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鈴木藍子side 1歩の価値

怖くても歌える

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まさか制服から私服に着替え忘れているとは…。

私はカラオケ店の近くにやっと着いて息を整える。

自分がまだ制服を着ていることに気付いたのは家の近くのコンビニの前を通った時だ。

ふと、窓ガラスを見てみるとブレザーを纏った女がこっちを見ている。

よく見れば私だった。

ハッとして腕を見ると制服を着ていると自覚して、足をカラオケ店と逆方向に向けて動き出した。

たった今歩いた道をひたすら戻るのは苦痛で仕方なかった。



私はやっとカラオケ店の前に立つ。

このくらいの距離で息切れしているのはきっと保健室登校になって運動しなくなったからだ。

歌を歌うだけでは運動にならないのだろうか。

私はまだ鼻で吸う息が荒くて一旦口呼吸に変更した。

6月だと言うのに午後の1時になると日差しが強くなる。

帽子を被った方がよかったのに、私服に着替えたことの満足感で完全に忘れていた。

私は近くにある自販機で小さいコーラを買う。

出てきたコーラを1回頬っぺたに当てて涼むと一気に飲み干す。


「はぁーー」


この清涼感が堪らなく好きだ。

体に悪いからと言われて小さい頃は飲ませて貰えることは少なかったが、高校生になった今なら飲み放題だ。

私は暑さで一気飲みしたコーラを近くのゴミ箱に捨てる。

そしてカラオケ店辺りを見回した。

人通りは少ない。

というか私しか居ない。

来た時間帯のタイミングが良かった。

私は喉を「んん!」と鳴らしていつもの定位置に立った。



「…例え歌えなくなっても~」



曲の出だしは好調。

今日も問題なく歌えるようだ。



「後悔なんてしない~」



私の歌声が人のいないカラオケ店の前で響く。

歌ってしまえば恥ずかしさなんてなかった。




ーーーーーー



私がここで歌い始めたのは保健室登校になってから。

初めて歌ったのはまだ寒い2月の中旬だった。

きっかけが、ここ周辺はアーティストの卵が路上ライブをやっているというSNSでの情報を手に入れたこと。

私はその時勢いで「やってみよう」と思ってしまい、何も知らないままこの場所までやってきた。

今思えば少しでも変わりたい想いでの行動だったのだろう。

来たことのない道を通って行くのは怖さもあったけど、何かが変われそうという謎の自信の方が強く出ていた。

しかし来た時までは良かったが、いざ立ってみると緊張で声が全く出ない。

人通りは少ないものの学校に居る時と同じような恐怖感が襲ってくる。

誰も私のことなんて気にしてないのに。

そう思っても恐怖は消えなかった。

手も震えてきて完全にやばい状態になる。

一言で言うと無理だった。

私は結局変われない。

そう絶望感が一気に私に取り憑く。

保健室登校になった時からわかっていた。

きっと私はもう人が無理になるって。

それなのにここに来て歌おうと思ってしまった私は馬鹿だ。

悔しくても何もできないので私はそのまま帰ろうとカラオケ店の前を通る。



「歌わないのかい?」

「え?」



俯いて歩く私に話しかけたのは白髪のおじさんだった。

急に話しかけられて驚くと同時に恐怖感が増す。

ただでさえ人が怖いと感じてしまっているのに、話しかけられるのはもっと怖くなる。

私は返事も出来ずに俯いたまま立ち止まった。



「最近店前で歌う人が滅多に減ったのでね。例え来たとしても大体は年配ばかりだから。君みたいな若い子が来るのは久しぶりだ」

「あっ、えっと…」

「緊張しているのかな?」



声が出ない私は首を縦に振る。

悪い人では無いと感じたが怖いのは変わらない。

そんな私を見ておじさんは笑った。



「あー」

「え?」

「ほら真似してみな。あー」

「あっ、あー」

「そうだ。あーー」

「あーー」

