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第1章
第2話:山田浅右衛門
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家基がお気に入りの小姓と番士、一括りに言えば側近達に守られながら入った屋敷、そこは公儀お試し御用、山田浅右衛門の私邸だった。
「うっげぇ」
山田浅右衛門屋敷に入った途端、十数人の小姓が、人間の生理を直撃する悪臭に耐えきれずに吐く。
家基も激しい嘔吐衝動を感じていたが、人並外れた克己心と精神力、次期将軍である矜持を総動員して抑え込む。
お試し御用を勤める山田浅右衛門の私邸は、隣家からのもらい火によって、平川町から麹町八丁目、更に平川町三丁目に移っていた。
この屋敷に移ってから、少なくとも二〇年は死体の試し切りし続けている。
多くの人から刀の試し切りを頼まれるので、死体は一度試し切りされるだけではすまない。
切り口を縫い直され、依頼されている刀が無くなるまで何度も試し切りされる。
その死体から流れ出る血と体液が土に流れ落ちる。
それだけでも絶対に取れない異臭が屋敷に染みつくのに、それだけではない。
山田浅右衛門は、試し切りに使った人間の死体から労咳、結核の特効薬を作っているのだ。
この屋敷には、人間が生理的に吐いてしまうだけの異臭と怨念が沁み込んでいる。
柳生玄馬久通が言う通り、次期将軍が訪れて良い場所ではない。
「大納言様、お待ちしておりました」
十数人の門弟を率いた山田浅右衛門吉寛が、まだ激しく嘔吐している小姓達を見て見ぬ振りして、恭しく家基一行を迎える。
「出迎え大儀、準備はできているか?」
「はい、播磨守殿から頼まれていた通り準備しております」
実は今回の試し切り、家基が最初に準備を命じたのは柳生播磨守だった。
生真面目で融通の利かない柳生玄馬に命じても、命懸けで反対して言う通りにしない事は、家基も分かっていた。
だが、祖父である以上に師である柳生播磨守に命じられたら、柳生玄馬も渋々言う通りにすると考えて、家治将軍の剣術指南役である柳生播磨守に試し切りの準備を頼んだのだ。
実は家基、江戸柳生新陰流の道統を託された柳生播磨守を凌ぐ天才だった。
並の才能ながら努力で家基の指南役になった、柳生玄馬だけでは伝えきれない感覚的な物は、柳生播磨守が伝えていた。
「こちらでございます」
山田浅右衛門吉寛に案内されて、家基一行は屋敷の裏にある試し切り場に来た。
だが、人間用の土壇場の横に真新しい犬用の土壇場が造られていた。
「浅右衛門、余を馬鹿にしておるのか?!」
「そのような事は決してございません。これは播磨守殿の指図でございます」
山田浅右衛門は全く動じることなく答えた。
「播磨守殿からは、最初に犬畜生の死骸で試し切りを行い、それで問題がなければ生きた犬を斬る。それができて初めて、人の死骸を試し切りした方が良いと聞いております」
「……播磨守がそう言うならしかたがない」
そう言われて、家基も渋々犬の死骸から試し切りを始める事を認めた。
皆が反対する中、家治将軍の剣術指南役である播磨守ただ一人が認めてくれ、将軍を説得してくれたからこそ、御忍びではあるが、試し切りが認められたのだ。
「試し切りにはこちらの刀を御使い下さい」
そう言って山田浅右衛門から渡された刀の柄は通常よりも長く、更に鉄の輪を嵌めて重くして、切れ味が増すように工夫してあった。
「どうせなら余の刀で試したいのだが?」
家基は次期将軍として譲られた刀、甘呂友吉と宇津国久の脇差で試したいと言い出した。
「それは後日にしていただけませんか。大納言様の試し切りに合わせて、間違いのないように準備をさせていただきましたので」
「次とは、生きた犬で試し切りする時か?」
「それは、今日の試し切りの結果次第でございます」
「余の腕前を疑っておるのか?」
「大納言様は剣の天才と伺っておりますが、剣術と殺しは別物でございます。どれほど道場で強くても、人どころか生きた動物も斬れない者がおります。先ずは播磨守殿に聞かせていただいている通りの腕前で犬の死骸が斬れるか、確かめさせて頂いてからです」
「良くぞ申した、その目で余の腕を確かめよ!」
家基はそう言うと、山田浅右衛門の手から試し切り用の刀をひったくった。
普段の家基よりは乱暴な言動だった。
何時も誰憚る事無く思った通りの事を口にする家基だが、乱暴な言動は滅多になく、将軍家の御曹司らしい言葉遣いをしていた。
家基も、死骸とはいえ生まれて初めて動物を斬る事に高ぶっているようだった。
家基は躊躇う事なく死骸の摺付を斬った。
「次!」
込み上げる吐き気を捻じ伏せて山田浅右衛門に命じる。
「これを御使い下さい」
家基は、新しい刀を受け取るたびに脇上、脇、一の胴、二の胴、八枚目、腰と試し切る。
「ふぅ~!」
八振りの打刀で八ケ所の試し切りを終えた家基が、大きく息を吐く。
犬の死骸とはいえ、生まれて初めて試し切りをしたのだ。
心身にかかる負担は思っていた以上に大きかった。
