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第三部 異世界剣士と血塗れの聖女
第88話:スリの子供の背負うものは
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スリの子供は、すでにもうずっと向こうの角を曲がってしまった。なんて速い脚だと感心すらしながら追いかける。雪の日で助かった、足跡がはっきりと残っている。雪の日にスリなんかしたのが運の尽きだ、必ず捕まえる!
……そう思ったのに!
「い……いない⁉」
もう少しで追いつける──そう思って、細い路地に曲がった先。
そこには、誰もいなかった。足跡も途切れている。
「……馬鹿な、だってこっちに、確かに足跡が──」
道を半分以上ふさぐような木箱の先の道には足跡がなく、その中を見てみたりもしたけど、いない……!
いったいどこへ──そう思ったとき、シェリィが耳を動かし、「みつけた」と空を見上げた。
つられて上を見て、驚いた。
どうやって上ったのか、二階と三階の間あたり、すでに三階の窓の枠に手をかけてよじ上っている! いまさら気づいたけど、その子供の腰からは、しなやかな、猫のようなしっぽが生えていた。
「──獣人族!」
そうか! あいつは子供だけど、獣人だけあって身体能力が並みの子供よりもずっと高いんだろう。くそっ、このまま上まで上り切られたら逃げられる──そう思ったときだった。
「ボク、行くよ」
そう言ったシェリィが、「ふぅううううっ!」と力を入れ始める。
……だ、だめだ! 今ここでその姿を解放したら……!
そう思ったけれど、シェリィは一瞬だけこちらを見て、微笑んだ。
「だいじょうぶ。ボク、ご主人さまのおそば、はなれたくないもん」
顔かたちに変化は感じられないけれど、すこしだけ犬歯が伸びている──そんな微笑みだった。
「あおおおおおおんっ!」
遠吠えのような叫びと共に、地面を蹴り、壁を蹴り、さらに壁を蹴り──!
嘘だろ⁉
映画か何かか⁉
シェリィが、両側の壁を蹴りながら駆け上がっていく!
これには子供も驚いたみたいで、慌てた様子で飛び降りると、さらに路地の奥に駆け出した。だけどもう、あとは時間の問題だ! 狭い路地を抜け、角を曲がり、ついにそのしなやかなしっぽをつかむ!
「ひゃあんっ⁉」
「捕まえたぞ!」
「は、離せよクソっ! このスケベ野郎!」
体をひねって引っ掻いてくる!
兜をかぶってなかったら、ひどい目に遭っていたかもしれない──そんな音を兜が立てたことには驚いたけど、手を緩めるわけにはいかない!
「誰がスケベ野郎だ、スリ盗った財布を出せっ!」
「あんたの財布なんて盗ってないんだから関係ないだろっ!」
「俺の財布かどうかなんて関係ない! 盗んだものを持ち主に返すんだ!」
逃げようとするから、しっぽをつかんだ手をしっかり握って引き寄せる!
上から飛び降りてきたシェリィも、道を塞ぐようにして立ちはだかった。
「きゃあんっ⁉︎ し、しっぽから手、離せスケベ野郎!」
「財布を出して謝りに行く気があるなら、すぐにでも離してやる!」
「だれがそんなことするかよっ……きゃうんっ⁉︎」
思いっきりしっぽを握りしめると、「痛いんだって! やめろよスケベ野郎!」と再び引っ掻いてくる! 今度は予想できたから、左腕の小盾で受け止めるとその手をつかむ! 振りほどこうとしたところを、身長差を活かして吊り上げ、背中越しにもう片方の手首もつかむ!
ところがそれでも諦めずに噛みつこうとしてきたものだから、とにかく制圧するために地面に押し倒す! 雪の上で暴れるそいつに体重をかけて押さえつけると、「やめろ、やめろぉっ!」と悲鳴を上げた。
「ちくしょう! 離せよ! ガキだからって簡単にヤれると思うなよ!」
そう言って暴れるものだから、余計に手を離すわけにもいかず、とにかく押さえつける。くそっ、おとなしくしろって!
