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第五章 きらきら涙の思い出カルボナーラ
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「順平くん。ごめんね、遅くなって」
雑誌に集中していたので、とつぜん話しかけられたことに驚きながら顔をあげた。
見れば、オーナーの善が凛々しい眉毛を困ったようにしながら、すまなそうにカップを持って立っていた。
肩口まである緩くウェーブのかかった癖毛をまとめており、首を傾げる徳顔周りの毛がほわんと揺れる。
「大丈夫っす。早く来たんで、逆にゆっくりできました」
「だったらよかった。珈琲、これサービスね。今からプレート作るから、ちょっと待っていてね」
「あざっす!」
冷たい珈琲をありがたくいただきながら、順平は辺りを見渡す。先ほどよりもだいぶ客足が減っており、いつの間にか順平を含めて三人しかいなかった。
「そういえば順平くん、好美さんに鼻の下伸ばしていたよね」
善がニコニコしながらカウンターから話しかけてきて、順平は思わず珈琲を噴きそうになって慌てた。
「そうでしたか!? 俺、そんな顔してました!?」
「してたしてたー。鼻の下こーんなに伸びてたよ」
いたずらっぽく笑われてしまい、順平はポリポリと頭を掻いて目を逸らす。
「無自覚って怖いっす。それに、美人って罪深いです」
「たしかに、好美さんはきれいな人だもんね」
順平は頷きながら、先日の迷子事件で知り合った加茂好美を思い出した。
息子の涼真が『はぐれ猫亭』に流れ着いた時から、善や夜空と仲良くなったらしく、ちょこちょこ顔を出すようだ。その時に居合わせれば、順平とも話をするようになった。
話の折に、この場所からほど近いスナックで働いているというのも聞いた。
なので、順平は自分が当番の時には、好美のお店にそれとなく立ち寄ったりもして、なにか困ったことがないか、様子を窺うようにしていた。
下心がゼロとは言わない。あの日取り乱した様子で交番にやってきた彼女の、細い肩に庇護欲をかき立てられたのだ。
「いやあ、参ったなあ。善さんはよく人のこと見てるっすね」
善は「そうでしょー」となぜか得意げに胸を張っていた。横で夜空が口を挟む。
「俺が二十六で彼女は一つ年下だから……順平さんとは、二つ違うのかな?」
「え、夜空さんって俺より年上なんすか?」
「うん。見えない?」
順平はびっくりして目を見開いた。
夜空は幼く見える顔立ちとは理解していたが、まさか年上とは思わなかった。
「そんな顔されるとは。けっこうお兄さんな気持ちでいたんだけどな」
夜空が困った顔をしたので、順平はすみませんと謝った。
「よかったね夜空くん。若見えってやつだ」
「俺はもうちょっと渋さとかほしいですけどね」
夜空はあからさまに肩を落とした。順平が思うに、夜空はおそらく、渋さとは一生無縁な気がする。
「生きているうちに渋みも出てくるんじゃない?」
善はゆるい返しをしつつ、フライパンをゆさゆさしている。
甘いような香ばしい香りが漂ってきて、順平は思わずお腹と背中がくっつきそうになった。
「この間、お礼がてら好美さんがこのお店に寄ってくれてね。最近は、彼女が働いているお店や保育園にも、順平くんが巡回で来てくれて嬉しいって言ってたよ」
「ほんとっすか?」
順平の心が跳ねる。単純に、褒められると嬉しい。
「ほんとほんと。涼真くんもね、やっぱり保育園にお巡りさんが来るのは嬉しいみたいで、喜んでるんだって。やっぱりお巡りさんって、かっこいいしみんなのあこがれだもんね」
善に微笑まれて、順平は照れたように笑った。
交番勤務はつらいことも多い。しかし、通学途中の子どもなどに、かっこいいと言われると、やっぱりやりがいと喜びを感じるものだ。
つらくても、装備が重たくても、その笑顔を守りたいと順平は思う。
「いや、今までもきっちり仕事はしてたんっすけど……なんかもっと貢献できないかなって思って。好美さんとか涼真のとことか、親身にしてくれてるおっちゃんのとことか、行ける時には寄るようにしたんですよ」
それに夜空はへえ、と相槌を打つ。
「自分は、市民の安全を守りたくて、そういった弱い人を助ける力が欲しくて、警察官になったんで……涼真はそれをもう一回、思い出させてくれたっていうか」
感謝っす、と言うと、善も夜空もにこやかになる。
フライパンから漂うたまらなくいい香りに、順平のお腹は暴走気味にぐるぐる鳴った。
「さすがですね、順平さん」
「そんなことないっすよ。好美さんとか特にほっとけないんですよね。それに、放っておいちゃいけないっていうか。守られるべき人が守られてない現実は、自分の無力を感じて一番つらいっす」
シングルマザーの好美は、少々生きづらさを感じているようだ。弱音を聞いて、これから日本を背負っていく子どもを見て、順平の心は複雑だ。
自分一人にできることは限られている。
そして好美のような人は氷山の一角にすぎず、多くの人が順平の気がつかないところで困っている。
警察官になった自分になにができるのだろうと、考えずにはいられない。
好美はたまたま声をあげることができて、助けを呼べて、助けてくれる人が手を差し伸べることができた。
