奴隷魔法使い

克全

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王都編

石垣島制圧

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 『琉球大公国・石垣島』

 「用達殿、今日は何ごとです!」

 「琉球大公家は、武蔵王家の怒りをかって転地処分を課せられたそうです。代官殿も本島に帰って転地に同行なされよ。」

 「なに! 嘘を申すな!」

 「本当でございます。ここにおられる唐津子爵閣下と飯豊男爵閣下が使者として参られたのです。」

 「口では何とも言える。本当に子爵閣下や男爵閣下とは限らん。魔法使いが詐称しているだけかもしれん。」

 (尊、ここはさっさと叩きのめしましょう。)

 彩は本当に積極的になった。朝鮮での和人奴隷の悲惨な境遇を見てから、俺の奥方では無く1人の貴族として動いて、出来るだけ多くの和人奴隷を助ける事を決意したのだろう。ならばそれを助けるのも俺の務めだ。

 (分かったやろう!)

 俺と彩は、西表島の慶来慶田城用達を盥空船に乗せて、見せつけるように石垣島に渡っていた。石垣島は、アカハチ乱で古見大首里大屋子に任じられ、後に石垣頭職となった長田大主信保の子孫・長栄氏長田家が権勢を振るっていた。そしてその下に大浜間切の地頭、宮良間切の地頭・石垣間切の地頭を設けていた。

 そこで俺と彩は、慶来慶田城用達と共に石垣島の困窮する民を統合し、琉球大公家に味方する者達を討伐して行った。

 瞬く間に琉球大公家の手先を討伐した俺と彩は、石垣島各集落の主だった者を伴い、於茂登岳を囲うように築いた石垣城に連れて行った。

 「ここにいるのが石垣城代で、石垣島の代官も兼ねる赤井氏得じゃ。今後何か相談があればこの者に言うがよい。」

 「はい、有り難き幸せでございます。」

 「早速でございますが、御願いしたき事があるのですが、宜しいでしょうか?」

 「子爵閣下? 私が聞いて宜しいのでしょうか?」

 「俺も男爵も口出しはせん。先ずは御前が判断してみよ。」

 「はい! 何事だ、遠慮なく申してみよ。」

 「人頭税を廃止して頂けるのは、まことにありがたいことなのですが、困窮する民は今日明日の食事にも事欠いております。中には赤子の間引きすら行われております。必ず返させて頂きますから、食糧を御貸し下さいませんでしょうか!」

 「認める! 貸すことは何の異存も無い。だが返済の当ては有るのか?」

 「今は水不足で水田に限りがございますが、溜池を設けて水田を増やします。それで増産した米から返済させていただきます。」

 「溜池があればもっと水田を増やせるのだな。」

 「はい!」

 「両閣下、我らで溜池を作り利用料を徴収することは出来ませんか?」

 「作れるぞ、俺と彩で川を堰き止め広大な溜池を創ろう。」

 『有り難き幸せでございます!』

 俺と彩は、一刻でも早く赤子の間引きを止めさせるため、1000兵の石垣城駐屯兵を動員して食料貸与を行った。同時に河川の上流を調査して、ダムを築いて飲料用水・農業用水を貯める事にした。そして石垣城駐屯兵を分派して、ダムの運営を任せることにした。

 今までダムを築いて飲料用水・農業用水を確保する事を思いつかなかった。だが思いついた以上見て見ぬ振りは出来ない。支配地域をこまめに視察して、各種ダムを築く事にした。


 史実で琉球王家は石垣島への強制移住を強行した。その集団移住のことを、寄百姓よせびゃくしょうや島別け(シマバギ)とも言っていた。適正規模の人口を維持するためという大義名分もあったようだが、移住者の選定は親子や兄弟関係、恋愛関係などは斟酌せず一方的に決められた。そしてあろうことか、マラリアなどの病気が発生する未開の地を開くことを命じたのである。そもそも有病地であるゆえ人々はそこを敬遠し、病気のない島々に居住していたのである。しかし琉球王府はそのことを一切無視し、移住政策を強行した。正に税収を増やすためには手段は選ばずで、八重山の人々を奴隷の如く扱ったのだ。