「はなせよっ! てめえみてえなスケベ野郎にしっぽ振ってサカってる犬女なんかと一緒にすんなっ! 突っ込んできたらてめえの短小×××なんか食いちぎってやるからなっ!」
……聞くに耐えない罵詈雑言が続く。スラム街に生きる子供ってこんなふうなんだ、と暗澹とした気持ちにさせられる。
というか、こいつ女の子だったのか──ますますやるせない気分になる。
「親はどこだ。大人しく財布を出せば、警吏や巡回衛士に突き出すのは勘弁してやる」
「スリの上前ハネる真似するヤツの言うことなんか、だれが信じるかよっ!」
「スリ盗った持ち主に返すだけだ」
「うるせえよ! だったら離せよ! なにが『親はどこだ』だよ、親なしのガキだって分かってるくせに! どうせヤって売るか殺すかしか考えてねえクセに!」
「なにを言ってるんだ、俺はただ、盗みを許さないだけで……」
「盗られる間抜けが悪いに決まってんだろ! みんなみんな、あたしからぶんどるくせに! だったらこっちが盗ってなにが悪いってんだ!」
また罵詈雑言の嵐。ついに我慢ができなくなったのか、シェリィが頭を蹴っ飛ばし、「ご主人さまのこと、これ以上悪くいうなら、お前、ゆるさない」と、その頭を踏みつけた。
「やめろ、シェリィ。足をどけるんだ」
「──やだ。ボク、こいつ、ゆるせない。ご主人さま、こいつがいうような、ひどいヒトじゃないもん」
「おまえだって毎晩、そこのスケベ野郎にオモチャにされてるんだろ! 知ってんだぞ、その首輪の意味!」
「ご主人さま、いつもボクのこと抱きしめてやさしくしてくれるもん!」
「ほらみろ! やっぱヤられてるじゃねえか! スケベ野郎相手にサカって腰振るのがそんなに楽しいか⁉︎ ああ楽しいのか、犬女はしっぽ振るのが仕事だもんな!」
シェリィが泣きそうな顔になって俺を見るものだから、とりあえずもう一度、こいつから足をどけるように言う。
それにしても、聞いていて、腹が立つよりも胸が痛くなってきた。
こんな子供が、ここまで酷い罵倒語を知っているってことは、この子の周りにはそういった言葉を使う連中で溢れているってことなんだろう。
日本でも、歌舞伎町あたりでうろつく奴らがそんな感じなのかもしれない。犯罪者で、どうしようもない奴らなのかもしれないけど、この世界には学校とかもなさそうだし、生きるのに必死なんだろう。
こんな小さな子供が背負うには、あまりにも過酷な運命に感じた。デュクスには呆れられるかもしれないけど、それが可哀想で、悲しかった。
「……とにかく、財布を出せ。お前に親がいないのも分かった。盗んだものだけを出せば、それ以上は何もしない。約束するから、大人しく言うことを聞け」
「死ね、腐れ×××! 子供のスリから上前はねるようなクズ野郎なんか×××が腐れ落ちて死んじまえ!」
ここまで人間不信の塊だと、どうしようもない。俺はため息をつくと、シェリィに、俺のポケットの中身を出すように言った。
「……ご主人さま?」
「いいから。こいつは、そうでもしないと納得しないだろうからさ」
そして、俺の財布の中から大銅貨を数枚出してもらうと、それをこいつの手に握らせた。
「な、なんだよてめえっ! 大人しくする気がねえって分かったら、はした金を握らせてヤろうってのかよ! だからてめえらニンゲンのオトコってのは──」
「財布が欲しかったってことは、とにかく当面の食べ物が必要だってことだろ? それだけあれば、何日かは食べていけるはずだ。スリじゃなくて、何か大人の手伝いをするような仕事をもらって、それで真っ当に稼ぐんだ」
「なにが真っ当だよ、てめえ冒険者だろ! ヒトを小突き回して小銭稼いでるてめえが偉そうにすんじゃねえっ!」
「──じゃあ、もう、そうするか」
俺は彼女の両手首を掴んでいる手を、徐々に押し上げていく。
「い、痛ぁいっ! や、やめ──」
