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122.水族館の人魚③(怖さレベル:★★★)

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「う……っ」

一点。

巨大水槽の中央にまっ黒い沈殿がかたまり、
ドス黒く濁ったそこから例の海藻のようなものが、
ゆらゆらと突き出していました。

(……ちがう。これ、海藻じゃ……ない……!)

ゾッ、と全身に緊張が走りました。

水中に揺らいでいたと思っていたその水草。
それは、よくよく見れば、まるで髪の毛のようで――。

「……あ」

ドプン、と。
その汚濁の中から、重い水音が。

吹き上がっていた気泡がいつの間にか収束し、
その黒いよどみから、ボコボコと漏れ出しています。

ゴポ、ゴポポポポ……

気泡は、みるみるうちに小さく、細くなり、
幾重にも連なったそれが、よどみの中心から噴き出していました。

そう、まるで――その黒い水溜めからなにかが現れようとしているかの、ような。

「……に、んぎょ」

ポロリ、と口から零れたその単語。

(こんな……こんな禍々しいものが、人魚……!?)

さすった腕の皮膚は鳥肌がとまらず、噛みしめた奥歯もカタカタと震えています。
人魚などという可愛らしい言葉から連想されるモノでは決してない。

なにか――とてつもなく邪悪な、危険なもの。

「っ……マリコ、っ……!」

思わず目を逸らし、近くにいるはずの友人に助けを求めようと見回すと、

「えっ……?!」

彼女の姿は、どこにもありません。

「ウソ……!?」

広い空間内をどう探しても、人っ子一人いません。
いったいいつの間に、消えてしまったのか。

(さ、先に逃げたの……?)

怒りよりもショックの方が大きく、茫然と体を硬直させていると、

ゴポポポポッ

ひときわ大きな、気泡の音。つ
られるように、私は水槽を見ました。
見て、しまいました。

「……ヒッ!?」

黒いにごりから、ゆっくりと白い腕が伸びました。
生気を失った、枝のように細長いそれ。

人間のモノとしたら、もはや餓死寸前と思われるような、
骨のごとき白い――いや、骨そのものの、腕。

「ぎっ……ぎゃあぁあ!!」

見てはいけない。これ以上、目にしてはいけない。
私はとっさに両目を閉じてしゃがみこみました。

耳を強く塞いで、身体を縮こまらせて、
あの白い骨のような腕の先、
そこに現れるかもしれない人魚を決して見ないように。

もし見てしまったら、きっと気が触れてしまう――!

そう、私がガタガタと身動きとれずに震えていると。

グイッ

突如、強く腕を引っ張られたのです。

「いや……いや!!」

あまりのおぞましさに強くそれを振り払って、尻もちをつけば、

「な、なに言ってるんだ……ここはもう閉館だぞ!」

目の前で仁王立ちする、男性の姿がありました。

「え……あ……?」

その、見覚えのある顔。それはこの水族館の館長でした。

「か……館長、さん?」
「ん? 君は……ああ、見たことある子だね」

ブスッと不機嫌そうな表情を浮かべていた彼は、
ふとその怒気を和らげました。

「それにしても……こんなところにどうやって入ったんだい。
 鍵、かかってただろう?」

首を傾げつつ、扉の方を確認している館長の背中に、
私は水槽の方を極力振り返らないようにしながら声をかけました。

「あの、マリコ……ここでバイトしてる彼女に案内されて……」
「え? マリちゃん?」

すると、彼は怪訝そうな顔で振り返りました。

「おかしいなぁ。確か、夏休みで辞めたはずなんだけど」
「……えっ?」

思わず、呆然と目をしばたかせました。

「それって……どういう……」

しかし、私が問いかけの言葉をすべて発する前に、こ
ちらを見た館長の目が――みるみるうちに見開かれ、そして。

「う……うわああぁあっ」

もんどりうつように尻もちをつきました。
ズリズリ、と湿った床を這いずって、完全に腰を抜かしている様子です。

彼も、巨大水槽の中のアレを見てしまったのでしょう。
私は、一度緩和された緊張が、
ふたたびムクムクと膨れ上がってくるのを感じました。

「……ッ」

アレが、どうなっているのか。
私は館長の視線につられるように、恐る恐る後ろを振り返り――、

「嘘だろ……マリちゃん!!」
「……え」

絶望の叫びを上げる彼の真正面。
よどんだ巨大水槽の中にゆらゆらとたゆたっていたいたのは、
まごうことなく、マリコその人だったのです。

その後、彼女は……マリコは、
残っていた水族館職員の方々によって引き上げられました。

肌は水でふやけ、死相の浮かんだ顔はとても普段の彼女とは思えませんでしたが、
目を閉じ身体を横たえてみれば、間違えようもなく、それはマリコ本人でした。

呼吸も止まり、色の抜けた肌はとても助かる見込みはなく、
ずぶ濡れでAEDによる蘇生も不可能となれば、もはやどうにもなりませんでした。

すぐに救急と警察が来て調べを進めることとなり、
私は帰宅を許されましたが、当然、ゆっくり休めるはずもなく、
しばらく悪夢と恐怖、それに友人を亡くしたショックでろくに眠ることもできませんでした。

最終的な調べで、マリコの死因は溺死。
そして、他殺ではなく自殺と断定されました。

防犯カメラの映像で、彼女が一人、
水槽の裏側から水面に飛び込む姿がはっきりと映っていたのだそうです。

……私、思うんです。
彼女がなぜ、人魚がいた、などと言って、私をあそこに導いたのか。

どうして、あんな演出をして、死を選んだのか。
彼女の家族も、とても死を望むほどの悩みは思い当たらない、と言っていました。
バイトを辞めていたことすら、知らなかったようです。

それに――私はたしかに、彼女が水槽を指さした瞬間、
にごった水槽の中に淀む黒い固まりを見たのです。

そこからつきだされる、骨のように白い腕だって。

もし、最初からあれが彼女なら、私を案内したのは、
いったいなんだったんでしょう?

あれが本物のマリコだったら、
あの水槽の中の濁りは、いったいなんだったんでしょう?

……あの日から、私の中の人魚という存在は、死神と同じです。
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