 石垣島の野底は黒島からの移住者が開いた村で、そこには野底岳(海抜282m)という山がある。石垣島の山には珍しく鋭角な嶺が特長で、山頂付近にまるで人が座しているような形の巨岩が見える。言い伝えによると、この巨岩はマーペという乙女の化身であるとされている。別れてきた恋人がいる黒島みたさに野底岳に登ったものの、於茂登岳(海抜526m)が視界を遮り見ることができず、落胆のあまりマーペは石になってしまったそうだ。

 伝説以外にも強制移住の状況を歌った民謡がいくつか残されている。野底に移住させられた若者が、故郷黒島にいる恋人を偲んで歌った「久場山越路節」や西表島の崎山に移された人が、我が父母の国波照間の方を眺めると、生みの母が目の当たりに見える心地がするなどと歌った「崎山節」などが代表的である。これらの歌から移住させられた人々のはかなさとやるせない気持ちが伝わってくる。

1647年八重山の人口、5,482人と記録にある
1665甘藷、初めて八重山に伝来
1681間引(赤子埋殺)の悪習始まる
1694石垣島にサツマイモ伝来
1718 唐船、石垣島へ漂着 

【八重山の間切と村】
慶長年間に検地を行い、寛永5年(1628)に租庸調を上・中・上・下・下々の男女頭数に賦課する。
寛永5年(1628)に大浜、石垣、宮良の三間切に分けて翌年(1629)に各村を定める。
石垣間切は登野城・竹富・黒島・花城・古見・新城・小浜の7ヶ村とする。
宮良間切は宮良・石垣・川平・中筋・波照間・フル?・平田・アラントの8ヶ村とする。
大浜間切は大浜・崎原・大城・白保・浮海・平久保・鳩間・西表・慶田城・与那国の10ヶ村とする。
寛永9年(1632)に在番が置かれ、大和在番は慶応2年(1867)に廃止される。
正保3年(1646)に全島の竿入が行われる。
  (寛永年間からの間切や村の新設は人頭賦課のため)

【八重山の近世村の発生】(新設村)
享保7年(1722)黒島村より400余名を宮良村の野底に分移し野底村を新立する。
享保7年(1722)石垣、登野城、平得、白保、宮良の5ヶ村より700余名を石垣多宇田野に分移し桃里村を新立。
享保7年(1722)小浜、その他の離島より600余名を古見、西表両村の間に自珍野に移し高那村を新設。
享保19年(1734)竹富村より74人を崎枝村近辺の屋良部森に移して南風見村を新立。
元文2年(1737)石垣登野城一ヶ村より533人を名蔵村に移し旧住民87名と合わせ600人として與人を置いた。
寛延3年(1750)石垣村960人を分ち新川村を新設。
寛延3年(1750)登野城1500人を分け大川村を新設。
寛延3年(1750)平得村より400人、大浜村より400人を移し仲原村を新設。
寛延3年(1750)白保村より686人を分移して真謝村を新設。
宝暦3年(1753)伊原間村より48人、白保村より100人、竹富より200人を分けて安良村を新設。
宝暦5年(1755)西表古見両村の間崎山地方鹿川、網取二ヶ村を本とし波照間より200人を移して崎山村を新設。
    
【明和8年(1771)の大津波による村の再編】
明和8年の大津波で溺死9180人、牛馬、家屋、田畑、船舶、穀類などの流失夥し。
真栄里、大浜、宮良、白保、伊原間、安良の6ヶ村は人家悉く流失、残家があるのは石垣四ヶ村と平得里の二ヶ村のみ。
黒島・新城被害大なり。
津波後平保より40人を安良村に分移し本村の24人と合わせて小村を立てる。
津波後竹富より550余りを富崎へ分移して新村宇良村を建てる。
天明5年(1785)宇良村を桃里村の属地盛山に移して盛山村を新設。
安永5年(1843)痲疹が流行し安良村は僅か6人となる。そのため川平と野底村から25人を移す。
津波後、真栄里は黒島より、大浜村へは波照間より、伊原間村へは黒島より分移し再建復興へ。
享和3年(1803)8月再び疾病が流行し425人が死亡。
嘉永5年(1852)の疫癘にて死亡したもの1843人。

【八重山の人口の増減】  
1607年(慶長12)  5,500人
1755年(安永4)  18,119人
1771年(明和8)  27.241人
1803年(寛政10)  15,957人
1854年(安政元)  11,216人
1912年(明治25)  16,900人
1923年(大正12)  31,493人

今帰仁村歴史文化センター HP参照
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