死神飯に首ったけ! 腹ペコ女子は過保護な死神と同居中

神原オホカミ

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1巻

1-1

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   プロローグ


「――死なんといて」

 線路に飛び降りた瞬間、手を掴まれると同時に聞こえてきたハスキーな声。
 朱夏しゅかは声のしたほうに空虚くうきょな視線を向ける。
 そこに立って朱夏を引きとめていたのは、黒い細身のスーツに真っ黒なネクタイの人物。なんとも不吉ないで立ちは、まるで死神――
 しかし派手な金色の髪の毛が、その青年から不吉らしさを払拭ふっしょくしていた。

「ええか、門宮かどみや朱夏。絶対に死んだらあかん」

 彼が口を開いた瞬間、文字通り世界が止まった。
 駅の雑踏も電車の行き来する音も、ホームのアナウンスさえも、一切耳から消える。
 気づけば、目に映るすべての人間が、ぴたりと蝋人形ろうにんぎょうのように動かない。
 つまり、朱夏は空中に浮いたまま止まっていた。
 驚く間もなく、さらに金髪の青年が口を開く。

「あんたが今ここで電車に飛び込んで自殺するとなぁ、このあと二万人の人間に迷惑がかかんねん。そのせいで遅刻してしもた新入社員の山野辺やまのべくん、家族の死に目に会えへんかった神代かみしろさん、部長の結婚式に間に合わへんかった山崎やまざきさん他、二百八十九人が死ぬ」

 金髪黒服の青年は眉根を寄せると、淡々と朱夏に告げた。

「それで、第二波的に三井田みいださん、鴻池こうのいけさん、田中たなかさんらをはじめとする六百六十五人が交通事故に巻き込まれて人生ぽしゃんや。さらに自殺に追いやられてしまう被害者が二千六百八十九人――……で、航空機墜落事故が起きて数千人の被害に、列車の脱線事故で数百人」

 一体この人はなにを言っているのだと、朱夏は目を白黒させた。

「あんたの自殺が引き金で、とある実業家の莫大な遺産の超複雑な相続権が宙にさまよう結果になって、親族同士による泥沼の遺産相続争いが勃発。巻き込まれて殺人やらなんやらまぁ色々起こって数十人は死ぬし、罪を背負わんでもよかった人間まで芋づる式で豚箱行きや」

 青年は、見るからに目を引く剽悍ひょうかんな顔を朱夏に近づけてきた。

「あんたが死ぬと総合計で三万人規模の人間に迷惑がかかんねん。しかも死ぬはずやなかった人々が、なーんと六千人近くも出てしまうんや。それを引き起こす人間のことを、俺たちはスプレッダーって呼んどんねん。意味わかる?」
「…………わかりません」
「そうやろな」

 彼は朱夏を駅のホームに引っ張って立たせるなり、盛大にため息を吐く。

「要約すると、あんた一人が自殺することで俺たちの仕事が猛烈に増えるんや‼ その事後処理がめっちゃめんどくさいねん! だから死なんといて――……わかった?」
「は…………はいっ⁉」

