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第1章
第20話:懐妊
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長谷川平蔵達が着実に薩摩藩を侵食している間に、秋が終わり冬になっていた。
閑院宮典仁親王の工作もなかなか上手くいかず、予定を繰り上げて孝宮を江戸に下向させる事はできなかった。
それも当然で、徳川家とすれば、家基の子供は孝宮から生まれなくても良いのだ。
跡継ぎの男子さえ生まれてくれれば、相手が町民の娘でもかまわない。
将軍家の考えでは、女の腹は借り物でしかないのだ。
実母が誰であれ、生まれた男子を正室の養子にしてしまえば良い。
宮家出身の正室から嫡男が生まれて、宮家が外戚になって将軍に影響力を発揮しない方が、将軍家や幕閣には都合が良い。
家治が将軍の時代には行われなかったが、時代によっては、宮家や公家出身の御台所や御簾中に、子供を産まさないようにしていた。
天皇に娘を嫁がせ続けて、外戚の立場で天皇を傀儡にし続けた藤原氏の支配を、将軍家と幕閣は警戒しているのだ。
それを危険視したからこそ、歴代将軍は力も金もない宮家や五摂家から正室を取り、側室も力のない旗本から取っていた。
有力大名家からは正室どころか側室も取っていなかった。。
戦力も財力もある大名級の姫で側室になったと言われているのは、尾張藩の付家老で犬山城三万五〇〇〇石を領する、成瀬氏の娘、おまさだけだ。
だが、成瀬氏の家系図におまさの名はない。
夭折した家光の次男、亀松の記録は残っているが、実母であるおまさは院号すら残っていないのだ。
成瀬氏が家柄を良くしようと嘘をついたのか、外戚となって権力を振るおうとしたのを将軍家や幕閣から警戒されたから、危険を感じて家系図から省いたのか?
今となっては誰にも分からない、歴史の闇になっている。
それに、大名級の石高を領していると言っても、成瀬氏は付家老でしかない。
御付家老の立場は凄く微妙なのだ。
御付家老は、徳川家康をはじめとした歴代の将軍家が、分家させた子弟の教育と監視のために付けたのが始まりだ。
だから立場的には、家臣というよりは幕府の監視役という割合の方が強かった。
現に松平忠輝に付けられた皆川広照が、徳川家康に忠輝の不行跡を訴えている。
だが徳川幕府が一七〇年も続くと、御付家老の立場も藩によって変わってくる。
付けられた先の大名家の、家臣としての立場を優先する御付家老もいれば、待遇の悪さに反感を持つ御付家老もいる。
尾張徳川家の成瀬家と紀伊徳川家の安藤家は、先祖の功績から言えば、老中を輩出する家となっても可笑しくない名門だ。
それが一人で将軍に拝謁もできない陪臣扱いでは、子孫も腹が立って当然だった。
だが成瀬家は幕府よりも尾張徳川家に忠誠を誓っていた。
安藤家も幕府よりも紀伊徳川家の忠誠を誓っていた。
一方水戸徳川家の御付家老中山家は、三代目から幕臣の資格を失っていた。
その影響か、中山家は水戸徳川家よりも幕府将軍家を見ていた。
単独で将軍と謁見できる、独立大名の立場を切望していた。
独立した藩主の地位を手に入れられるのなら、どのような手段も厭わない。
そんな中山家を利用して、水戸徳川家を操ろうとする者がいた。
家基はもちろん、家治将軍も田沼意次もそんな事になっているとは知らなかった。
三人の関心は、深雪の月のモノが止まった事に集中していた。
奥医師の見立てでは、深雪は妊娠しているとの事だった。
家治将軍とお知保の方は狂喜乱舞した。
田沼意次は、表向きは老中として家臣として喜ぶ、冷静な姿を見せていた。
だが内心では、外孫ができた喜びをかみしめていた。
自分が家治将軍に諫言して生まれた家基と、家治将軍に意趣返しされてできた娘が結ばれて妊娠したのだから、運命と月日を感じてしまうのも当然だ。
