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92.鬼除け②(怖さレベル:★☆☆)

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「……さぁて」

夜。

ふだんであれば、すでに寝入っている頃合い。

とにかく臭いがあるとダメだということで、
いつもよりも念入りに風呂につかって汚れを落とした後、
オレはおじの指示のまま、薄暗い牛舎の中に来ていました。

「……ほんとうに来るのかよ?」

赤いヒモの張り巡らされた入口のそばで身を潜めつつ、
同じく身を隠すおじにそっと尋ねました。

「来る。……ちょうど今日は、供物をささげる日だからな」
「く……供物?」

不穏な響きに、つい腰が引けてしまいます。

「ああ。いくら鬼除けをしても、完全に来るのを阻止することはできない。
 せいぜいが、来る頻度を減らすくらいでな……。
 だから、ご機嫌取りもかねて、捧げものをしなくちゃならんのだ」

ただ事実を述べるようにたんたんと、おじは目を伏せました。

「それって……どういう」
「鬼の大好物を一つ、さし出すんだ。そうすると、鬼はおとなしく
 山へ帰り、あの赤いヒモだけでしばらく家畜たちを守れる」
「えっと……その、大好物っていうのは……」

と、そこまで深く切り込もうとした時。

ズッ……ズッ……ズン……

大地を揺らす振動が、遠くから響いてきました。

(うっ……山の方、からだ……)

牧場は森に三方を囲まれていて、その一方には、
日本百名山にも数えられた山があります。

そして、この身体の底に響く揺れは、その山の方角からでした。

「おお。……来るぞ」

おじがやたらとデカいリュックを下ろしつつ、
噛みしめるようにつぶやきました。

「…………っ」

グッと口を結び、食い入るように音の方向を見据えます。

ズッ……ズッ……ズリ……

単調な振動が、ひたひたと確実に大きさを増してきました。

都会の汚れのない住み切った空の下、わずかばかりの月明かりと、
牧場内に灯った蛍光灯の明かりだけが、夜闇を浮き上がらせています。

ズッ……ズン……

「……あ、っ」

オレは思わず、両手で自分の口を塞ぎました。

黒い景色の中から、ぼんやりと現れたもの。
それは、高さ三メートルに達するかと思われるほどの巨体でした。

「つっ……角……!?」

確かに額には昔話で伝え聞くような大きな角が存在し、
人間とはとても思えぬほどの巨躯を惜しげもなく晒しています。

暗がりでハッキリとは見えませんが、
うっすらと開いた口元には、牙らしきものも見て取れました。

「あっ……あれが、鬼!?」
「……ああ。昔っから、この辺に居ついてるんだ」

ボソボソと小声でおじは答え、のっそのっそと大股で
鬼が近づいてくるのを、ただただ無言で見つめています。

「お……おじさん。に、逃げなくていいのかよ」

オレは思わず、ジッと動かぬ彼の肩を揺らしました。

「今動いたら逆効果だ。……まわりを見ろ。牛たちだってジッと
 息を殺しているだろう。……わかるんだ。暴れたら危険だ、ってな」

ひそめた声で囁くおじの言う通り、
牛小屋はいななき一つ聞こえぬほどに静まり返っていました。

しかし、それがかえってあの巨体――
鬼の襲来という事実を、まじまじと感じさせられるのです。

「熊よりヒデェ災害だ。……あれに見つかったら、逃げる隙もねぇ。
 一瞬で引きちぎられてお終いだ」

おじは、間近でその事件を見てきたかのように、
ギュッと表情をおぞましく歪めました。

(おいおい……鬼って、なにかの比喩じゃなかったのかよ……!)

おおかた、なにかの自然現象を『鬼』と言い換えているのだろう、
くらいの軽い考えであったというのに。

実際それを目にしてみれば、まさかの三メートルの巨人。
そして、ここまで距離が近づいてわかる、その異様な肌の色彩。

人間ではけっしてあり得ない、黄緑色の、肉体――。

ズン……ズン……

そいつが近づいてくるにつれ、造形がより鮮明に現れてきました。

額の角のほか、側頭部の左右にも、
それぞれ鹿のように先のわかれた大きな角。

筋肉隆々の肉体が晒された上半身に対し、
腰部のみ、簡素な布をまとっています。

その造形は、昔話に出てくる退治されるべき鬼を
そのまま模倣したかのようでした。

いや、あの話自体が、この鬼をモデルに――?

「静かにしておけ」
「…………っ!!」

オレはおじに指示されるまでもなく、
ピシリと全身を硬直させて黙り込みました。

ズン……ズン……

黄緑色の巨躯はなんの迷いもなく、
こちらにどんどん近づいてきます。

「おっ……おじさん、あいつ、こっち来てるけど……!」

オレが極力声を抑えて尋ねるも、神妙に目を伏せて、

「犠牲を払わにゃならん。……こればっかりはどうしようもない」

と、諦めたように肩を落としました。

(犠牲って……そういや、さっきも供物だとか、なんとか)

さきほどから、やたらと不穏な単語ばかりを漏らしています。

鬼にささげる供物、身代わり。
あんな巨大な鬼に供えられるようなモノとは、いったい――。

(……まさか、人間?)

フッ、と脳裏に浮かんだのは、恐ろしい妄想。

古来より、鬼は人里を襲うと言い伝えられてきました。

ならば、あれだけ見目がそれと等しい鬼となれば、
欲するモノも同じなのではないでしょうか。

例えば。例えば、生きのいい人間の肉、とか――。

(……い、いやいや。そんなコト、あるわけ)

だだでさえあり得ない光景を目にしているというのに、
さらに、人柱ならぬ、人供物だなんて。

テクノロジーの発達したこの現代。
何百年も前の風習だと、笑い飛ばそうとして――
もはや、牛舎小屋のすぐそばまで接近したそれに、言葉を失いました。

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