だが、次期将軍の矜持があるので、弱った姿は誰にも見せられない。
「世話になった、次の用意ができたら使者を送ってくれ」
何事もないように見せかけて屋敷を後にした。
「うっげぇ」
山田浅右衛門屋敷に入った途端、十数人の小姓が、人間の生理を直撃する悪臭に耐えきれずに吐く。
家基も激しい嘔吐衝動を感じていたが、人並外れた克己心と精神力、次期将軍である矜持を総動員して抑え込む。
お試し御用を勤める山田浅右衛門の私邸は、隣家からのもらい火によって、平川町から麹町八丁目、更に平川町三丁目に移っていた。
この屋敷に移ってから、少なくとも二〇年は死体の試し切りし続けている。
多くの人から刀の試し切りを頼まれるので、死体は一度試し切りされるだけではすまない。
切り口を縫い直され、依頼されている刀が無くなるまで何度も試し切りされる。
その死体から流れ出る血と体液が土に流れ落ちる。
それだけでも絶対に取れない異臭が屋敷に染みつくのに、それだけではない。
山田浅右衛門は、試し切りに使った人間の死体から労咳、結核の特効薬を作っているのだ。
この屋敷には、人間が生理的に吐いてしまうだけの異臭と怨念が沁み込んでいる。
柳生玄馬久通が言う通り、次期将軍が訪れて良い場所ではない。
「大納言様、お待ちしておりました」
十数人の門弟を率いた山田浅右衛門吉寛が、まだ激しく嘔吐している小姓達を見て見ぬ振りして、恭しく家基一行を迎える。
「出迎え大儀、準備はできているか?」
「はい、播磨守殿から頼まれていた通り準備しております」
実は今回の試し切り、家基が最初に準備を命じたのは柳生播磨守だった。
生真面目で融通の利かない柳生玄馬に命じても、命懸けで反対して言う通りにしない事は、家基も分かっていた。
だが、祖父である以上に師である柳生播磨守に命じられたら、柳生玄馬も渋々言う通りにすると考えて、家治将軍の剣術指南役である柳生播磨守に試し切りの準備を頼んだのだ。
実は家基、江戸柳生新陰流の道統を託された柳生播磨守を凌ぐ天才だった。
並の才能ながら努力で家基の指南役になった、柳生玄馬だけでは伝えきれない感覚的な物は、柳生播磨守が伝えていた。
「こちらでございます」
山田浅右衛門吉寛に案内されて、家基一行は屋敷の裏にある試し切り場に来た。
だが、人間用の土壇場の横に真新しい犬用の土壇場が造られていた。
「浅右衛門、余を馬鹿にしておるのか?!」
「そのような事は決してございません。これは播磨守殿の指図でございます」
山田浅右衛門は全く動じることなく答えた。
「播磨守殿からは、最初に犬畜生の死骸で試し切りを行い、それで問題がなければ生きた犬を斬る。それができて初めて、人の死骸を試し切りした方が良いと聞いております」
「……播磨守がそう言うならしかたがない」
そう言われて、家基も渋々犬の死骸から試し切りを始める事を認めた。
皆が反対する中、家治将軍の剣術指南役である播磨守ただ一人が認めてくれ、将軍を説得してくれたからこそ、御忍びではあるが、試し切りが認められたのだ。
「試し切りにはこちらの刀を御使い下さい」
そう言って山田浅右衛門から渡された刀の柄は通常よりも長く、更に鉄の輪を嵌めて重くして、切れ味が増すように工夫してあった。
「どうせなら余の刀で試したいのだが?」
家基は次期将軍として譲られた刀、甘呂友吉と宇津国久の脇差で試したいと言い出した。
「それは後日にしていただけませんか。大納言様の試し切りに合わせて、間違いのないように準備をさせていただきましたので」
「次とは、生きた犬で試し切りする時か?」
「それは、今日の試し切りの結果次第でございます」
「余の腕前を疑っておるのか?」
「大納言様は剣の天才と伺っておりますが、剣術と殺しは別物でございます。どれほど道場で強くても、人どころか生きた動物も斬れない者がおります。先ずは播磨守殿に聞かせていただいている通りの腕前で犬の死骸が斬れるか、確かめさせて頂いてからです」
「良くぞ申した、その目で余の腕を確かめよ!」
家基はそう言うと、山田浅右衛門の手から試し切り用の刀をひったくった。
普段の家基よりは乱暴な言動だった。
何時も誰憚る事無く思った通りの事を口にする家基だが、乱暴な言動は滅多になく、将軍家の御曹司らしい言葉遣いをしていた。
家基も、死骸とはいえ生まれて初めて動物を斬る事に高ぶっているようだった。
家基は躊躇う事なく死骸の摺付を斬った。
「次!」
込み上げる吐き気を捻じ伏せて山田浅右衛門に命じる。
「これを御使い下さい」
家基は、新しい刀を受け取るたびに脇上、脇、一の胴、二の胴、八枚目、腰と試し切る。
「ふぅ~!」
八振りの打刀で八ケ所の試し切りを終えた家基が、大きく息を吐く。
犬の死骸とはいえ、生まれて初めて試し切りをしたのだ。
心身にかかる負担は思っていた以上に大きかった。
だが、次期将軍の矜持があるので、弱った姿は誰にも見せられない。
「世話になった、次の用意ができたら使者を送ってくれ」
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