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第二章 懐かしのほくほくじゅわぁ肉じゃが

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「こんばんは」

 ちゃきちゃきした様子で今夜もやってきたのは、この家に住むことを夜空に提案した老紳士、佐々木光治だ。
 光治は週に三回必ず店を訪れる、いわゆる常連客。多い時は四回も来るというのだから、すっかりこの店のファンであることに違いない。
 彼は奥さんを先に亡くし、一人暮らしをしているそうだ。普段は自炊をしているのだが、息抜きのため夕飯を食べに来る。
 若い時はなにかの会社の社長で、会長職を辞したあとは悠々自適な生活を楽しんでいる。
 とてもすごい人だというのに、偉ぶるようすもなくいつでも謙虚に会話する姿が夜空としては印象的だった。
 光治の余裕のある姿に、夜空はいつも羨望のまなざしを向けてしまう。

「夜空くん。どうだい、この街の住み心地は?」
「すごく快適です。善さんが、本当にいい人で……しかも、朝ご飯まで作ってくれて恐縮しています」

 善は朝ご飯を一口しか食べない。
 それどころか、昼もほとんど食さない。一日のエネルギーは、仕事前に食べる夕食のみで、その一食からすべてを吸収している。
 それは、こんなガリガリになるわけだと夜空は思うのだが、善はいたって健康だった。
 生活リズムも習慣も違うため戸惑っていたのだが、善はすぐに夜空の気持ちを汲んだ。
 朝食をとらない善と違って、夜空は、朝はちょっとだけでいいので食べたかった。それを言い出せないでいたため、近所のスーパーで買ったおにぎりをレンジで温めて食べていた。

 ところがある日、善は夜空のために軽めの朝飯を作ってくれた。その一度きりかと思っていたのに、いつの間にか毎日作ってもらってしまっている。
 彼は眠気覚ましの珈琲だけなのだが、それを落とすついでに作るから気にしないでと何度も言われており、結局甘えてしまっている。
 善の手料理は、優しい味で飽きなかった。

「すっかり善さんに頼りっぱなしになっています」
「甘えられるときに甘えておくのがいい。甘やかされるのも、悪くないことだと私は思うがね」
「こういうのに慣れてなくて、なんだかすごく申し訳ない気持ちになっちゃうんです。俺がしっかりしなくちゃなのにって思っちゃって」

 なぜだい、と光治は驚いた顔をした。
 夜空はお冷を運んだお盆を胸に抱きしめて首を傾げた。

「自分だけもらってばっかりで、申し訳ないじゃないですか……住むところも仕事もくれて、おまけにお料理まで作ってもらっちゃうなんて」
「いいじゃないか。それの、どこが申し訳ないんだい? そういう時は、ありがとうと笑顔で言えばいいものだよ」

 それは人の善意だから、申し訳なく思わなくていいのだと、光治は噛み砕いて教えてくれた。

「ありがとう……ってたしかに言えていなかったです。ごめんなさいって、謝ってばかりでした」
「悪いことをした時に使うのが「ごめんなさい」だよ。この場合は、「ありがとう」がしっくりきそうだけどね。どうかな?」

 言われて夜空は「ありがとう」と善にちっとも言えていないことに気がついた。むしろ「すみません」と謝ってばかり。

「そうですよね……勉強になります。明日からは、善さんにありがとうを伝えます」

 光治は「素直でよろしい」と笑顔になる。
 一部始終をカウンターの奥で聞いていた善が、やっと口を開いた。

「僕が勝手に作っているだけだから、気にしなくてもいいんだけどなぁ」

 善は楽しそうに笑いながら、プレートの準備をしている。
『はぐれ猫亭』のメニューはシンプルで、本日のプレートの一種類のみだ。
 廃棄食材が減るのと、善が一人で作るのに無理のない範囲ということで、これが定着したという。
 メニューは、入ってすぐのカウンターに置かれた、小さい黒板に書いてある。毎日その黒板を書き直すのが、最近の夜空の仕事の一つだ。

「居候なんですから、やっぱり気にしますよ。気にしなくなったら、逆に図々しいと思いません?」

 善にたずねると、ちょこんと首を傾げられた。

「そお? でも、美味しそうに毎朝たべているよね。夜空くんが元気いっぱいに食べる姿を見ていると、僕も笑顔になるんだけどな」

 なんだかひどく恥ずかしいことを言われたような気がする。
 そんなに嬉しそうな顔をして食べていた自覚がなかったのだが、善が言うのならそうなのだろう。

「居候、楽しんでくれてるみたいでよかったよ」
「おかげさまで……」

 夜空がなんだかたじたじになってしまうと、それを見ていた光治はくすくすと笑った。
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