「言っても分からないなら、もう、その通りにしてやるよ」
「え、あ──痛っ! きゃうっ……やめ、やめろ──やめろって!」
「シェリィ、こいつの手をつかんでいてくれるか?」
「うん」
シェリィに押さえつけさせると、俺はチビの足首を踏んで固定しつつ腰をつかんで持ち上げる。
「なにすんだ、離せっ! 入れたらホントに食いちぎって……や、やだ……やめろ、やめ……やめてぇっ!」
ついに泣き叫び始めたけれど、手を止めない。こいつが腰に括り付けていた、ボロボロの袋を一つ一つ外すと、中を確かめる。
「……え? な、なに、して……」
「ひとつ、ふたつ、みっつ……おい。お前が盗った財布は、これだけか?」
「あ……」
押さえつけられ、涙目になりながら頷いたのをみて、俺はため息をつくと、残りの袋を全て彼女の目の前に置いてやる。
「もう一度言うけどな。大人の仕事を何か手伝って、それで小遣いをもらうようにしろ。そういえば、冒険者ギルドでも、いつも手が足りないとか言っていた。探せば、なにかしらあるもんだ。とにかく、スリはやめろ。いずれ本当に殺されるか売られるか……未来がなくなるぞ」
そう言って、シェリィに解放するように言う。
「その手に握らせたお金は上手に使え。使い切る前に、仕事を見つけるんだ。いいな?」
シェリィが押さえつけている手を緩めずに、上目遣いに、俺に聞く。
「……ご主人さま、いいの? こいつ、ぜったい、また悪いことするよ。仕返しだって……」
「いいんだよ、もう。スられた財布も取り返したしな。あとはこの財布を持ち主に返すだけだ。そもそもこいつが生きている環境が、悪すぎるのが悪いんだ。だからもう、放してやるんだ」
シェリィが不満げにしながらも、押さえつけていた手を離すと、チビは手首をさすり、俺たちをにらみつけながら、ゆっくりと身を起こす。そして手の中の大銅貨を見て驚き、並べられた彼女自身の腰袋を一つ一つ手に取って、「……な、なんなんだよ、お前」と、俺をにらみつけた。
「なんなんだよ、お前っ! さんざん追っかけてきたり、カネをよこしたり! 大体、なんでなんにもしないんだよっ!」
「通りすがりの冒険者だよ。追っかけたのは仕事だからだ。もう片方の奴は、仲間か兄弟か? とにかくこれ以上、悪さをするなよ。……行こう、シェリィ」
財布は取り戻した。
あとは街の暗部を救済してこなかった、街の人たちの問題だと思う。
あの子をどうにかしたって──なんなら殺したって、どうせああいう子はたくさんいるんだ。
俺にできることなんて限られているし、ああいう子がいる時点で、多分、こども食堂みたいなものもない。
じゃあ、俺にできること? ……今、やったことくらいだ。
ため息をついて、地面に目を落とした時だった。
「……血?」
この獣人の少女を追いかけるので夢中だったから気づかなかったけれど、新雪の奥に、赤い点々が紛れている。
「……お前、怪我、してたのか?」
「知るかよ! そんな間抜けに見えるかよ!」
「じゃあ……この血はなんだ?」
よく見ると、争ったような雪の乱れが感じられる。
血が点々と続いてるってことは、何か、よくないことがあったってことだ。
「……おい、お前、名前をなんという」
「なん、だよ……教えねえぞ、そんなの!」
「分かった。じゃあ……キジトラ! お前、今からキジトラな。耳とかしっぽの柄が、なんとなくそれっぽいし」
「なんとなくで、勝手に変な名前をつけるんじゃねえよ!」
「じゃあ、本当はなんていうんだ?」
俺の問いに、少女は「ファ……」と言いかけて、はっとしたような顔になる。
「言うわけねえだろ!」
「じゃあキジトラに決まりな。おい、キジトラ」
「違うって言ってんだろ!」
「キジトラ、おい。仕事だ。俺の欲しい情報をくれたら、それを買ってやる。キジトラはこの辺りの区画、詳しいのか? おい、キジトラ」