 青年は肩をすくめると、怖い表情を一変させて目元をふっと緩めた。

「顔色悪すぎ。なんも食べてへんのとちゃうん?」

 ポンと叩かれた肩から伝わる温もりとともに、世界の音が耳に戻って人々が動き出す。

「とりあえず俺がなんか飯作ってやるから死ぬな、門宮朱夏。ええな?」

 ――それが、朱夏と死神〈しん〉との初めての出会いだった。



   第一章


 レシピ1 和風おろしハンバーグ


 世の中に闇金が存在すると朱夏が知ったのは、今から約半年ほど前のことになる。
 ある日、アパートの扉を乱暴に叩く音がして、開けるといかつい男の人たちが笑顔で立っていた……そこで朱夏は、伯父が事業に失敗したことを知った。
 それは、社会人二年目に突入する前の冬の出来事だった。
 伯父が闇金融から借りた金額は、およそ一千万円――
 最悪なことに、伯父は自分の息子ではなく、朱夏の名前を連帯保証人の欄に勝手に記入していたのだ。
 そういうわけで、未払いで夜逃げした伯父の代わりに、借入額と利子の支払いが朱夏の責務になった。
 苦労して自分を育ててくれた両親に心配をかけられず、朱夏は家族に相談することができなかった。
 自力で返済を頑張ろうと意気込み、初めは給料から少しずつ返していた。そのうちきっと、伯父も戻ってきてくれると信じていた。
 しかし、現実はそんなに甘くない。
 週末だけだった取り立てが週に二回三回と増え、借りていたアパートの大家から出ていくように催促さいそくされてしまった。
 返済を始めて半年も経たず精神的に追い詰められた朱夏は、食べ物が喉を通らず、みるみるせて顔色が悪くなっていった。
 限界だったせいもあり、駅のホームで線路を見ているうちに、ふと天国に行ける階段だと錯覚したのは、仕方なかったかもしれない。
 だが……
 電車に飛び込もうとした朱夏を止めたのが死神とは、一体誰に予想できただろうか。
 しかも、「!」という、なんとも不真面目な仕事っぷりを予想させる理由で。
 おまけに辰は、死神と聞いて連想する大きな鎌も持たず、骸骨がいこつでもなかった。
 朱夏をアパートに連れ戻したあと、彼は『俺がなんとかしてやるから、まず飯を食え』と言った。
 そして温かい重湯おもゆを作って、朱夏に食べさせてくれたのだった。
 ……辰の作った食べ物を泣きながら口に運び、朱夏は死ぬことをやめた。
 それから数日後。
 辰は耳をそろえて借金を返済し、あっという間に取り立て屋を追い返してしまったのだ。さらには、用意したという一軒家に朱夏を住まわせてくれた。
 まさに青天せいてん霹靂へきれき
 人生のどん底にいた朱夏の生活は、彼のおかげで一気に変わったのだった。
 ――その日以来、朱夏は辰と一緒に暮らしている。

(あれが、つい一か月前のことなんて、今も信じられない)

 最寄り駅で電車を待ちながら、朱夏はあの頃をぼんやり思い出した。
 あんなに朱夏を苦しめていた借金の返済があっさり解決した裏には、なんと辰の職場である〈天国〉が絡んでいた。
 人は生きている間、無意識に死後に使うお金を天国に貯金しているらしい。
 辰は朱夏が今までに貯めていた〈天国貯金〉を現金化し、借金の返済にてたのだという。一軒家の購入にはその残りの貯金を使った。
 ……そういうわけで現在、二十三年間貯めた朱夏の天国貯金の残額はゼロ。
 辰いわく〈徳〉や〈善行〉によって天国貯金は貯まるという話だ。なので、また頑張ればいいと言われている。
 借金に悩む暗黒の日々から解放されたが、今度は死後の貯蓄を増やすべく修行の毎日が始まった。

(でもまさか、死神の手料理を食べる日が来るなんて、考えもしなかったな)

 食べるどころか生きる気力さえ失っていた朱夏に、辰はずっと料理を作ってくれている。
 そのおかげで健康になったのはいいが、すっかり胃袋を掴まれてしまった。
 朝食のカリカリに焼いたベーコンが美味おいしかったと思い出していると、電車がホームに入ってくる。
 朱夏はよし、とお腹に力を入れて、すでに人でぎゅうぎゅうになっている電車に乗り込んだ。
 酸欠になりそうなのを我慢していると、やっと会社の最寄り駅に到着し扉が開いた。
 人にぶつからないように階段をのぼって外に出ると、朝方まで降っていた雨で地面が濡れていた。梅雨つゆ時期特有のじめっとした空気が、体中にまとわりついてくる。
 会社までは駅から歩いて五分ほど。
 水たまりに気をつけながら下を向いて歩いていると、地面に落ちているキラキラしたものが目に入った。

「百円……?」

 落とした人はどこだろうとあたりを見回したが、あいにく通行人はまばらだ。

(素通りするのもなんかなあ……あ、そうだ!)

 朱夏はそれを拾うと、道の先の四つ角にあるコンビニに立ち寄った。まっすぐレジに向かい、拾ったお金をレジ横の募金箱に入れる。
 途端。
 ――チャリーン!
 頭の中で、貯金箱にお金が落ちるような、金属がこすれ合う音が聞こえてくる。
 左右を確認したが、小銭を落とした人はいない。しかもどうやら朱夏にしかその音は聞こえていないようだ。
 そういえば今朝、辰が『天国貯金ができた時、朱夏にもわかりやすいように音が鳴る仕組みにしといた』と言っていたのを思い出す。

(もしかして今、天国に貯金できたのかも――!)