そうじゃない人もいるのだと、痛烈に感じたのだ。
雑誌に集中していたので、とつぜん話しかけられたことに驚きながら顔をあげた。
見れば、オーナーの善が凛々しい眉毛を困ったようにしながら、すまなそうにカップを持って立っていた。
肩口まである緩くウェーブのかかった癖毛をまとめており、首を傾げる徳顔周りの毛がほわんと揺れる。
「大丈夫っす。早く来たんで、逆にゆっくりできました」
「だったらよかった。珈琲、これサービスね。今からプレート作るから、ちょっと待っていてね」
「あざっす!」
冷たい珈琲をありがたくいただきながら、順平は辺りを見渡す。先ほどよりもだいぶ客足が減っており、いつの間にか順平を含めて三人しかいなかった。
「そういえば順平くん、好美さんに鼻の下伸ばしていたよね」
善がニコニコしながらカウンターから話しかけてきて、順平は思わず珈琲を噴きそうになって慌てた。
「そうでしたか!? 俺、そんな顔してました!?」
「してたしてたー。鼻の下こーんなに伸びてたよ」
いたずらっぽく笑われてしまい、順平はポリポリと頭を掻いて目を逸らす。
「無自覚って怖いっす。それに、美人って罪深いです」
「たしかに、好美さんはきれいな人だもんね」
順平は頷きながら、先日の迷子事件で知り合った加茂好美を思い出した。
息子の涼真が『はぐれ猫亭』に流れ着いた時から、善や夜空と仲良くなったらしく、ちょこちょこ顔を出すようだ。その時に居合わせれば、順平とも話をするようになった。
話の折に、この場所からほど近いスナックで働いているというのも聞いた。
なので、順平は自分が当番の時には、好美のお店にそれとなく立ち寄ったりもして、なにか困ったことがないか、様子を窺うようにしていた。
下心がゼロとは言わない。あの日取り乱した様子で交番にやってきた彼女の、細い肩に庇護欲をかき立てられたのだ。
「いやあ、参ったなあ。善さんはよく人のこと見てるっすね」
善は「そうでしょー」となぜか得意げに胸を張っていた。横で夜空が口を挟む。
「俺が二十六で彼女は一つ年下だから……順平さんとは、二つ違うのかな?」
「え、夜空さんって俺より年上なんすか?」
「うん。見えない?」
順平はびっくりして目を見開いた。
夜空は幼く見える顔立ちとは理解していたが、まさか年上とは思わなかった。
「そんな顔されるとは。けっこうお兄さんな気持ちでいたんだけどな」
夜空が困った顔をしたので、順平はすみませんと謝った。
「よかったね夜空くん。若見えってやつだ」
「俺はもうちょっと渋さとかほしいですけどね」
夜空はあからさまに肩を落とした。順平が思うに、夜空はおそらく、渋さとは一生無縁な気がする。
「生きているうちに渋みも出てくるんじゃない?」
善はゆるい返しをしつつ、フライパンをゆさゆさしている。
甘いような香ばしい香りが漂ってきて、順平は思わずお腹と背中がくっつきそうになった。
「この間、お礼がてら好美さんがこのお店に寄ってくれてね。最近は、彼女が働いているお店や保育園にも、順平くんが巡回で来てくれて嬉しいって言ってたよ」
「ほんとっすか?」
順平の心が跳ねる。単純に、褒められると嬉しい。
「ほんとほんと。涼真くんもね、やっぱり保育園にお巡りさんが来るのは嬉しいみたいで、喜んでるんだって。やっぱりお巡りさんって、かっこいいしみんなのあこがれだもんね」
善に微笑まれて、順平は照れたように笑った。
交番勤務はつらいことも多い。しかし、通学途中の子どもなどに、かっこいいと言われると、やっぱりやりがいと喜びを感じるものだ。
つらくても、装備が重たくても、その笑顔を守りたいと順平は思う。
「いや、今までもきっちり仕事はしてたんっすけど……なんかもっと貢献できないかなって思って。好美さんとか涼真のとことか、親身にしてくれてるおっちゃんのとことか、行ける時には寄るようにしたんですよ」
それに夜空はへえ、と相槌を打つ。
「自分は、市民の安全を守りたくて、そういった弱い人を助ける力が欲しくて、警察官になったんで……涼真はそれをもう一回、思い出させてくれたっていうか」
感謝っす、と言うと、善も夜空もにこやかになる。
フライパンから漂うたまらなくいい香りに、順平のお腹は暴走気味にぐるぐる鳴った。
「さすがですね、順平さん」
「そんなことないっすよ。好美さんとか特にほっとけないんですよね。それに、放っておいちゃいけないっていうか。守られるべき人が守られてない現実は、自分の無力を感じて一番つらいっす」
シングルマザーの好美は、少々生きづらさを感じているようだ。弱音を聞いて、これから日本を背負っていく子どもを見て、順平の心は複雑だ。
自分一人にできることは限られている。
そして好美のような人は氷山の一角にすぎず、多くの人が順平の気がつかないところで困っている。
警察官になった自分になにができるのだろうと、考えずにはいられない。
好美はたまたま声をあげることができて、助けを呼べて、助けてくれる人が手を差し伸べることができた。
そうじゃない人もいるのだと、痛烈に感じたのだ。
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