧場には鬼がやってくる」こと、
「生け贄を一体でも捧げればしばらく害をなさない」こと。
そしてなによりも、
「鬼は福をもたらす」ことを話してくれました。
なんでも、この襲来する鬼は神としての側面も持っているらしく、
昨日のように捧げものを与えると、礼を返してくれるというのです。
たしかにおじ一家は、さほど設備の充実していない酪農家であっても、
わりと裕福な暮らしをしているようでした。
オレに支払う給料もだいぶ気前がよく、
そうふるまえるのも、その鬼の恩恵なのだとか。
……え? あぁ、もちろん聞きましたよ。
生け贄を忘れてしまったら、どうなるのかって。
んー……いやぁね。これはちょっと……
オレの口からは言えません。
ですが、実はオレ……おじに、牧場を継いでくれないか、って誘われているんです。
仕事も見込みがあって、若くて、
鬼の存在もすでに知っているから、って。
就職難の昨今、おじ一家の年収を聞いてしまい、
オレの心は正直揺らいでいて……。
でももしそうなったら、あの鬼とは、
ずっとつきあっていかなきゃならないわけで。
それにもし貢物を忘れてしまったら。
おじの牧場と仲の良かった別の酪農家さん家みたいに、
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