 朱夏は嬉しくなって、ニコニコしながらコンビニを出た。店を出て空を見上げると、分厚かった雲が風に流されて、青空が見えてきた。
 朱夏だけでなく、通りを歩いていた人々が顔を上げて日差しを確認する。数日ぶりの太陽の出現に、心は一気に晴れ上がった。


     *


 仕事を終えて自宅に帰ってくるなり、朱夏はすぐさまキッチンに駆け込んだ。
 そこに、マッシュパーマの髪を派手な金色に染め、少し長い襟足を一つにくくった同居人の姿が見える。

「ただいまー……あぁ、なにこの罪深い肉の香り! シン、今日の晩ご飯なあに?」

 朱夏の声に、辰はニヤリと笑いながら顔を上げた。

「おかえり。なんやと思う?」

 彼はつい先日まで、細身の身体に似合うタイトな漆黒のスーツとネクタイの、いかにも死神らしい格好をしていた。
 だが、さすがに夏も近づいて暑くなってきたため、上着とネクタイは省略したようだ。
 料理をしている辰に近づきながら、朱夏は鼻をくんくんさせる。

「んー、このお肉の焼けるジューシーな香りは……ハンバーグ?」
「大正解。よだれ垂らす前に、手洗ってうがいしてき」
「はーい!」

 じゅーっと肉が焼ける音とともに、香ばしい匂いがキッチンに充満する。
 美味おいしい空気を胸いっぱい吸い込んでから、朱夏は手を洗うためバスルームへ駆け込んだ。
 そこで鏡に映った自分を見る。一か月前と比べて、明らかに顔色の良くなった顔が映っていた。

「…………よかった」

 元気そうな自分の顔を確認し、ホッとした。
 手を洗って夕飯の様子を見に行くと、辰がお皿の隅っこに蓮根とインゲンとニンジンをきれいに盛り付けている。覗き込んでいる朱夏に気づくなり眉毛を吊り上げた。

「はよ着替えてこんかい。どうせこぼすんやし……あつあつ食いたいやろ、急ぎ」
「うん!」

 急いで自分の部屋へ向かい、通勤服から部屋着に着替えて階段を駆け下りた。子どもかよと言わんばかりに、辰が朱夏を見ながら苦笑する。

「わ、わ、わ、美味おいしそう!」

 あつあつに焼けたこぶし大のハンバーグの上には、シソの葉が載せられている。
 辰はその上に、山になるほど大根おろしを盛り付けた。

「朱夏、ご飯よそって。味噌汁も」

 今にもよだれを垂らしそうな朱夏に、辰はすかさず指示を出す。

「それから、冷蔵庫からサラダ取って」
「あー、お味噌汁の匂いやばーい……」
「今日はエノキとワカメの味噌汁。味は死神様の保証書付きやで」
「保証書はなんだか怪しいけど、シンのご飯ならなんでも美味おいしい」
大袈裟おおげさやな」