家基は、自分が父親になると聞かされて思いっきり動揺した。
正義感が強く、若者特有に視野狭窄で、超箱入り息子なのだ。
自分が父親となって子供を守る立場になる事に、少し恐怖を感じていた。
それぞれの立場で感じる事は多少違ったが、大きく括れば幸せ以外の何物でもない状況だったが、どこからともなく田沼意次を貶める噂が城下に広まった。
城下や幕臣間だけでなく、全ての大名家にも燎原の火のように噂が広まった。
その噂は全て嘘ではなく、田沼意次が隠そうとした真実が少しだけ当たっていた。
家基が寵愛するようになった深雪は、家老倉見金太夫の娘ではなく田沼意次本人の娘で、将軍家の外戚となって幕府を支配するために、嘘をついて西之丸大奥にいれたという噂だ。
その証拠の一つが、嫡男の大和守意知を家基の側近にしようとしている事だと、城下の隅々にまで広まっていた。
幕閣には家治将軍に忠誠を誓う者が集まっている。
家治将軍が心から信頼する田沼意次と協力して幕府を導いて行こうとしている。
だが、幕閣以外の名門旗本は違うのだ。
紀州から来た新参者が権力を握り、幕府を主導するのを増悪していた。
自分達の無能、先祖の功名を誇るだけで何の努力もしない、役立たずなのを顧みることなく、忠誠を尽くす者の邪魔をする事だけに力を注ぐ屑達がいた。
そんな連中が本丸の小姓や小納戸に紛れ込み、両番には結構な数が残っていた。
試し切り不服従事件で多数の名門譜代が処分されたが、まだ数多く残っていた。
そんな連中が、城下に広がる噂を家治将軍の耳に入れた。
「主殿頭、深雪がそちの娘だと言うのは本当か?」
家治将軍が、人払いをした御座之間で田沼意次に問いかけた。
「深雪様は長谷川平蔵殿の養女として大奥入りしておられます。実の父親は我が藩の家老倉見金太夫ではございますが、武家の家格は、実家の家格ではなく、養家の家格によって決まるものでございます」
田沼意次が全く動揺する事なく堂々と答えた。
「誰が本当の父親であろうと、平蔵の娘として扱えと言っているのだな?」
「はい、そうしなければ、将軍家の養女となって大名家に嫁がれた姫様方の立場が無くなってしまいます。実家の影響を無にして養家の家格とするのは、帝が皇女殿下を臣下の家に養子に出してから嫁がせるのと同じでございます」
家治将軍は嘘偽りを絶対に許さない決意の籠った視線で更に問い直した。
「倉見金太夫の事はもちろん、その前の事も関係ないと言うのだな?」
「はい、上様の養女となられている種姫様、有徳院殿の御養女となられた浄岸院と雲松院はもちろん、御三方から御生まれになった方々の立場もなくなります!」
田沼意次の揺るぎない強い態度に、家治将軍もそれ以上の追及を諦めた。
家治将軍には、最初から田沼意次を責める気はなかった。
自分が田沼意次に側室を持つように命じた時にできた娘なら、強い縁、運命があったのだと思えるから確かめたかっただけだ。
だが家治将軍も馬鹿ではないから、田沼意次が強く否定する理由も直ぐ理解した。
深雪が田沼意次の娘だと分かったら、これまで以上に命を狙われる。
それは深雪だけでなく、御腹にいる子も同じだ。
田沼意次が権力を握る事を腹立たしく思っている名門譜代は、どのような手段を使っても家基と深雪の間にできた子を殺そうとする。
「分かった、深雪の父親は長谷川平蔵以外の誰でもない。嫡男が生まれて引き立てられるのも、倉見家ではなく長谷川家で良いのだな?」
「はい、そのようにお願い申し上げます」
家治将軍と田沼意次は、ぞれぞれの立場と能力でやれる精一杯の事をやった。
実際には、養家だけでなく実家も引き立てられる。
そうでなければ、津田家が凜米三〇〇俵から知行五〇〇〇石にはならない。
現実は兎も角、建前を強く主張するのはとても大切な事だった。
特に今は、大切な子供を無事に生ませられるかどうかの瀬戸際だ。