「っか〰︎〰︎ッ! ファーシャ! あたしはファーシャってんだ! キジトラなんて、変な呼び方するんじゃねえっ!」
癇癪を起こして教えてくれた。……シェリィの時にみたいに、やたら発音しづらい名前じゃなくてよかった。
「じゃあファーシャ。改めて聞くけど、この辺りの区画は詳しいか?」
「お前なんかに言うわけねえだろ! 第一知らなかったら来るもんか!」
「じゃあ詳しいんだな。ありがとう」
そう言って、銅貨を一枚渡す。
「……え?」
「情報料だ。じゃあもう一つだけ教えてくれ。この辺りでヤバい連中が集まりそうな場所ってあるか?」
「知らねえっつってんだろ! ぶっ殺されるぞ!」
「なるほど、ありがとう。危険なんだな」
そう言ってまた銅貨を一枚渡すと、それまで毛を逆立ててこちらをにらみつけていた目が柔らかくなり、手の銅貨と俺の顔を何度も見比べ始めた。毛を逆立ててまっすぐ立てていたしっぽも、おとなしく垂れていく。
「それは裏仕事を請け負うような連中がいるってことか?」
「……何度も聞くんじゃねえよ! ただの、クソみたいなオトコたちが溜まってるってだけさ」
「分かった。ありがとう」
もう数枚の銅貨を握らせると、目を丸くして、俺と銅貨を何度も見比べる。
「本当はもっと聞きたいことがあるんだが、まあ、あとはなんとかなるだろう。ファーシャ、ありがとう。もう、スリなんかするんじゃないぞ」
そう言ってシェリィに声をかけると、シェリィも分かっていたみたいで、「こっち」と鼻をひくひくとさせる。
「……あんたら、行くのか?」
「一応、治安維持は俺たちの仕事の一部だからさ」
「や、やめとけよ、ぜったい、ロクなことが……」
「ありがとう。危険への警告、感謝する」
そう言ってもう一枚銅貨を握らせると、俺とシェリィは赤い点が残る道を駆け出した。
……そう思ったのに!
「い……いない⁉」
もう少しで追いつける──そう思って、細い路地に曲がった先。
そこには、誰もいなかった。足跡も途切れている。
「……馬鹿な、だってこっちに、確かに足跡が──」
道を半分以上ふさぐような木箱の先の道には足跡がなく、その中を見てみたりもしたけど、いない……!
いったいどこへ──そう思ったとき、シェリィが耳を動かし、「みつけた」と空を見上げた。
つられて上を見て、驚いた。
どうやって上ったのか、二階と三階の間あたり、すでに三階の窓の枠に手をかけてよじ上っている! いまさら気づいたけど、その子供の腰からは、しなやかな、猫のようなしっぽが生えていた。
「──獣人族!」
そうか! あいつは子供だけど、獣人だけあって身体能力が並みの子供よりもずっと高いんだろう。くそっ、このまま上まで上り切られたら逃げられる──そう思ったときだった。
「ボク、行くよ」
そう言ったシェリィが、「ふぅううううっ!」と力を入れ始める。
……だ、だめだ! 今ここでその姿を解放したら……!
そう思ったけれど、シェリィは一瞬だけこちらを見て、微笑んだ。
「だいじょうぶ。ボク、ご主人さまのおそば、はなれたくないもん」
顔かたちに変化は感じられないけれど、すこしだけ犬歯が伸びている──そんな微笑みだった。
「あおおおおおおんっ!」
遠吠えのような叫びと共に、地面を蹴り、壁を蹴り、さらに壁を蹴り──!
嘘だろ⁉
映画か何かか⁉
シェリィが、両側の壁を蹴りながら駆け上がっていく!
これには子供も驚いたみたいで、慌てた様子で飛び降りると、さらに路地の奥に駆け出した。だけどもう、あとは時間の問題だ! 狭い路地を抜け、角を曲がり、ついにそのしなやかなしっぽをつかむ!
「ひゃあんっ⁉」
「捕まえたぞ!」
「は、離せよクソっ! このスケベ野郎!」
体をひねって引っ掻いてくる!
兜をかぶってなかったら、ひどい目に遭っていたかもしれない──そんな音を兜が立てたことには驚いたけど、手を緩めるわけにはいかない!
