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第十章 あっつあつ昭和レトロのナポリタン

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 墓参りから帰宅した夜、夜空は疲れているのに眠ることができなかった。
 胸が妙にざわついてしまったので、階下のリビングに向かう。
 すると、照明を落とした中に善がいた。彼も疲れているはずなのに、真剣な表情でパソコンに向き合っている。
 それは『はぐれ猫亭』で見せたことのない、彼女と一緒にしていたというデザインの仕事をこなす時の善の姿だ。
 長い髪の毛を無造作にくくって、パソコン用の眼鏡をかけている。カチカチとマウスを動かしながら、なにやら複雑な図形とにらめっこしていた。
 夜空は邪魔しないように、そうっと冷蔵庫から麦茶を取る。飲んでいると、善が声をかけてきた。

「夜空くん、僕にも一口ちょうだい」
「バレちゃいましたか……忍び足で来たんですけど」
「すっかり水分補給するの忘れちゃった」

 一息つくつもりなのか、善はうーんと伸びをして夜空がカップを持ってくるのを待っている。
 善はお茶を受け取ると立ち上がって、夜空をベランダに誘った。
 外に出ると風が涼しい。
 打ち寄せる波の音が聞こえていて、浜辺には何人かの若者たちが、散歩したり楽しそうにはしゃいでいたりする姿が見える。

「若いっていいなあ、夜中まで遊べて」
「なにを言ってるの夜空くん。君もじゅうぶん若いでしょう。少なくとも、僕よりは年下じゃない」
「そうですけど、あの若さにはついていけないと言いますか……昼間も遊びっぱなしで、夜まではしゃぐなんてできません」

 そもそも、ドがつく真面目の夜空は、夜通し遊んだなどという記憶はほとんどない。夜通ししたことと言えば、テスト前の勉強くらいだ。それだって、成果は出ない凡庸さしか持ち合わせていなかった。

「体力つけないとね。毎年あの山を登るたびに、体力が今年も落ちたなと思わずにいられないよ」

 そういうわりに、善は元気だ。

「俺も、朝に浜辺を走ろうかな……ランニングしてたり、犬の散歩をしている人とかいっぱいいますよね」
「いいね、きっと気持ちがいいと思うよ。そうだ、夜空くんも仕事ばっかりだから、たまには遊びに行かないとね」
「いいんです、お金貯めたいんで」

 善は苦笑いする。

「今年の夏は、もう二度と来ないんだよ。まあ、来年の夏も来年しか来ないけど」

 時間って大事だねなどとしみじみつぶやく姿は、どこか達観しすぎていて仙人のようだ。なんだか腹が立つので、善の頬をつねってみたが、ちゃんと人間だった。

「痛いなぁ、もう……」
「なんか仙人みたいでムカつきました」

 善はちょっと口を尖らせたあと肩を落とす。

「魔法使いから、仙人に転職しようかな」
「見た目的にも、そっちのほうが似合っているかもしれませんね」

 麦茶を飲み終わると、室内に戻って善はまたパソコンの前に座る。
 邪魔したくなかったのだが、善を一人にしておくのも気がひけてしまい隣でお菓子の作り方の本を読み始める。
 無言のまま時間はどんどん過ぎていく。
 カチカチとマウスをクリックする音と、夜空がページをめくる音だけが部屋に満ちていた。
 集中していたのだが、鳥の鳴き声がして夜空は顔をあげる。どうやら夜明けらしい。
 窓から海のほうを見た時に、善が「終わった」と呟いた。
 それは、あまりにも唐突に訪れた終わりだ。パソコンの画面を呆然と見つめながら、善はじっとしていた。
 夜空は朝日が昇り始めて明るくなってきた部屋で、彼をそうっと見守る。

「終わったよ、あかり――」

 彼女と二人でチームを組んでいた仕事の、すべてが終わったのだ。
 善は達成感に震えることも、脱力することもなく、ただただ動けずにいる。

「これで、本当に最後だね……」

 お疲れさまでした、と夜空は心の中で労った。
 よたよたと立ち上がるなり、善は気絶するようにソファに倒れ込んでしまった。
 夜空は窓のカーテンをかっちり閉める。
 善の終わらない昨日が、やっと一区切りついた。彼に明日がくるのかは、まだ夜空にはわからない。
 すやすやと寝ている細い身体にタオルケットをかけて、夜空は部屋の明かりを消した。

「お疲れさま、善さん」

 おやすみなさいと言うと、夜空は自室に下がって瞼を閉じた。
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