建前どころか嘘を吐いてでも守らなければいけない。
だが多くの名門譜代は、家治将軍と田沼意次の努力も親心も理解しなかった。
閑院宮典仁親王の工作もなかなか上手くいかず、予定を繰り上げて孝宮を江戸に下向させる事はできなかった。
それも当然で、徳川家とすれば、家基の子供は孝宮から生まれなくても良いのだ。
跡継ぎの男子さえ生まれてくれれば、相手が町民の娘でもかまわない。
将軍家の考えでは、女の腹は借り物でしかないのだ。
実母が誰であれ、生まれた男子を正室の養子にしてしまえば良い。
宮家出身の正室から嫡男が生まれて、宮家が外戚になって将軍に影響力を発揮しない方が、将軍家や幕閣には都合が良い。
家治が将軍の時代には行われなかったが、時代によっては、宮家や公家出身の御台所や御簾中に、子供を産まさないようにしていた。
天皇に娘を嫁がせ続けて、外戚の立場で天皇を傀儡にし続けた藤原氏の支配を、将軍家と幕閣は警戒しているのだ。
それを危険視したからこそ、歴代将軍は力も金もない宮家や五摂家から正室を取り、側室も力のない旗本から取っていた。
有力大名家からは正室どころか側室も取っていなかった。。
戦力も財力もある大名級の姫で側室になったと言われているのは、尾張藩の付家老で犬山城三万五〇〇〇石を領する、成瀬氏の娘、おまさだけだ。
だが、成瀬氏の家系図におまさの名はない。
夭折した家光の次男、亀松の記録は残っているが、実母であるおまさは院号すら残っていないのだ。
成瀬氏が家柄を良くしようと嘘をついたのか、外戚となって権力を振るおうとしたのを将軍家や幕閣から警戒されたから、危険を感じて家系図から省いたのか?
今となっては誰にも分からない、歴史の闇になっている。
それに、大名級の石高を領していると言っても、成瀬氏は付家老でしかない。
御付家老の立場は凄く微妙なのだ。
御付家老は、徳川家康をはじめとした歴代の将軍家が、分家させた子弟の教育と監視のために付けたのが始まりだ。
だから立場的には、家臣というよりは幕府の監視役という割合の方が強かった。
現に松平忠輝に付けられた皆川広照が、徳川家康に忠輝の不行跡を訴えている。
だが徳川幕府が一七〇年も続くと、御付家老の立場も藩によって変わってくる。
付けられた先の大名家の、家臣としての立場を優先する御付家老もいれば、待遇の悪さに反感を持つ御付家老もいる。
尾張徳川家の成瀬家と紀伊徳川家の安藤家は、先祖の功績から言えば、老中を輩出する家となっても可笑しくない名門だ。
それが一人で将軍に拝謁もできない陪臣扱いでは、子孫も腹が立って当然だった。
だが成瀬家は幕府よりも尾張徳川家に忠誠を誓っていた。
安藤家も幕府よりも紀伊徳川家の忠誠を誓っていた。
一方水戸徳川家の御付家老中山家は、三代目から幕臣の資格を失っていた。
その影響か、中山家は水戸徳川家よりも幕府将軍家を見ていた。
単独で将軍と謁見できる、独立大名の立場を切望していた。
独立した藩主の地位を手に入れられるのなら、どのような手段も厭わない。
そんな中山家を利用して、水戸徳川家を操ろうとする者がいた。
家基はもちろん、家治将軍も田沼意次もそんな事になっているとは知らなかった。
三人の関心は、深雪の月のモノが止まった事に集中していた。
奥医師の見立てでは、深雪は妊娠しているとの事だった。
家治将軍とお知保の方は狂喜乱舞した。
田沼意次は、表向きは老中として家臣として喜ぶ、冷静な姿を見せていた。
だが内心では、外孫ができた喜びをかみしめていた。
自分が家治将軍に諫言して生まれた家基と、家治将軍に意趣返しされてできた娘が結ばれて妊娠したのだから、運命と月日を感じてしまうのも当然だ。
家基は、自分が父親になると聞かされて思いっきり動揺した。
正義感が強く、若者特有に視野狭窄で、超箱入り息子なのだ。