「誰がスケベ野郎だ、スリ盗った財布を出せっ!」
「あんたの財布なんて盗ってないんだから関係ないだろっ!」
「俺の財布かどうかなんて関係ない! 盗んだものを持ち主に返すんだ!」
逃げようとするから、しっぽをつかんだ手をしっかり握って引き寄せる!
上から飛び降りてきたシェリィも、道を塞ぐようにして立ちはだかった。
「きゃあんっ⁉︎ し、しっぽから手、離せスケベ野郎!」
「財布を出して謝りに行く気があるなら、すぐにでも離してやる!」
「だれがそんなことするかよっ……きゃうんっ⁉︎」
思いっきりしっぽを握りしめると、「痛いんだって! やめろよスケベ野郎!」と再び引っ掻いてくる! 今度は予想できたから、左腕の小盾で受け止めるとその手をつかむ! 振りほどこうとしたところを、身長差を活かして吊り上げ、背中越しにもう片方の手首もつかむ!
ところがそれでも諦めずに噛みつこうとしてきたものだから、とにかく制圧するために地面に押し倒す! 雪の上で暴れるそいつに体重をかけて押さえつけると、「やめろ、やめろぉっ!」と悲鳴を上げた。
「ちくしょう! 離せよ! ガキだからって簡単にヤれると思うなよ!」
そう言って暴れるものだから、余計に手を離すわけにもいかず、とにかく押さえつける。くそっ、おとなしくしろって!
「はなせよっ! てめえみてえなスケベ野郎にしっぽ振ってサカってる犬女なんかと一緒にすんなっ! 突っ込んできたらてめえの短小×××なんか食いちぎってやるからなっ!」
……聞くに耐えない罵詈雑言が続く。スラム街に生きる子供ってこんなふうなんだ、と暗澹とした気持ちにさせられる。
というか、こいつ女の子だったのか──ますますやるせない気分になる。
「親はどこだ。大人しく財布を出せば、警吏や巡回衛士に突き出すのは勘弁してやる」
「スリの上前ハネる真似するヤツの言うことなんか、だれが信じるかよっ!」
「スリ盗った持ち主に返すだけだ」
「うるせえよ! だったら離せよ! なにが『親はどこだ』だよ、親なしのガキだって分かってるくせに! どうせヤって売るか殺すかしか考えてねえクセに!」
「なにを言ってるんだ、俺はただ、盗みを許さないだけで……」
「盗られる間抜けが悪いに決まってんだろ! みんなみんな、あたしからぶんどるくせに! だったらこっちが盗ってなにが悪いってんだ!」
また罵詈雑言の嵐。ついに我慢ができなくなったのか、シェリィが頭を蹴っ飛ばし、「ご主人さまのこと、これ以上悪くいうなら、お前、ゆるさない」と、その頭を踏みつけた。
「やめろ、シェリィ。足をどけるんだ」
「──やだ。ボク、こいつ、ゆるせない。ご主人さま、こいつがいうような、ひどいヒトじゃないもん」
「おまえだって毎晩、そこのスケベ野郎にオモチャにされてるんだろ! 知ってんだぞ、その首輪の意味!」
「ご主人さま、いつもボクのこと抱きしめてやさしくしてくれるもん!」
「ほらみろ! やっぱヤられてるじゃねえか! スケベ野郎相手にサカって腰振るのがそんなに楽しいか⁉︎ ああ楽しいのか、犬女はしっぽ振るのが仕事だもんな!」
シェリィが泣きそうな顔になって俺を見るものだから、とりあえずもう一度、こいつから足をどけるように言う。
それにしても、聞いていて、腹が立つよりも胸が痛くなってきた。
こんな子供が、ここまで酷い罵倒語を知っているってことは、この子の周りにはそういった言葉を使う連中で溢れているってことなんだろう。
日本でも、歌舞伎町あたりでうろつく奴らがそんな感じなのかもしれない。犯罪者で、どうしようもない奴らなのかもしれないけど、この世界には学校とかもなさそうだし、生きるのに必死なんだろう。
こんな小さな子供が背負うには、あまりにも過酷な運命に感じた。デュクスには呆れられるかもしれないけど、それが可哀想で、悲しかった。
「……とにかく、財布を出せ。お前に親がいないのも分かった。盗んだものだけを出せば、それ以上は何もしない。約束するから、大人しく言うことを聞け」