 出来上がったハンバーグの皿を、辰がテーブルマットの上に置いたら夕飯の完成だ。
 すでに二人の定位置になった直角の席に座って、手を合わせた。


〈本日の晩ご飯〉
  和風おろしハンバーグ
  エノキとワカメの味噌汁
  レタスとミニトマトのサラダ
〈デザート〉
  冷やした桃


「いただきます!」
「どおぞ」

 まだ湯気が出ているハンバーグに、朱夏はさっそくはし先を入れた。
 ふっくらしたお肉はグッと反発してへこんだあと、すぐに湯気と肉汁をこぼしながらほくほく割れる。

「わあ……じゅわーってしてる!」

 朱夏は断面からあふれ出る肉汁を二秒ほどうっとりと見つめる。
 そして、ポン酢がまんべんなくしみわたった大根おろしとシソの葉を、ハンバーグに載せて口に運んだ。

「んんんっ――!」

 アツアツのお肉からたっぷりのうまみがあふれ出し、大根おろしと一緒に舌をとろけさせる。シソの香りが鼻に抜けて、肉汁が口いっぱいに広がっていく。

「おいひい! 幸せ!」

 喜びがあふれ返っている朱夏の顔を見て辰は苦笑いした。

「わかったからアホづらやめて口閉じ。こぼすで」

 朱夏が眉を寄せて美味おいしさに感動していると、チャリーンと頭の中で音が鳴った。はしを止めて、二人は顔を見合わせる。

「……あー、あれや。朱夏がほんまに心の底から『幸せや』と思ったから、天国に貯金できたんや」
「そんなことでも、天国貯金って貯まるの?」
「難しいことせなあかんのやったら、天国バンクとっくに経営破綻しとるわ」
美味おいしいご飯を美味おいしいって言っただけで徳が積めるなら、毎日百万回言っちゃう!」
「口先だけやなくて、きちんと思いを込めて言葉にしなあかんねんで。ほんまに百万回言うてみ? 言えたらフルコース出したるわ」

 百万回分の感謝を込めて、朱夏はもう一度笑顔で「美味おいしい!」と言う。そのままはしが止まらず、あっという間にハンバーグを平らげてしまった。
 おかわりはないのかなときょろきょろしていると、辰がため息を吐きながら立ち上がった。フライパンを持って来ると、朱夏の前でふたを開ける。
 そこにはハンバーグがもう一つ焼いてあった。

「こんなに食べたら太る言うやろから、俺と半分こな」
「すごい、なんで私が思っていることわかっちゃうの?」

 辰は意味深にニヤッとしてから、まだ湯気の立ちのぼるハンバーグを半分に切って、各々おのおのの皿によそう。
 朱夏は大根おろしがひたひたになるまでポン酢をかけて、肉の上にたくさん載せた。口に入れると、ポン酢の酸味とお肉の甘みがたまらない。

「もういいや……だって、太ったらシンのせいだもん」
「せやから半分こ言うたやん! 俺のせいにされて、嫁に行けへんとか言われたらかなわへん」

 おかわりの半分もぺろりと食べてしまってから、朱夏は口を尖らせる。

「なんやその顔」
「……もう一口食べたい」
「…………ぷっくぷくになっても、俺のせいちゃうで」

 辰はハンバーグを一口切ると、朱夏の皿にぽんと置く。

「ありがとうシン!」

 こうして朱夏は、胃袋を掴んで離さない料理上手な死神と一緒に、徳を積む修行をしているのだった――



 レシピ2 特製ごまダレ冷やしそうめん


 朱夏が自殺をすると、三万人もの人々に影響が出て、事後処理をする天国の死神課の仕事が増えすぎて猛烈に面倒になる……らしい。
 なんとも言えない理由だが、死神である辰が朱夏の自殺を止める正当性はある。
 辰と一緒に生活するうちに、彼の作る手料理が美味おいしくて朱夏は毎日生きる気力が湧いてきた。
 今朝のご飯は、厚焼き卵サンド。
 ふっくら焼き上がった厚焼き卵は、見た目にもジューシーだ。それを挟んだサンドイッチは想像の上を行く美味おいしさだった。
 朱夏は口いっぱいに食パンを頬張りながら、辰にもう一度現状の説明を頼む。

「ええか、よお聞き。普段使ってない耳を最大限活躍させ」

 面倒見のいい死神は、天国にある〈天国バンク〉の仕組みをわかりやすく解説し始める。

「人生を謳歌おうかしている間、人間は死後に使う金を天国バンクに貯金できんねん。それは〈徳〉とか〈善行〉を積むことで、勝手に貯まっていくもんなんや。まあ要するに、ええことしいやって話やで」

 辰はドリッパーで落としたホカホカのコーヒーを入れたマグカップを、朱夏に差し出した。

「……ブラック飲めない」
「ガキかいな。牛乳出したろか?」
「ガキじゃなくてレディです。豆乳がいい!」
「はいはいアホづらレディさん。ほれ、豆乳」

 ブラックコーヒーを楽しむ辰の脇で、朱夏は豆乳をタプタプ入れた。

「んん、自宅でソイラテ的な! 幸せ!」

 ――チャリーン!
 百円玉を拾って募金箱に入れた時と同じ音が、脳内とリビングに響く。

「この音はな、俺とアホづらの朱夏にしか聞こえへん。これが鳴ったら、天国に貯金できたっていう合図やで。貯金できたのがわかりやすいやろ?」
「たしかに!」

 辰は貯金時に音が鳴るシステムの導入を、ボス神と壮大な舌戦を繰り広げた果てに勝ち取ったと、心底ムッとした顔で説明した。
 コーヒーを一口飲んでから、辰は話を続ける。