「君はいい声をしているじゃないか。それにちゃんと声が出せたってことは歌える証拠だ。あーーー」

「あ、あーーーー」



何も知らない人が見たら変人扱いだろう。

おじさんと女子高生が「あ」で叫んでいるのだから。

それでもおじさんはやめない。

私も釣られて「あ」を叫び続ける。

途中面白くて笑ってしまった。



「ふふっ」

「それじゃあ次のステップだ。カエルの歌は知ってるかい?」

「はい。わかります」

「それを私とずらしながら歌ってほしい。普通に続けて歌えば大丈夫だ。……カエルの歌が~」

「か、カエルの歌が~」

「聞こえてくるよ~」

「聞こえてくるよ~」



高校生にもなってカエルの歌を歌うとは思わなかった。

それでも嫌な気は全くしない。

むしろ楽しかった。

懐かしいと思いながら歌っていると、カエルの歌は私の歌声で終わった。

おじさんは微笑んで私を見ると、


「歌えたじゃないか」


優しい声でそう言ってくれた。



「でも、おじさんが一緒だったから…」

「確かに一緒だった。でも最後は君の歌声で終わったのだよ。最後の方は追いかけるのではなく、自分の歌にしていたように私は聞こえた」

「そうなんですか…?」

「君は歌手志望かい?」

「いえ、そういうのではないです」

「そうか。勿体無いな。少し練習すれば上達できるぞ?」

「でも私、人がダメだから」

「え?」

「人が怖いんです。おじさんに対しても最初は恐怖に感じてしまいました。だから私が誰かの前に立つ歌手なんて出来ません」

「それなら何故怖いか聞いてもいいかい?」

「わからないです。別に何かあった訳じゃない。急に学校行けなくなってしまって……。今は教室に行けてません」



せっかく上げられていた顔を私はまた下にする。

話している時も私は悔しさでいっぱいだった。



「別に怖くても良いじゃないか」

「えっ、」

「歌手って言うのはただ歌詞を口ずさむだけでは成り立たない。そんな風にしか思ってない奴はいつまでもデビューなんて出来っこないよ。本物の歌手は、歌で自分の気持ちを放つんだ。例え甘い恋愛ソングでも感情の入れ方1つで悲しくなるし、苦しくもなる。けれども感情って言うのは操作が難しい。明るい人が暗く歌ってみたってそれは演技にしかならないからね」

「は、はぁ、?」



全くわからないのが本心だ。

とにかく歌手の世界は難しいことは理解できた。

けれどもおじさんの意図は理解できない。

何故、人が怖くても良いのだろう。



「君は人が怖い。だったらその怖さを歌に乗せればいい。今の時代、君みたいな人は沢山いる。だからこそ伝わりやすいのもあるんじゃないか?まぁ、何が言いたいってかって……人が怖くたって、君は前に出れる。例え時間がかかっても。歌声、とても良かったよ。私はそろそろ時間だからここでお別れだ。もし何かあったらここに来てくれ」



おじさんはそう言って指を指す。

私はその方向を見ると、カラオケ店だった。



「カラオケ店の方だったんですか?」

「ああ、そうだ。もしまた歌いたくなったらこの店の前で歌うと良い。何かあったらアドバイスしてやれる」

「……いえ結構です」

「ん?嫌だったか?」

「違くて…。私、歌が上手くなって自信がついたらおじさんに報告します。その時まではアドバイスはいりません」

「変わってるね」

「何か1つでも達成したいんです。自分の力で。あ、それともう1つ。もし私の事を知っている人がカラオケ店に来ても私の事は言わないでください」

「それまたどうして?」

「ちゃんと変わりたいので」

「……君には君の考え方があるのか。いいよ。わかった」

「ありがとうございます」



私はおじさんに頭を下げてカラオケ店の前から立ち去る。

今は顔は俯いてなかった。

自分ではわからないけどスッキリしている。

これが私の第1歩。

そうなってくれればいいな。

私はそう願いながら家に向かって歩いていた。

でもその当時は知らなかった。

この1歩はとても大きかったことを。
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