「死ね、腐れ×××! 子供のスリから上前はねるようなクズ野郎なんか×××が腐れ落ちて死んじまえ!」
ここまで人間不信の塊だと、どうしようもない。俺はため息をつくと、シェリィに、俺のポケットの中身を出すように言った。
「……ご主人さま?」
「いいから。こいつは、そうでもしないと納得しないだろうからさ」
そして、俺の財布の中から大銅貨を数枚出してもらうと、それをこいつの手に握らせた。
「な、なんだよてめえっ! 大人しくする気がねえって分かったら、はした金を握らせてヤろうってのかよ! だからてめえらニンゲンのオトコってのは──」
「財布が欲しかったってことは、とにかく当面の食べ物が必要だってことだろ? それだけあれば、何日かは食べていけるはずだ。スリじゃなくて、何か大人の手伝いをするような仕事をもらって、それで真っ当に稼ぐんだ」
「なにが真っ当だよ、てめえ冒険者だろ! ヒトを小突き回して小銭稼いでるてめえが偉そうにすんじゃねえっ!」
「──じゃあ、もう、そうするか」
俺は彼女の両手首を掴んでいる手を、徐々に押し上げていく。
「い、痛ぁいっ! や、やめ──」
「言っても分からないなら、もう、その通りにしてやるよ」
「え、あ──痛っ! きゃうっ……やめ、やめろ──やめろって!」
「シェリィ、こいつの手をつかんでいてくれるか?」
「うん」
シェリィに押さえつけさせると、俺はチビの足首を踏んで固定しつつ腰をつかんで持ち上げる。
「なにすんだ、離せっ! 入れたらホントに食いちぎって……や、やだ……やめろ、やめ……やめてぇっ!」
ついに泣き叫び始めたけれど、手を止めない。こいつが腰に括り付けていた、ボロボロの袋を一つ一つ外すと、中を確かめる。
「……え? な、なに、して……」
「ひとつ、ふたつ、みっつ……おい。お前が盗った財布は、これだけか?」
「あ……」
押さえつけられ、涙目になりながら頷いたのをみて、俺はため息をつくと、残りの袋を全て彼女の目の前に置いてやる。
「もう一度言うけどな。大人の仕事を何か手伝って、それで小遣いをもらうようにしろ。そういえば、冒険者ギルドでも、いつも手が足りないとか言っていた。探せば、なにかしらあるもんだ。とにかく、スリはやめろ。いずれ本当に殺されるか売られるか……未来がなくなるぞ」
そう言って、シェリィに解放するように言う。
「その手に握らせたお金は上手に使え。使い切る前に、仕事を見つけるんだ。いいな?」
シェリィが押さえつけている手を緩めずに、上目遣いに、俺に聞く。
「……ご主人さま、いいの? こいつ、ぜったい、また悪いことするよ。仕返しだって……」
「いいんだよ、もう。スられた財布も取り返したしな。あとはこの財布を持ち主に返すだけだ。そもそもこいつが生きている環境が、悪すぎるのが悪いんだ。だからもう、放してやるんだ」
シェリィが不満げにしながらも、押さえつけていた手を離すと、チビは手首をさすり、俺たちをにらみつけながら、ゆっくりと身を起こす。そして手の中の大銅貨を見て驚き、並べられた彼女自身の腰袋を一つ一つ手に取って、「……な、なんなんだよ、お前」と、俺をにらみつけた。
「なんなんだよ、お前っ! さんざん追っかけてきたり、カネをよこしたり! 大体、なんでなんにもしないんだよっ!」
「通りすがりの冒険者だよ。追っかけたのは仕事だからだ。もう片方の奴は、仲間か兄弟か? とにかくこれ以上、悪さをするなよ。……行こう、シェリィ」
財布は取り戻した。
あとは街の暗部を救済してこなかった、街の人たちの問題だと思う。
あの子をどうにかしたって──なんなら殺したって、どうせああいう子はたくさんいるんだ。
俺にできることなんて限られているし、ああいう子がいる時点で、多分、こども食堂みたいなものもない。
じゃあ、俺にできること? ……今、やったことくらいだ。
