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第十一章 なんでもない日々の奇跡の肉じゃが

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 そうして夜空が『はぐれ猫亭』の仮マスターに就任して、あっという間に二カ月が過ぎていた。
 とっくに紅葉の時期が過ぎ、気を抜けばすぐに正月がやってくる。

「――肉じゃがが食べたい」

 祥が急に言い出して、そういえば善は定期的に肉じゃがをメニューに入れていたことを思い出す。
 しかし、仮マスターが夜空になってから、そのメニューは一度も出されていなかった。

「うーん、煮物は苦手で……試作品を作ってからでもいいですか?」

 善の肉じゃがは定評があり、あの味とクオリティと同じものを提供できる自信が夜空にはない。

「そうだな。ま、作ってみるのがいいな。百聞は一見に如かずってことで。俺は仕事に行く」

 分厚いダウンジャケットを手にしたので、夜の張り込みなのだろうと見当がつく。

「明日の朝までには作っておきます」
「一日たったのは味が染みて美味いはず」

 楽しみにしていると言われたのもあり、夜空はさっそく試作品にチャレンジした。

 ……だが、まったく上手に作れなかった。

 それどころか、鍋を焦がしてしまった。
 火の通りが悪く、もっと煮込もうと思ったのがいけなかったのだ。
 少しだけ焦げついた鍋底を見て、夜空はため息しか出ない。こんなことなら、いつも料理を作ってくれていた祖母や善に、きちんと教わっておけばよかった。

「諦めちゃダメだよな、再チャレンジ!」

 焦げた肉じゃがは夜空自身が食べることにした。
 店の開店準備をしている合間に、もう一度トライしてみた。しかし、今度は何度も串を差しているうちに煮崩れを起こした。
 さらに、煮崩れて水っぽくなってしまい、べちゃっとした肉じゃがが出来上がる。
 落胆したのだが、気持ちを入れ替えて喫茶店の仕事をこなすしかない。結局、祥が帰ってくる朝になっても、美味しい肉じゃがは作れずじまいだった。

「あー、祥さん怒るかな。怒るよね? でも事情を説明すれば……やっぱり怒るな」

 素直に心の声が漏れ出ていると、涼真と一緒に来ていた好美に聞かれてしまった。

「なにかあったの、夜空ちゃん?」

 好美は涼真が夜空のことを「夜空ちゃん」と呼ぶのに合わせて、ちゃんをつけて呼ぶようになっていた。
 相変わらず涼真は、夜空のことを女性だと思っているらしい。のどぼとけを見せても、声の低さを披露しても信じてくれないので、夜空はあきらめていた。

「祥さんに肉じゃがが食べたいって言われたんですけど、ぜんっぜん作れなくて」

 好美は「あー」と頷いた。

「善さんの煮物美味しかったよね……真似したいけど、煮物って私も苦手だしめっちゃわかる」
「柔らかくしようと思ったら水の入れすぎでべちょってなるし、かといって入れないと今度は火の通りが悪いし。今日、お鍋焦がしちゃったんですよ」

 夜空が苦笑いをすると、カウンターにいた光治と朝代がその話題に相槌を打った。朝代が口を開く。

「たしかに、肉じゃがって簡単そうに思えて、手間のかかるお料理ですものね」

 朝代はお料理がとても上手だと、光治がいつも自慢している。
 そんな朝代でさえも手間がかかるというのだから、夜空はやっぱり煮物は難しいと思わざるを得ない。

「でも食べたいって言われると、やっぱり作りたくなっちゃうっていう……」

 熟年カップルは、長年寄り添ったかのような息のピッタリさで、うんうんとしきりに頷き合っている。

「善さんのあの味が、どうしても出せないんですよ。なにが違うのかなあ。善さんは煮崩れしないし、味もしっかりしみてて、てりてりで美味しいのに」
 夜空がため息を吐くと、光治が食後の一杯を楽しみながら首を傾げた。

「朝代さんが作る肉じゃがは、善くんのと同じ味なんだよね」

 光治の一言に、好美も夜空も驚いた。
 朝代の料理を食べたことがあるのは、この中で光治だけだ。そして、善の作る肉じゃがとの違いがわかるのも、光治しかいない。

「善くんと朝代さんの味は、本当によく似ている。不思議なくらいね」

 夜空は助けを求めるように朝代を見つめてしまった。

「朝代さん、もし大丈夫でしたら、作りかたを教えてもらえますか?」

 夜空の提案に、朝代はびっくりしたようだ。
 しかし、もちろんですよと破顔しながら快諾してくれた。

「嬉しいわ! 誰かにお料理を教えるなんて、何十年ぶりかしら」

 朝代は予想以上に喜び、いつにしようか光治と予定を見ている。

「木曜日はどうかしら? お店も定休日よね?」
「はい、大丈夫です!」

 そういうわけで、明後日『はぐれ猫亭』で朝代のお料理教室が開かれることになった。
 肉じゃがを楽しみにしてくれている祥には申し訳ないが、明後日まで我慢してもらうことになる。
 好美の参加も決まり、夜空は定休日に楽しみが増えた。
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