「普通、天国貯金は死後に天国でしか使えへんねんけど、今回は特別に現金に換えた。お前のおっさんのこしらえた借金返済のためにな」

 朱夏の伯父は、新事業の資金を銀行から借り入れできず、闇金融から借金をした。
 勝手に連帯保証人にされてしまっていた朱夏は、盛大にとばっちりを受けた。

「私の天国貯金はすごく貯まってたんだね」

 辰は肩をすくめる。

「貯まっててんけどもうすっからかんや。また増やさんとほんまに死んだ時やばい。せやから、毎日一回はええことしいやって言うてんの」

 現世の借金は消えたが、同時に天国の貯金も尽きたため、朱夏は毎日コツコツ善行を積むための修行中だ。

「でもそれなら、伯父さんの天国貯金を使ってくれたらよかったのに……」

 もっともなことを呟くと、辰はため息を吐く。

「審査が通らんやろ。それに、朱夏かて死のうと思ったんやから、罪はあるんやで」

 原因は伯父のせいかもしれないが、自死を選んだのは自分だ。
 それとこれは別なのだと辰は厳しい顔で告げる。

「命を粗末にしたらあかんで」
「めちゃくちゃ反省してる。シンが止めてくれなかったら、この厚焼き卵サンドを食べられないままだったわけで……」
「そこかいな!」

 辰は「ほんまに食い意地はっとんねんな」と脱力しながら笑った。

「実は〈徳〉も〈善行〉も簡単なことや」
「そうは言うけど、いざ実践しようとすると難しいんだよね」
「難しくないで。感謝したり心を幸せで満たしたりしておけば、すぐ貯まる」

 朱夏は一言一句呑み込むように、ゆっくり頷いた。

「一日一善、頑張ってき。そしたら、晩飯に美味うまいもんが待っとる」
「……うん、わかった!」

 朱夏の笑顔に、辰はホッとしたように目元を緩めたのだった。
 我が家となった一軒家を出ながら、朱夏は感謝の気持ちが押し寄せてくる。
 取り立て屋に家の扉を叩かれる恐怖も、不安や憂鬱ゆううつで胸が潰れそうな夜も、泣きながら迎える朝も消え去った。
 食べ物が喉を通らず、どんなに美味おいしい料理も味がしなかったのが、まるで嘘のようだ。

(全部シンがどうにかしてくれたから……。でも次は、私がちゃんとする番だ)

 彼の作る手料理の美味おいしさと温もりに、毎日帰宅するのが待ち遠しい。おかげで、仕事を頑張ろうと思えるようにもなった。
 一人じゃないことは心強い。誰かと一緒に食べるご飯は楽しい。
 共働きの両親とは食事を一緒にした経験が少ないので、朱夏は帰宅して誰かが家にいてくれることに幸せを感じていた。
 今日あった出来事を話しながら食べる夕食は、一日のうちで一番楽しくて満たされる時間だ。
 辰の料理から、朱夏は日に日に活力を得ているのを実感していた。

(ああ、今日のお弁当と晩ご飯なんだろう……?)

 朝飯を食べたばかりなのに、電車に揺られるとすぐにお腹が減ってくる。朝食のカロリーなんて、満員電車に乗るだけでゼロだ。

(やばい、もうお腹いてきた)

 改札に向かって歩いていると、後ろから駆けてきたサラリーマンがぶつかってきた。脇腹に強く鞄が当たったため、朱夏は思い切りよろけた。

「痛っ……」

 しかしサラリーマンは謝りもせずそのまま走り去っていく。

(え、え――……っ⁉)

 朱夏は伸ばした手をむなしく空中に残したまま、口をパクパク開けた。

「ちょ、ちょっ待っ……待たないよね……はぁ」

 いつもだったら絶対に胸中で悪態を吐くところだ。それを、朱夏はぐっとこらえた。

(愚痴を言ったところで、私の気分が悪くなるだけだから!)

 ムカムカするが、辰が作ってくれた料理を思い出すことで気を紛らわせる。そして、「厚焼き卵サンド!」と三回小さく呟いた。
 ――チャリーン!
 途端、間の抜けたお金の音が聞こえてきて朱夏は足を止めた。


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