ため息をついて、地面に目を落とした時だった。
「……血?」
この獣人の少女を追いかけるので夢中だったから気づかなかったけれど、新雪の奥に、赤い点々が紛れている。
「……お前、怪我、してたのか?」
「知るかよ! そんな間抜けに見えるかよ!」
「じゃあ……この血はなんだ?」
よく見ると、争ったような雪の乱れが感じられる。
血が点々と続いてるってことは、何か、よくないことがあったってことだ。
「……おい、お前、名前をなんという」
「なん、だよ……教えねえぞ、そんなの!」
「分かった。じゃあ……キジトラ! お前、今からキジトラな。耳とかしっぽの柄が、なんとなくそれっぽいし」
「なんとなくで、勝手に変な名前をつけるんじゃねえよ!」
「じゃあ、本当はなんていうんだ?」
俺の問いに、少女は「ファ……」と言いかけて、はっとしたような顔になる。
「言うわけねえだろ!」
「じゃあキジトラに決まりな。おい、キジトラ」
「違うって言ってんだろ!」
「キジトラ、おい。仕事だ。俺の欲しい情報をくれたら、それを買ってやる。キジトラはこの辺りの区画、詳しいのか? おい、キジトラ」
「っか〰︎〰︎ッ! ファーシャ! あたしはファーシャってんだ! キジトラなんて、変な呼び方するんじゃねえっ!」
癇癪を起こして教えてくれた。……シェリィの時にみたいに、やたら発音しづらい名前じゃなくてよかった。
「じゃあファーシャ。改めて聞くけど、この辺りの区画は詳しいか?」
「お前なんかに言うわけねえだろ! 第一知らなかったら来るもんか!」
「じゃあ詳しいんだな。ありがとう」
そう言って、銅貨を一枚渡す。
「……え?」
「情報料だ。じゃあもう一つだけ教えてくれ。この辺りでヤバい連中が集まりそうな場所ってあるか?」
「知らねえっつってんだろ! ぶっ殺されるぞ!」
「なるほど、ありがとう。危険なんだな」
そう言ってまた銅貨を一枚渡すと、それまで毛を逆立ててこちらをにらみつけていた目が柔らかくなり、手の銅貨と俺の顔を何度も見比べ始めた。毛を逆立ててまっすぐ立てていたしっぽも、おとなしく垂れていく。
「それは裏仕事を請け負うような連中がいるってことか?」
「……何度も聞くんじゃねえよ! ただの、クソみたいなオトコたちが溜まってるってだけさ」
「分かった。ありがとう」
もう数枚の銅貨を握らせると、目を丸くして、俺と銅貨を何度も見比べる。
「本当はもっと聞きたいことがあるんだが、まあ、あとはなんとかなるだろう。ファーシャ、ありがとう。もう、スリなんかするんじゃないぞ」
そう言ってシェリィに声をかけると、シェリィも分かっていたみたいで、「こっち」と鼻をひくひくとさせる。
「……あんたら、行くのか?」
「一応、治安維持は俺たちの仕事の一部だからさ」
「や、やめとけよ、ぜったい、ロクなことが……」
「ありがとう。危険への警告、感謝する」
そう言ってもう一枚銅貨を握らせると、俺とシェリィは赤い点が残る道を駆け出した。
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そしてユートは荷物を取りに行くため自宅に戻ると、そこには腹をすかした猫が、道端には怪我をした犬が、さらに船の中には女の子が倒れていたが、それぞれの正体はとんでもないものであった。
これは自重できない異世界転生者が色々なものを拾った結果、トラブルに巻き込まれ解決していき成り上がり、幸せな異世界ライフを満喫する物語である。
才がないと伯爵家を追放された僕は、神様からのお詫びチートで、異世界のんびりスローライフ!!
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そう、ノエールは転生者だったのだ。
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