自分が父親となって子供を守る立場になる事に、少し恐怖を感じていた。
それぞれの立場で感じる事は多少違ったが、大きく括れば幸せ以外の何物でもない状況だったが、どこからともなく田沼意次を貶める噂が城下に広まった。
城下や幕臣間だけでなく、全ての大名家にも燎原の火のように噂が広まった。
その噂は全て嘘ではなく、田沼意次が隠そうとした真実が少しだけ当たっていた。
家基が寵愛するようになった深雪は、家老倉見金太夫の娘ではなく田沼意次本人の娘で、将軍家の外戚となって幕府を支配するために、嘘をついて西之丸大奥にいれたという噂だ。
その証拠の一つが、嫡男の大和守意知を家基の側近にしようとしている事だと、城下の隅々にまで広まっていた。
幕閣には家治将軍に忠誠を誓う者が集まっている。
家治将軍が心から信頼する田沼意次と協力して幕府を導いて行こうとしている。
だが、幕閣以外の名門旗本は違うのだ。
紀州から来た新参者が権力を握り、幕府を主導するのを増悪していた。
自分達の無能、先祖の功名を誇るだけで何の努力もしない、役立たずなのを顧みることなく、忠誠を尽くす者の邪魔をする事だけに力を注ぐ屑達がいた。
そんな連中が本丸の小姓や小納戸に紛れ込み、両番には結構な数が残っていた。
試し切り不服従事件で多数の名門譜代が処分されたが、まだ数多く残っていた。
そんな連中が、城下に広がる噂を家治将軍の耳に入れた。
「主殿頭、深雪がそちの娘だと言うのは本当か?」
家治将軍が、人払いをした御座之間で田沼意次に問いかけた。
「深雪様は長谷川平蔵殿の養女として大奥入りしておられます。実の父親は我が藩の家老倉見金太夫ではございますが、武家の家格は、実家の家格ではなく、養家の家格によって決まるものでございます」
田沼意次が全く動揺する事なく堂々と答えた。
「誰が本当の父親であろうと、平蔵の娘として扱えと言っているのだな?」
「はい、そうしなければ、将軍家の養女となって大名家に嫁がれた姫様方の立場が無くなってしまいます。実家の影響を無にして養家の家格とするのは、帝が皇女殿下を臣下の家に養子に出してから嫁がせるのと同じでございます」
家治将軍は嘘偽りを絶対に許さない決意の籠った視線で更に問い直した。
「倉見金太夫の事はもちろん、その前の事も関係ないと言うのだな?」
「はい、上様の養女となられている種姫様、有徳院殿の御養女となられた浄岸院と雲松院はもちろん、御三方から御生まれになった方々の立場もなくなります!」
田沼意次の揺るぎない強い態度に、家治将軍もそれ以上の追及を諦めた。
家治将軍には、最初から田沼意次を責める気はなかった。
自分が田沼意次に側室を持つように命じた時にできた娘なら、強い縁、運命があったのだと思えるから確かめたかっただけだ。
だが家治将軍も馬鹿ではないから、田沼意次が強く否定する理由も直ぐ理解した。
深雪が田沼意次の娘だと分かったら、これまで以上に命を狙われる。
それは深雪だけでなく、御腹にいる子も同じだ。
田沼意次が権力を握る事を腹立たしく思っている名門譜代は、どのような手段を使っても家基と深雪の間にできた子を殺そうとする。
「分かった、深雪の父親は長谷川平蔵以外の誰でもない。嫡男が生まれて引き立てられるのも、倉見家ではなく長谷川家で良いのだな?」
「はい、そのようにお願い申し上げます」
家治将軍と田沼意次は、ぞれぞれの立場と能力でやれる精一杯の事をやった。
実際には、養家だけでなく実家も引き立てられる。
そうでなければ、津田家が凜米三〇〇俵から知行五〇〇〇石にはならない。
現実は兎も角、建前を強く主張するのはとても大切な事だった。
特に今は、大切な子供を無事に生ませられるかどうかの瀬戸際だ。
建前どころか嘘を吐いてでも守らなければいけない。
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